#20 もういいよ。
十二月半ば。神奈川県某所。湾岸地区。
寒空の下。人気のない倉庫街、資材置き場に大型のミニバンが一台。そして黒いドイツ製セダンが三台止まっている。
現場は、そこから少し離れた場所。
「さっさと済ませよう。寒いからな」
「そう言うならわざわざこんなところで取引しなくても。こっちは振込でも良かったのにネ」
「俺達は用心深くてな。売る相手は顔を見ないと信用ならない。それから、代金も現金で受け取る主義だ」
「ハイハイ。じゃあ、先にモノを見せてもらえるかナ?」
それぞれの代表者が言葉を交わす。
片方はダウンジャケットを着た若い男、ケンジ。そしてその一味。死鉤爪の幹部達。
そしてもう片方の男達は――。
「今から持ってくる。その間、取引相手同士の親睦といこうじゃないか」
そう言うと、ニット帽をかぶった男はポケットからリキッドタイプの電子タバコを取り出すと、自ら一口吸い、それをケンジに差し出した。充填されたリキッドはもちろん正規の品ではない“特別製”だ。
「や、俺は“やらない”主義なんで。ホラ、健康に良くないじゃない。あと、ベーピングって肺も痛めちゃうらしいヨ?」
ニヤニヤと笑いながら、ケンジは男の誘いを断る。
気にくわない。最近勢力を伸ばしているグループのリーダーとはいえ、その態度はあからさまに不遜だ。ナメているとしか思えない。さんざん周りにもブツを売りさばいておいて、何が“健康に良くない”だ。もっとも、これは自分達が言えたことでもないが。
ケンジ達と男達はお互いに離れ、一定の距離を保つ。
男の後ろから、部下がアタッシュケースを持って出てくる。両者のちょうど真ん中に置き、ケースを開ける。中を確認したケンジもまた、ドラムバッグを持ってこさせるよう、向こうの部下に指示する。
取引は進む。
「……ハイ。こっちは確認したよ。混ぜ物もなし。極上の品だネ」
「当たり前だ。それで、相応の額は持ってきたんだろうな」
「もちろん」
男は――売人は、部下にドラムバッグを取ってこさせる。
「俺達がカネを確認するまでケースはそのままだ。いいな」
「ハイハイ」
部下がバッグを持ってくる。ファスナーを開ける。乱雑に詰め込まれた札束。
これも気にくわない。連中は、これまで取引してきた相手の中でもトップレベルに素行が悪い。普通は数えやすいようにケースに入れ、頭を揃えておくものだ。
「数えさせる。待っていろ」
売人が念を押す。ケンジは相変わらず不遜な笑みを浮かべたまま、大人しく待っている。
異変に気付いたのはそれからすぐだった。
「あ」
部下の一人が札束のいくつかを持ち、売人の元に来て耳打ちする。
「……」
売人は眉をひそめた。
「おい」
「?」
「“カネが足りない”ようだが」
杜撰も杜撰だ。バッグに詰め込まれた札束――確かに指定通り新品の札だった。だが表面だけ。札束のいくつかは中抜きされていて、そもそも札束自体の数も足りない。これでは今回の取引に持ってきた“ブツ”の半分も渡すことができないだろう。
現場全体が一度に殺気立つ。しかしケンジだけはまだ笑顔を崩さない。
「カネが用意しきれなかったなら、事前にそう言っておいてほしかったんだがな」
「いや? 俺達はちゃんと取引に来たんだヨ。それくらいがアンタらにとっては“相応の額”だと思ってサ」
カネ払いの良さに乗って取引に応じたが、やはりガキは所詮ガキだ。何も分かっていない。売人は部下達に向かって腕を上げ、掌をひらひらと振る。ひらひらと、一回。二回。三回。それは――“交渉決裂”の合図だ。
その瞬間、背後で悲鳴が聞こえた。
―――
宵闇の中に、ぼんやりとキツネ面だけが浮いている。浮いているわけではない。それは黒ずくめのコートに身を包んだ長身の“何か”だった。誰にも気付かれることなく、いつの間にか売人達の背後に回り込んでいた。
つまりあのガキどもは“はじめから取引などするつもりは無かった”ということだ。
そして、それを為せる根拠となるのがあの存在だった。
