第2話
海からの風は、絶えずぬるく湿った匂いを運んでいる。海沿いの遊歩道に人影は無い。夕暮れ、とは言っても真夏である。未だ熱気の残る空気の中、好き好んで出歩く人はいない。
コモを除いて。
コモは、ひとり海を見ている。額に浮いた汗もそのまま。遊歩道の欄干に寄りかかり、すでにぬるくなりかけているオレンジジュースを啜って。音楽の授業はどうしたかな、と抜け出してきた小学校に思いを馳せている。
コモの手足は長い。小学生相当の顔の幼さにしては、アンバランスなほど伸びている。桃色に染めた髪と合わせ、背後から見れば被服センスが幼い大人のようだ。しかしコモは小学四年生だ。
特に何か思惑があったわけではない。ただなんとなく、コモは給食を食べた後、学校を抜け出した。強いて言えば、その直前の授業で見た、世界地図の所為かもしれない。
海が見たい。
昼休みの終了を告げる鐘が鳴る中、そう呟いて歩いた。歩いて、休んで、歩いて、そしてここへ辿りついた。海を見るために。
港の近い海は淀んでいる。眼下の海面はわずかに泡立ち、菓子袋や空き缶が所々に浮かんでいる。生焼けの魚のような匂いもする。
だからコモは遠くを見ている。暮れかける空と海の狭間、水平線の向こうを想像している。授業で習った世界地図を思い出し、次の大陸にたどり着けるまでの余白を想う。紙面で見る太平洋の青さを。そこにあるはずの、コモの知らない世界や、生き物や、物語を想う。夕日を背負って。
「全然黒いじゃん」ひとりごと。期待とは違う、海への文句。
その言葉と重なる音があった。ぱしゃん、という、水の跳ねる音。
それは時折コモの足元から聞こえていた音に近い。引いては寄せる波が、コンクリートの壁に爪を立てる音。
ただ、今聞こえた音は、それと近いがそれとは違う。もっと、固体が液体を割った時のような、卵の殻が割れるような、爆ぜる音。
コモは視線を足元へ落とす。水音の聞こえた方へ。
履きなれた白いスニーカー。そこへ近付くものがある。観光客を意識した、レンガ敷きの歩道の上に広がる、色。それは本来、色彩を持たないものだ。他の色を映し、仮初の色彩を得るに過ぎない。水。今は黒に近い濃い色で、歩道の上に広がっている。コモの視線は、その発生源を見つけている。ついさっきまでは、無かったはずの存在。
コモの両手のひらで、掬い上げられそうな大きさ。のっぺりとした白い塊。コモは咄嗟に『それ』をなんと呼んで良いのかわからない。
それは水たまりの真ん中に落ちている。水たまりは海と遊歩道を分ける、欄干の下から続いている。白い塊が、たった今海から這い上がってきたことを示唆している。
それは曲線で出来ていた。空から落ちてきた水滴を、そのまま固めたような。一方が尖り一方がぽてりと丸い形をしている。コモは感覚で、尖る方を頭と認識している。頭の逆、丸く膨らんだ部分には、毛束か草のようなひょろ長いものが無数に張り付いている。
それは一見すると、陶器で作られているようだった。触ればつるつるとしていそうな、光沢のある見た目をしている。今は無数の水滴に濡れている。
もぞり、と。それは動いた。細長い頭と、無数の毛の生えた胴体を震わせた。生きてる、とコモは思う。
尖る部位が、何かを探すように左右に振れた。その動きで、コモはその部位が頭である、という確信を強めた。
「生きてる?」コモは視線を合わせるようにしゃがみ込む。
とは言っても、コモが頭だと認識し、また未だゆっくりと左右に振られているその部位に、およそ目と思しき部位は無い。
「ねえ」その声が聞こえているのだろうか。振られていた頭が止まった。
ぶる、と謎の物体が震える。同時、胴体にへばりついていた長い毛が、広がった。
ウニだ、とコモは脳裏に浮かぶものをそのまま口に出している。『それ』にへばりついていた毛は、一本一本をぴんと立たせると棘のように見えた。よく見れば、棘にはうっすらと縞模様がついている。
棘は、広がる唐突さとは真逆に、慎重にも思える速度で下げられた。幾束かは、胴体に沿わず地に立てられる。
『それ』は、棘を四肢のようにして立ち上がった。おお、とコモは感嘆の声を上げる。
「おなかへってる?」
コモは手を差し出していた。道端で、犬か猫を見かけた時のような反射。
『それ』は、よろよろと頼りのない歩みでコモの手へと擦り寄った。細長い首を、コモは撫でる。思った通りの、つるりとした手触り。水に濡れ、冷えているのかと思いきや、冷たくない。だが温かくもない。
「なにか食べるの……のむ?」
コモは、飲みかけのオレンジジュースを手のひらに垂らす。ほら、と顔の前に差し出す。
「いらない?」
『それ』は、手のひらのくぼみに溜まるオレンジ色の液体には興味を示さない。その代わりに、コモの反対側の手へと首を伸ばす。
「こっち?」懸命に伸ばされる、細い首。コモはオレンジジュースの缶を『それ』の前へと置いた。
ぱ、と。口すらあるのかわからなかった、『それ』の頭が『開いた』。花が咲くように。
こきくしゃ。クッキーでも齧るような、軽やかな音。コモは、『それ』の口から点々と垂れ落ちるオレンジ色の雫を見下ろしている。
「食べちゃった」
あは、とコモは笑う。驚きから生まれる、反射的な笑いだ。
「きみ缶食べるんだ。すごいねえ!」
『それ』は先程よりもしっかりとした歩みでコモの足元にすり寄った。その仕草は猫に似ている。しかし『それ』は猫とは似ても似つかぬ、それどころかコモが知っているどの生き物とも違う見目をしている。
「もっと食べる? あたし缶があるとこ知ってる」
未知の生物に対してコモに生じた感情は、恐怖ではない。新しい本を開くことに似た、好奇心だった。
この生き物をもっと観察していたい。それだけがコモを突き動かしている。
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