第9話

 見上げる空は高く、青く、澄んでいた。雲ひとつない青空だ。太陽の位置は高い。強い日差しは容赦なく肌を焼く。ただ標高のせいか、街中に居るよりも涼しく感じられる。

 もしくは、周囲を水に囲まれているせいか。

 コモは水に浮いている。仰向けで、空を見上げながら。

 その泉は連続する山と谷の合間、唐突に現れた。湧き水か、溜水かはコモにはわからない。ただ鮮やかな緑の水草が茂る水に、足を浸してみたいと思った。時刻はコモにとって丁度給食の時間に差し掛かろうかという時だった。良い頃合いだ、というわけで休憩することにした。

 コモは今ひとりきりだ。リューイは燃料を調達してくる、と言って飛んでいった。用を足してからすることもなかったので、足だけでは飽き足らずこうして泉に浮かんでいる。そういえば今日は体育があったはず、と思い出したのだ。

 コモはひとりきりだが、寂しくはなかった。学校でのプールの時間の方が、余程寂しかったと思えるくらい。

 学校に、コモを待つ人は居ない。コモが待つ人も、居ない。

「リューイ」まだかなぁ。

 呟く声音は水面に紛れる。

 静かだった。時折遠くで鳥の声や葉擦れの音が聞こえるくらいで、後はコモが掻く水の音だけが場を支配している。

 水に浮きながら、コモは薄い胸の中の鼓動を聞いている。じっとりと肌に張り付く濡れたキャミソールの下、血潮は熱く流れている。水面に没している背中は冷たく冴えている。れーせーとじょーねつのあいだってヤツかしら。コモは口元に笑みを浮かべながら、中身を知らないタイトルを思い浮かべている。

 リューイの飛行は静かだ。鳥のような羽ばたきや、飛行機のようなエンジンを必要としないため、空を切る以外は何の物音も立てない。リューイの飛行原理をコモは説明できない。ただリューイと『繋がった』結果、歩くようにごく自然なこととして『飛べる』と理解している。

 リューイとの『繋がり』はコモに色々なことを教えてくれた。過去や機竜の能力など、リューイのことだけではない。今までなんとなく利用していた携帯端末やインターネット、その根幹を成す数学や科学のことまで。リューイの持つ知識が、コモに共有されている。

 コモの十年と少しの知能で使いこなせるかは、別として。今の所は、背表紙しか見たことの無い本のように、コモの中に蓄積されている。

「……あ」

 きた。コモは空を見上げる格好から身を起こし、飛沫を巻き上げ岸辺へ向かう。泉はコモの腿程度の深さしかない。

 リューイの姿はまだ見えていない。それでもコモにはリューイが来たことがわかっていた。それもまた、『繋がり』による副産物だ。

 水を滴らせながら岸へ上がる。コモが青い草を踏むのと、リューイが泉の上空に舞い降りるのは、殆ど同時だった。

「コモ、おなかすいてる?」

「うん!」

 ゆっくりと棘を寝かせ、リューイは静かに地へと降り立つ。物音も無く、木々を揺らさず。二対の棘が柔らかく草を踏む。

「わ」

 駆け寄ったコモの前に音を立てて積み上げられたのは、ビニールで包装された塊。リューイはそれらを口腔から吐き出した。

「好きなの食べなよ」

 パンやおにぎりと言った、コンビニで見かける食べ物だった。

「どうしたのこんなに!」

「ついでに、見つけたんだ」

 コモは歓声を上げながら、小山を成すパンやおにぎりを切り崩す。初めて見るものではない。近所のコンビニでよく見かけるものばかりだ。ミチコさんにはあまりいい顔をされなかったが、何度も食べたことがある。

 それでも今のコモにとっては、目の前のそれらが真新しく、珍しいものとして目に写っていた。

 食物の山を挟み、コモはリューイと向かい合うような格好で座り込んだ。濡れた下着で、地面に直接。青い草を座布団代わりにするのは初めてだ。

 イチゴジャムとマーガリンの挟まれたコッペパンにかじりつく。

「おいしい!」

「よかった」

 リューイの声音は柔らかい。

「濡れてるけど、フユカイじゃない?」

「んーん。暑いし、そのうち乾くよ」

 口の中のパンを咀嚼するコモは、頬を流れた水滴を手の甲で拭った。事実、肌に張り付いているキャミソールは既に乾き始めている。濡れた下着が尻に触るのは気になるが、それも日に当たっていれば乾くだろう。それよりも目の前のコッペパンを食べることのほうが、今のコモには大事だった。

 リューイは首を傾げている。

「ん?」

 つと、リューイの棘がコモの頬に触れた。犬のような格好で座るリューイの、前二本の棘から分かたれた棘だ。パンとおにぎりの山を越え、コモに伸ばされている。柔らかい、とコモは思う。

「平熱だね」

「うん」

 コモのよく動く顎を辿り、リューイの棘はぽつりと水滴を落とした。

 水を取ってくれたのかな、とコモはリューイの行動の理由を考える。

 リューイの棘は、次いでコモの桃色の髪に伸ばされた。濡れて色を濃くした髪は、未だ毛先からいくつも水を滴らせている。

「いいよ、ほっといて」

「でもフユカイじゃない?」

 器用に動く棘は、コモの肩口程度の長さしかない髪を掬い上げ、絞っている。ぱたぱたと背後に落ちる水の音を、コモはコッペパンの最後の一口を口に放り込みながら聞いていた。

「痛くない?」

「んーん」

 コモはゆるく首を振る。その動きに合わせ、リューイの棘はコモの髪について回る。

 コモはリューイの顔を見上げていた。もう一つ、パンかおにぎりかを貰おうかな、と思いながら。

 自身の髪を熱心に絞る生き物の顔には、やはり表情というものがない。表情を作る要素がひとつも無いのだから当たり前だ。

 それなのに『熱心』であるとコモは感じている。それは髪に触れる棘の力加減であるとか、目は無いものの感覚器官はあるであろう顔の動きといった、複合的な要素からの予想だ。

 その熱心さが、コモには心地よかった。それはかつてコモの担任であった教師や、仕事の範囲を越え何くれと面倒を見てくれる『ミチコさん』を思い起こさせる行動だった。どちらも本心からコモを思ってくれていると、そう確信できた。

 リューイもそうだ。髪に触れる棘の柔らかさは『本当』だと、コモには思えた。

「着替えを探したほうがいいかも」

「そう?」

「服を着替えないと、人はフユカイなんでしょ」

「そうだけど」

 リューイがいれば大丈夫。そう言おうとして、コモはなんとなく気恥ずかしくなる。誤魔化すように、パンとおにぎりを掻き混ぜる。

「食べたら出発しよう」

 リューイの棘は最後にコモの頭頂部を微かに撫で、離れた。

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