#22 私は生き残ってしまった。
十二月末。某日。昼過ぎ。
その日は朝から雪がちらついていた。
陽は早くに落ち、うっすらと暗くなり始めている。
喫茶店から帰宅したヨウコはコートについた雪をはたき落とし、そこで異変に気付く。
家の中が暗い。だが玄関の鍵は開いている。
「……ただいま」
念のため、小さく呟く。
靴箱にはビニール傘が一本。
母親の応答はない。いつもなら台所にいて声をかけてくれるはずだ。
なのに、物音一つしない。警戒に身体を強ばらせつつ、ヨウコは居間に向かう。
「よっ、おかえり」
夕闇に薄暗い居間の中、ソファに座った男が一人。
ヨウコは目を剥き、身構える。
混乱し、言葉が出てこない。
どうにか、必死に絞り出す。
「……どうして?」
何故――ブスジマが自分の家にいるのか。
―――
ブスジマはテーブルの上に菓子の包みを出し、ぼりぼりと音を立てながら食べている。
「うまいよこれ」
以前、ヨウコが渡した借りたビニール傘のお礼にと渡した菓子だ。そういえば――そうか、玄関に置いてあった、あの傘も。
「ちょっと湿気っちゃったけどさ」
「どうしてここにいるの?」
ブスジマは笑った。目だけは笑っていない。ドス黒く澱んだ瞳でこちらを見つめている。暗い部屋の中で、二人は対峙する。
「おかあさんはどこにいったの?」
聞きたくなかった。だが、聞かずにはいられなかった。
「お前の母さんな、家に帰っちゃったよ。千葉だったっけ」
聞きたくない答えが返ってきた。
母親の実家は確かに千葉にある。それをどうしてブスジマは知っているのか。
「なんで?」
「付き合いきれないってさ。この前から、元魔法少女の起こした暴行事件とかもあっただろ。あれで参っちゃったらしいんだよ」
「どうして?」
ブスジマは一呼吸置き、呆然とした表情で質問を繰り返すヨウコを睨む。
声のトーンが低くなる。
「だから、お前のせいだよ」
―――
母親との保護者面談。ブスジマはヨウコ本人がいない隙を見計らい、それを数回行っていた。途中からヨウコが足繁く喫茶店に通うようになっていたのも好都合だった。母親もまた積もりに積もった悩みがあったようで、それをよくブスジマに打ち明けてくれた。
父親はもうずっと家に帰っていない。何とかしてあげたくても、ヨウコも何も相談してくれない。ずるずると状況が悪くなっていく。このままではいけないのはわかっている。けれどどうしていいのかわからない。あの娘がどうしたいのかがわからない。自分は何をしてあげればいいのか。
傍から見ても、母親はノイローゼ寸前だった。会うたびにやつれているのが分かった。
――こういった状況を変えるためには、一度リセットが必要なこともあります。
――娘さんのサポートはお任せ下さい。監察局が責任をもって見守りますので。
――ですから、貴方も一度、ご実家に帰られてはいかがでしょうか。
だからブスジマは背中を押した。母親はそれに同意した。
この一見して子供思いの“無責任な母親”を、ヨウコから剥がした。
どいつもこいつも、自分しか見ていない。
―――
――テーブルの上の菓子の包み。その横には、擦り切れた写真の切れ端。
以前にヨウコが拾い、そしてブスジマに返した写真。
「……」
ブスジマの明かした事実はにわかに信じがたいことだった。自分がいない間に“保護者面談”をやられていたこと。そして、ブスジマの提案を母親が受け入れてしまったこと。
「そんなこと、私には一言も」
「言いたくなかったから言わなかったんだろ。でもお前、ずっと家にいたのにその異変にも気付かなかったよな」
「だからって。だからって、何で」
「家にいるのが居たたまれなくなってブラブラして喫茶店に籠もってるくらいなら、ちゃんとお母さんと向き合ってやってりゃ良かったんじゃねえのか」
認めたくなかった。
「何で」
ヨウコはブスジマの台詞もうまく聞き取れず、質問を繰り返すことしかできない。
「何で、お母さんが」
ぼり、ともう一つ焼き菓子を頬張り、ブスジマはヨウコを見据える。
「あのままじゃ、お母さん、死んじまうところだったぞ」
「バカなこと言わないでよ」
「職業柄な、オレわかるんだよ。昔そういうことやってたからな」
ヨウコはその場でふらふらと姿勢を崩す。全身から力が抜けていく。立っているのがやっとだ。
