第5話
コモの目の前に、リューイの凹凸の無い頭が寄せられる。早朝の光の中、そのつるりとした表層にはコモの表情が映り込んでいる。期待と、興奮とで紅潮するコモの顔が。
割れた。
「あ」
それは昨日、空き缶や廃棄物を咀嚼していた時と同じ変化だ。百合の開花を思わせる開口。
意図せず覗き込む形になったコモは、闇を見ている。リューイの口の中、そこに歯や舌は無い。ただ艶の無い黒に塗りつぶされている。底なしの、夜空に似た色。食べられる、とコモの思考に初めて小さな恐怖が生まれた。
「こわがらないで」
その声は、どこから聞こえているのだろうか。コモには、目の前の口から聞こえたようには思えなかった。リューイの声は、リューイの身体全体から聞こえてくる。コモと同じ少女のようにも、同年代の少年のようにも聞こえる声。温順な声音は、コモの恐怖心を容易く溶かす。
「うん」頷く。大丈夫、と声に出さずもう一度頷く。恐れは好奇心と初めての友情に打ち消された。
闇に包まれる。
視覚に次いで、上下の感覚が消失した。足の裏にあったはずの地面は既に無い。立っていたはずの足すらも、あるかどうか不確かだ。
音も、何も聞こえない。先程まで意識せず聞いていた蝉の声や、遠くを往来する車の音も聞こえない。完璧な無音だった。
あたたかい、とまずコモは感じた。人肌に触れているような、安らぐ温度に包まれている。
次いで、全身を柔らかく締め付けられている、と感じた。布のような、柔軟で滑らかな何かに巻かれて抱かれているようだ。その感覚で、ようやっと自身の身体を認識する。
「コモ、聞こえる?」
聴覚が復活した。否、それは耳で、鼓膜で聞いている『声』ではない。コモは声だと認識しているが、実際にはコモの脳裏に直接届けられる『声』であった。純粋な、意志とも言い換えられる。
「聞こえるよ、リューイ」
コモは不可思議に響いて聞こえるリューイの『声』に、自身の声で返した。
「この姿勢で大丈夫?」
コモを締め付ける何かが、コモの肢体を柔らかく押し、持ち上げ、何らかの姿勢を取らせようとしている。上体を僅かに持ち上げ、両の手足を投げ出すような格好。椅子の背もたれを思いっきり倒し、くつろいでいる自身をコモは思い描く。
「こんな感じ?」
腿が持ち上げられ、腰の傾斜が修正される。コモは口に出さずに成されたリューイの修正に気付かない。
「こんな感じ!」
ただ無邪気に答えるだけだ。
「わ」
最後に戻ってきたのは視覚だった。淡い光が灯り、コモは唐突な視界の復活に目を瞬く。
コモの鼻先数十センチ、灯されたのは小さなモニターだった。黒い画面に、読み取れない速度で文字が流れていく。コモは早々にモニターの上を流れる文字を追うことを諦める。
見渡す空間は狭かった。殆ど寝そべるようにして座るコモの周囲、手を延ばす隙間も無い程間近に壁は迫っている。ぼんやりとしたモニターの光では、壁の色は判別できない。コモの目には、直前に見たリューイの口の中と同じ色に見えている。つや消しの闇。触れてみたその感触も、リューイの肌と似たものに思えた。
息苦しくなりそうな空間に突然押し込まれても、コモは平静だった。むしろ落ち着いてすらいた。背負っていたはずのランドセルの行方に思いを馳せる余裕すらあった。
それは幼さから来る危機感の無さであり、また純粋さから来るリューイへの信頼でもあった。出会って正味一日も経っていないリューイへ対して、コモは既に全幅の信頼を寄せている。昨日助けたリューイが、自分を害するはずがない。そう思い込んでいる。
「リューイ、あたしどうしたらいい?」
「宣言して」
「何を?」
「僕と戦ってくれるって」
せんげん、とコモは繰り返した。宣言、という言葉の意味を、コモは深く理解できない。その言葉から思い起こせたのは、運動会の開会式。代表の生徒が、他の生徒たちの前で声を上げる光景。
コモは寝転がったまま、右腕を出来る限り高く掲げる。間近に迫る壁のせいで、コモのイメージとは違い軽く腕を上げただけの格好になってしまったが、妥協する。
「あたしは、リューイと一緒に、ええと正々堂々、力いっぱい戦うことを、誓うよ」
これでいいのかしら、という疑問は言葉の端々に漏れ出している。ただ、『誓う』というその言葉にだけは、一片の疑問形も差し込まれていなかった。
《搭乗者を登録しました》
「わ」
