第10話
リューイが別れ際にコモへかぶせた帽子は、紺一色のシンプルなものだった。何のロゴも、模様もない。野球をやる人がかぶるやつみたいだな、とコモは思う。
時刻は午後二時過ぎ。強い日差しは背の高いビルに遮られ、蒸れた空気だけが停滞している。コモは無人の路地裏、ビルとビルの隙間にぽつりと開いた空き地の前に立っている。ほんの数瞬前まで、リューイが降り立っていた場所。
リューイは来た時と同様に、姿を消して飛び去った。今から二時間後に迎えに来ると約束して。その間にコモは、着替えを買い揃えなければならない。
いつもならばコモは『おじいちゃん』から渡されたカードで買い物を済ませている。お小遣いとして小銭もいくらか持たされてはいたが、あまり使ったことはない。しかし今のコモの財布には、今までに持ったことの無い量の小銭と千円札が詰め込まれている。パンと同じく、リューイが吐き出しコモへ与えたものだ。
カードでの買い物はもうできない。
カードで支払えば、どこで何を買ったのかを詳細に記録されてしまう。それでコモが、引いてはリューイがどこにいるのかが筒抜けになってしまう。リューイがコモへ教えてくれたことだ。
これからの買い物は全て現金で済ませる。調達は、リューイがすると約束してくれた。
街の外へ買い物に行くのは、コモの夢のひとつだった。『紙のお金』で支払うのもそうだ。それなのに、コモはあまり心が踊らない。
理由をコモははっきりと自覚できていた。
ひとりでの買い物だからだ。コモは、誰かと――友達と、買い物がしたかったのだ。
てっきりコモはリューイも一緒に来るものだと思っていた。なにせ着替えを買いに行くことを提案したのはリューイだ。それならリューイ自身も来るのが道理だろう。それなのに、リューイは今ここにいない。
コモは唇を尖らせる。不機嫌を表情に出しても、気遣ってくれる相手はいないのに。
「ぼくが一緒にいたら目立つよ」
リューイの台詞が耳の奥に蘇る。透明になれる癖に。コモは帽子のつばを持ち、苛立ちのまま引き下げる。
紺色の、無愛想な帽子。
コモはその帽子の出自を知っている。リューイが襲ったトラックの運転手がかぶっていたものだ。リューイが自身の燃料とするため、人里離れた山道で『食べた』。そのトラックに乗せられていたものは、後にコモが食べた。
運転手がどうなったのかもコモは知っている。再びリューイへ搭乗し、『繋がった』時に知った。
しかしコモに特別な感情は無い。運転手のことをコモはよく知らないし、不幸な事故にあった人ほどにしか感じられない。
だってライオンだってシマウマを食べるし。あたしが食べるものだって、もとはみんな生きていたものだよ?
コモは誰にともなく、呟いている。不機嫌な低い声を、路地裏に落とす。
聞くものは、いない。
このまま立っていても仕方ない。コモはゆっくりと細い道を進む。財布を入れたポケットに、指を引っ掛けながら。ショートパンツのベルトループと財布を繋ぐ細い鎖が、歩みに合わせて微かに鳴った。
コモが街を出てから、ほぼ七時間。いつも通りであれば、コモはまだ学校にいる時間だ。サボったりすればその限りでもないが、ともかく、まだ自宅に帰らずとも不審に思われない。つまり、コモが街を出たことはまだ『おじいちゃん』に知られてはいない。
誰もまだコモを探していない。それでもリューイは、念のためと言ってコモの髪を隠した。鮮やかな桃色の髪を、地味な紺色の帽子で。
それもまたコモは気に入らなかった。リューイの行動はコモを心配してのことだと、わかってはいる。
でも桃色の髪は、コモが望んで染めたのだ。自分に一番似合う色だと思って。春に咲く花のような、かわいい色に。
それを隠せと言われるのは、自分自身を否定されているように思えてしまう。
先生に言われた時は、そんなことなかったのに。
コモは数ヶ月前、放課後にコモを呼び出した女教師の姿を思い出している。居残りを命じられたのは初めてだった。教師は誰もがコモに触れたがらない。物理的にも、その存在にもだ。コモが何をしても、何をしなくても、何も言わない。コモではなく、コモの保護者がそうさせている。
コモの『おじいちゃん』を周囲の大人は『先生』と呼ぶ。でも学校の先生ではない。変なの、とコモは常々思っている。『おじいちゃん』はコモにとっては、時々しか顔を合わせない、いつも忙しくしている、けれどコモにはニコニコとした顔しか見せない祖父、という印象しかない。
コモがきちんと物事を記憶できるようになってからの家族は、おじいちゃんと家政婦のミチコさんだけだ。
コモの周りの大人は、そして大人から何か言われてきた子どもは、みんなコモのおじいちゃんを恐れていた。海辺の街に古くから住む人ほど、強く。
誰もコモを恐れていなかった。恐れていたのは、コモの背景だったのだ。