「まあそういうことだから。あれだ、もう何ヶ月も経っただろ? オレもそろそろお前自身の答えが聞きたくなっちゃってさ。だからここにいるんだ」
追い打ちをかけるように、ブスジマは続ける。
「お前――どうして帰ってきたんだ?」
ヨウコに投げかけられる、冷たく黒く、感情のないことば。
―――
死にたくなかった。だから殺した。
―――
「私は、生き残ってしまった……から」
「うるせえバカ野郎。“生き残ってしまった”じゃねえんだよ。自分で言ってただろ。死ぬのは嫌で、生き残りたくて仕方なかったから他の奴らを三十八人も殺したんだろ? そこからどうした。考えるフリして、前を向こうとするフリして、帰ってきてずっとそうしてんのか」
ブスジマはゆっくりと身体を前に乗り出し、テーブルの上に置かれた写真の切れ端を一瞥し、そして頭を上げ、冷たい視線でヨウコを射貫く。
「お前、自分の意思で帰ってきておいて、次にどうしたいかもまだ分かってねえのか。ずっとそうしていれば、家族、監察局、全部周りが何となく察してくれて、何とかしてくれて、それで何となく元に戻れると思ってたんだよな。ここにきてまだそう思ってんだよな?」
部屋は外のように寒く、暗い。
昨日までは帰ってくれば暖房が効いていて、母親がそこにいた。
同じ場所のはずなのに、今はまるで異世界――あの地獄の風景のようだ。
「ちゃんと答えろよ」
――ヨウコの心が、急速に凍てついていく。
「“何でお前が帰ってきたんだ”っつってんだよこの野郎」
ブスジマはそう言うや否や、コートの内ポケットに素早く手を伸ばした。
―――
全身が、本能が――あの時のように――反射的に動いた。
この男は私を不幸にさせた。気にくわない。
そして何かを取り出そうとしている。
危険だ。
殺してしまえ。
殺してしまえば、何もしなくなる。
殺してしまえば、何も言わなくなる。
―――
気付けば、ヨウコの右手はブスジマの首根を掴んでいた。
「……」
「……」
ブスジマは内ポケットに手を入れたまま。ヨウコは反射的に伸びてしまった手を離そうとした。けれど自分の意に反して、その指はしっかりと彼の首に食い込んだまま離れない。
「そうやって、全員……殺したんだよな、“バイスフィンガ-”」
ブスジマは抵抗せず、ただそう呟く。首にかけた五本の指から、彼の声帯が震えるのを感じた。
「殺しちまえば……もう、喋れなくなる、しな」
ヨウコの呼吸が荒くなっていく。冷たい指に、徐々に力がこもっていく。
半分は本能。半分は自分の意思。いや――きっと全部が、自分の意思だ。
ほんの少し力を込めるだけで、ブスジマの首は簡単に折れるだろう。
「それが――お前の、答え……なんだな」
違う。いや、そうだ。そうすればこの男は何もしなくなる。何も言わなくなる。これ以上自分を追い込むようなことをしなくなる。かつて自分が殺した、あの子達のように。
「……オレわかったよ。だから、もういいよ……殺ってくれよ」
ブスジマの瞳には、何も映っていなかった。
「ほら。どうしたよ」
―――
三十八人。全部覚えている。彼女達は、たびたび夢に出る。
死んでなお、彼女らはヨウコに語りかけてくる。
夢に出るたび、断末魔の悲鳴と共に、彼女たちは自分に怨嗟の言葉を囁く。何でお前が。お前なんかが。あたしだって帰りたかったのに。ゆるさない。おまえをゆるさない。死ね。死ぬより辛い目に遭え。一生背負っていけ。不幸になれ。しあわせになどさせるものか。
あんたの余生に、呪いあれ。
―――
指に力がこもる。ブスジマの肺から空気が漏れていくのが伝わる。彼の身体から徐々に力が抜けていく。
ヨウコの血が沸騰していく。邪魔な奴は殺せと本能が命じる。力が、ギフトが、呪いが抑えきれない。抗いたい。本能に任せたい。簡単なことだ。躊躇するまでもない。何回もやってきたことだ。違う。ダメだ。やってしまえ。ダメだ。ダメ。やれ。
やがてブスジマの両腕が、だらん、と垂れ下がる。コートの内ポケットに入れていた腕も下がる。その拍子に、手に持っていたものがフローリングの床に落ちる。それはナイフでも拳銃でもなく――ただのライターだった。
――ダメだ。
それは答えじゃない。
「う……あ……」
左手で指を引き剥がそうとする。爪を立て、食い込ませ、剥がしにかかる。血が滲む。痛む。抗う。ダメだ。止まらない。ギフトに抗えない。