突然響いた己でもリューイでもない声に、コモは驚きの声を上げる。なに? と左右を見回すが、見えるのは壁ばかりだ。他に人の入り込む隙間は微塵もない。
「ありがとう、コモ。これで戦える」
リューイは第三者の声に驚く様子も無い。いっそ穏やかな声音で、コモに告げる。
「コモは、何もしなくて大丈夫。ただ、僕と一緒にいてくれるだけでいい」
「いいの?」
「うん。じゃあ、行くよ」
え、もう? と続けるはずだった言葉を、コモは飲み込む。飲み込まざるを得ない。
「う、わ」
コモの目に見えるのは、暗く狭い空間だけのはずだ。コモの知識と経験では、人は自身の顔の前方、目で捉えられるものしか『見えない』。そのはずだ。
だが今、コモには青い空が『見えて』いる。早朝の、鮮やかに透き通る空と、遠くに浮かぶレースのカーテンに似た雲が。
それだけではない。コモには『聞こえて』いる。自身の息遣いしか聞こえないはずの耳に、幹線道路を走るトラックの強烈なエンジン音が。熱され始めたコンクリートの上を歩く犬の爪の音が。共に歩く飼い主のスニーカーが砂利を踏む音が。海から吹く風が木々を揺らす音が。
コモは『感じて』いる。身体を撫でる風を。次第に強くなる日差しの熱を。柔らかく乾いた地面を。
コモの感覚は、確かに狭い空間の中にある。小さなモニターの僅かな灯りと、自身の呼吸と、人肌に似た座席の手触りを感じている。
しかしそれと同時に、あまりにも膨大な量の感覚をも受け取っている。自分のものではない感覚を。自分には持ち得ない感覚を。
「リューイ」コモは呼んでいる。
「びっくりした?」ごめんね、とリューイは平坦に告げる。
これはリューイの感覚だ。コモは天啓に似た思考で理解している。二重に届けられる感覚、それは先程からコモに聞こえている、リューイの声と似た手触りだったのだ。目や耳や皮膚を通さず、直接頭に流し込まれる、鮮烈な感覚。
リューイの身体は、コモとは全く違った形をしている。そこから届けられる感覚には、コモには無い器官からのものも多い。リューイの持つ棘の一つひとつに、感覚はある。
それをコモは、指先に似ていると思った。背中にくっついた、長い指。それでコモは(リューイは)地面に立っている。コモ本来の指先は、閉ざされた空間で自然に拡げられ、座席の上に投げ出されている。
コモにはどこにあるのかわからなかった目は、コモの経験したことの無い広さの視野を持っている。正面だけではなく、背後や頭上、足元も見えている。目が回りそうだな、とコモは思う。思うが、その内慣れるだろう、と楽観的に視野の広さを楽しんでいる。
「大丈夫そうだね」
うん、とコモは頷く。頷くことで、自分自身の身体感覚が強くなり、リューイの感覚は遠ざかる。なるほど、あんまり動かない方がいいのね。そうコモはひとりごちる。
「あ」
ぞわ、とコモは背を震わせた。悪寒。それは目でも耳でも皮膚でもない。身体に依らない感覚、霊感とでも言うべき第六感。それに響くものがあったのだ。コモのものではない。リューイの感覚に。
「だれ?」
コモはそれを気配だと思った。真夜中、暗闇の奥に潜むもの。人の根源に根ざした危機感。自分に危害を加えるものへ抱く、恐怖。
「来るね」
リューイの声は、あくまで平静だ。いっそ無関心にも聞こえる。
だがその泰然とした物言いが、コモを落ち着かせた。何の心配もいらない。リューイの声音はそう告げている。コモは確信している。
「あれは、ぼくが戦わなくちゃいけない相手」
「うん。あたしも一緒に」
「そう、戦うんだ」
「戦う」強く、コモは頷いた。ぎゅ、と拳を握る。二重写しの感覚が遠ざかり、コモ自身の感覚が強くなる。
コモは深く、息を吸った。胸の中、心臓が大きく脈打っている。思い起こしたのは、やはり運動会だ。五十メートル走の直前。横並びに位置についた、あの瞬間。
「いこう」
「いくよ」
一緒に。コモは呟いた。
目を閉じる。
同時、コモは『目を開いた』。
空が見える。青く高い空が。気配の主は見えないが、確実に近付いてきている。コモには、リューイにはわかる。接近を、殺意を隠そうともしない『追跡者』の存在が。
コモはリューイに尋ねずとも、『追跡者』の正体を知っていた。コモの感覚としては、思い出す行為に近い。コモは自身の記憶ではない記憶を、リューイの経験を、『思い出して』いる。
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