背景ではなくコモだけを見てくれたのは、あの女教師だけだった。
「元気かな」
なんだか今日は先生のことをよく思い出すなあ、とコモはスニーカーのつま先に語りかける。
コモが立つ路地、ビルとビルに挟まれた毛細血管めいた道の先には、強い日差しが落ちている。全てが白く発光しているような、眩しい景色。コモは帽子の影から、目を細めて見ている。
車一台がかろうじてすれ違える程度の通り。だが今は車の姿はない。コモの見える範囲では、人の姿も。
一歩。コモは細い路地から通りへと踏み出す。肌に陽が射す。うっすらとかいていた汗が、瞬時に蒸発して少しだけ寒さを感じる。その後は、ただただ暑い。
商店街だろうか、とコモは判じた。コモの見える範囲、道の両脇には様々な種類の店が並んでいる。ある店は道にはみ出す程の服を並べ、ある店は食欲をそそる匂いを振りまいている。目にも鮮やかな看板を立てている店もあれば、一見してなにを商っているのかわからない落ち着いた佇まいの店もある。コモが知っている商店街はもう少し質素な、悪く言えば寂れたものであるが、ともかくコモの知識の中では、ここは商店街であるように見えた。
平日の午後、にしては人の姿が多いように思えた。緩やかなカーブを描く道の中、年齢も性別も全く違う人がぽつりぽつりと歩いている。コモの街では、この時間に出歩いているのは老人が多い。そもそも老人の割合が多い街であるのだが、それを鑑みても、この商店街を歩いている若者の数は多く見えた。
コモは容易くその中に紛れ込む。街では、この時間に出歩くコモの姿はとても目立った。目立つからといって、例えば補導されたりだとかをするわけではない。なのだが、どこへ行っても自分はここにいて良い人間ではない、と誰にともなく言われているようで、街でのコモは疎外感から逃れることはできなかった。誰もがコモを知っているのに、誰もがコモを受け入れない。孤独だった。
ここには、コモを知る人はいない。けれど、少なくともこの商店街は、コモの存在を風景のひとつとして受け入れていた。誰もコモを知らないからこそ、コモはこの場所に在ることを許されている。ひとりだが、寂しくはない。
さて、とコモは小声で呟く。僅かな高揚感と共に、帽子のつばに触れる。
「服を」探さなければ。
通り沿いの店に視線を走らせながら、ゆっくりと歩みを進める。夏の日差しに晒されたコンクリートから、熱気が立ち上る。頬が熱いのはそのせいか、はたまた。
ショーウィンドウの向こうに銀色のアクセサリーが並べられている。蝶をモチーフにした指輪に目が止まる。けれど今は服を探しているのだ。短い後ろ髪を引かれながら後にする。
カラフルなスニーカーが立ち並んでいる。その隣には高いヒールのパンプスが。大人びたそのシルエットは、自分に似合うだろうか。
「良いと思う」幻聴を聞きながらも通り過ぎる。
淡い色彩のキャミソールや下着が、恥ずかしげもなく、むしろ堂々と通りに向かって並んでいる。ビビットな色合いのひとつに目が止まる。視界の隅に見える、自身の髪と似た色だからだろうか。手足が長いだけで、胴体はどうしたって真っ平らな自分を思い、必要性の無さに落胆する。
「買うだけ買ってみてもいいんじゃない?」きっとリューイは、自分と同じような声音で大人びた物言いをするだろう。
いやむしろ、「服を買いに来たに、違うものを買うのは良くない」と言うかもしれない。
「コモが好きなものを買ったらいい」
いやきっと、リューイならそう言う。コモは帽子の影で小さく笑う。
「今、なにしてんだろ」
顔が無いからだろうか、常に飄々としたあの生き物は。コモが買い物を終えるまでの一時間を、ただ空を飛んで待っているのだろうか。それともどこかに降りて、犬のように座って。
「おみやげ」
リューイにも、何か買っていこう。コモはひとり、自身の考えに頷く。
怒っていたはずなのに、何を見てもリューイのことを考えてしまう。なぜだろう。コモは空気の中に焼き立てのパンの香りを感じながら、首を傾げる。
今までは、自分のことだけを考えていた。時々おじいちゃんとミチコさんのことを。そして極稀に、もう居ない両親のことや、先生のことを。今は何を見てもリューイのことばかりだ。自分の好みよりも、リューイの反応を考えてしまう。その代わりにだろうか。街中での孤独が心地よい。
からん、と高く澄んだ音が聞こえた。そう思った瞬間。
「ッひゃ」
眼の前に現れた壁にコモは声を上げていた。ぶつかる、と咄嗟に後ろに下がろうとして足がもつれる。二度目の悲鳴と共に尻から転んでしまう。衝撃。そして鈍痛。
「え、うわ」コモが痛みに呻く中、裏から人が現れ、壁は消えた。
背が高い、とコモはその男性を認識した。クラスの男子とは違う。大人の男の人だ。
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