ヨウコは自らの右手親指を強く握り、反対側へと思い切りねじ曲げる。
「あああああああああああッ!!」
手応えがあった。
全身を貫く激痛、絶叫と共に、ようやくブスジマの首から手が離れた。
―――
数刻後。
ヨウコは冷凍庫から氷を出し、ビニール袋に入れて当てる。
右手親指の付け根は腫れ上がり、ズキズキと痛む。その顔は涙と鼻水まみれになっている。
「バカだなあ、お前。自分の指を折ってまで。あとで病院行けよ」
ブスジマは己の首筋をさすり、ティッシュを数枚取ってヨウコに渡した。
――何故。
「何で殺さなかったんだよ。オレ、お前を裏切って、酷いことやったろ」
何故、と言われても。
ヨウコの脳裏には、三十八人の少女の顔が浮かんでいた。
一生ついてまわる呪い。赦されることのない罪。
ああ、そうか。
「何であなたを殺さなかったか、それだけは今わかった」
ティッシュで鼻をかみ、手の甲で涙を拭う。そしてブスジマを睨み付ける。
「あっ、そう」
「私は――あなたを……今のあなたなんかを“三十九人目”に加えたくなかった」
ブスジマは軽く咳き込み、テーブルの上の菓子に手を伸ばそうとした。ヨウコは左手でそれを奪い取り、二つ、三つをまとめて掴み、口に放り込む。
そういえば、今日は朝から何も食べていなかった。賞味期限を過ぎて、湿気た焼き菓子。
「三十八人。全部覚えてる。顔も、断末魔も。もちろん、その子のことも」
テーブルの上に指を走らせる。
「改めて……そう、改めて分かったの。みんなの呪いは私が一生背負っていかなければならないものだってことを。だけど私はその中にあなたなんかを加えたくない。私はその子の代わりにもならないし、願いを叶えることもしない。だから、思い通りになんかさせてやるもんかって」
ヨウコは写真の切れ端に指を置き、ブスジマに突き返した。
―――
モリワキの言う通りだ。元魔法少女になんて関わるべきではなかった。
シオリを――自分の娘を殺した“かもしれない”少女に首を突っ込んだこと。それがそもそも間違いだった。復讐か、念願か、あるいは代替か。はじめの理由はどうであれ、自分はこの少女に深入りしすぎたし、望みも叶わなかった。聞きたいことの一つも聞けなかった。やはりこいつらはどうしようもない“魔女”だ。
何にせよ、娘はもう帰ってこない。向こうにもいけないし、自分の元にもいない。擦り切れた写真のように、記憶もやがて薄らいでいくだろう。
ただ、どうもヨウコの中にはいるらしい。
ブスジマが確認できたのはそれだけだ。
―――
夕暮れ。宵闇が辺りを覆う頃。
ブスジマは手帳の一枚を破り取り、電話番号と住所を書いてヨウコに手渡した。
「ちょっと頭冷やして、そしたら電話してやれよ。あんまり心配させてやるなよ」
母親の連絡先と行き先だという。どの口が言うのか、とヨウコは思った。
ブスジマはソファから立ち上がり、玄関に向かう。立てかけてあったビニール傘を手に取り、ドアを開けようと手を伸ばし……そこで一度引いて、ヨウコに向き直った。
「もう監察局辞めるから」
「そうなんだ」
「オレ、お前らともう関わりたくないんだよ」
「うん」
「……だけどお前、結局オレの質問には何も答えなかったよな」
「……」
「さっき、三十八人分を背負って生きてくって誓ったんだろ? それならどう生きるのかくらいは自分で考えて決めろってことだよ」
「言われなくても。わかってる」
「じゃあ、ちょっとは前を向いて、頑張って生きろよ」
「うん」
「心配しなくても、お前が気負ってるほど誰もお前のことなんか気にしちゃいねえよ」
玄関のドアを開ける。降り続いている雪は、いつの間にか大粒になっている。
最後まで彼の表情は虚無を湛えていた。
口から出た言葉が本心なのかそうでないのか、それすらもはかりかねた。
そうして、ブスジマは二度とこちらを振り返ることなく去っていった。
傘を差し、男は雪の住宅街を一人で歩いて行く。
その背中を少しだけ見届けて、ヨウコはドアを静かに閉めた。
結局、何一つ変わっていない。
――でも、これからは前を向かないといけない。
自分の“余生”は自分で決めなければいけない。それは確かだ。
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