たった一人。一人の“何か”に、部下達が蹴散らされていく。元よりある程度の荒事を想定して、部下全員には大型ナイフを携行させてある。ある者は何も出来ずに吹き飛ばされて無力化され、ある者はたった一発の殴打でアスファルトに沈んだ。肉薄し、刃を突き立てることに成功した者もいたが、“何か”は少しも動じることなくナイフを弾き飛ばした。
コートの下に防刃ベストでも着込んでいるのだろうが、それでも普通の人間は周囲から刃を向けられれば怯むものだ。これまで粗相をした人間は皆そうだった。だが、アレからその様子は一切見られない。一体なんなのだ。
売人は、次々と部下達が倒れていくのを黙ってみているしかなかった。取引はあらゆる状況を想定して用意するものだ。今回も、死鉤爪とこちら側の人数差は約三倍もあった。
だというのに、彼らはたった一人の存在になぎ倒されていった。
キツネ面をかぶった“何か”はゆっくりと男の元へと近づいていく。
「おい」
売人は声を振り絞り、ケンジに問うた。
「あれは何だ」
「ウチの用心棒」
ケンジはさらりと言ってのけた。
「誤解しないでネ。先に“抜いた”のはそっちだよ」
「こんなモンでフイにしておいてよく言う」
「フイにするつもりなんてないんだヨ。俺達はそこに入ってるカネが“相応の額”だと思っただけ」
話も通じないか、と、売人は懐に手を入れる。
その刹那、あのキツネ面が正面に立ち塞がった。
身長約180cm。背丈だけなら売人と同じくらい、だが――それよりもずっと大きく見えた。
顔面に一発。鼻の骨が砕ける音。
「が……ッ」
ぼたぼたと、アスファルトに血が滴る。今の一発で気を失わなかったのは根性、あるいは奇跡としか言い様がない。脳すら揺さぶられるような打撃に、倒れるものかと足を踏ん張る。
「俺達、この取引をご破算にするつもりはないんだよネ。できれば穏便に済ませたかったんだ。で、もう一回聞くけど――そのカネで、ぜんぶ譲ってくれないかなあ?」
売人はよろけながらも、懐に入ったモノを何とか取り出そうとする。
そうしている内に、二発目が飛んできた。
―――
数刻後。
「いやァ、皆お疲れサン。どうなるかと思ったけど、うまくいって良かったネ」
「あの手のヤベー奴らって見るの初めてだったんスけど、へへ、どうってことないッスね」
「オメー、ちょっとブルってたろ!」
「ンなことねえよ!」
取引を終えた死鉤爪の若いメンバー達(どれも幹部クラスだ)は、笑いながら荷物をまとめていく。持ってきたカネはちゃんと渡した。これは強奪ではなく正式な取引だ。向こうも“快く応じて”くれた。
「今回も助かったヨ。何もかもそっちのおかげ。戻ったら報酬を渡すから」
ケンジはキツネ面の――Wに声を掛ける。
「……ああ、大丈夫、忘れてないって。約束通り、しばらく契約から離れるってことでしょ。でも、特にあの女からはそういうこと聞いてないけど……いいんだよネ?」
Wは軽く頷く。相変わらず一言も喋る気はないらしい。
「ま、こっちもしばらくデカいヤマ張る気はないし。でも、戻ってきたかったらいつでもどうぞ。報酬、うんと弾むからサ」
今回の件がケンジにとって賭けだったのは確かだ。それでも、元からこうするつもりだった。
「でもケンジ君。仕返しとか来ないスかね。アイツいないとヤベーんじゃねえの」
「あ、それなら大丈夫」
これにはケンジにも根拠があった。今回の取引は向こうにとっても一種の“出し抜き”だったらしい。彼が提示したカネに目がくらんだ末の、あまり公にできない行為。そこまではリサーチ済だ。報復が来ることはないだろう。だからあの“人間戦車”を利用した最後の仕事としてはうってつけだった。もっとも、責任を負ったあのニット帽の男が東京湾に沈むかどうかまでは、こちらの知ったことではない。
ここから先はイージーだ。手に入れたブツを元手にもっと稼ぎ、もっと死鉤爪を強くしていく。そこまで行けば、あの面倒なフロイントシャフトの連中だってどうにか出来る。“清く正しく激しく”をモットーにオンナを使うシノギは避けてきたが、これを機会に手を出してもいいかもしれない。元よりあんなモットーなど対外的なコネクションを拓くために掲げていたものだ。今となってはそれほど頑なに守る理由もない。
上機嫌なケンジを先頭に、メンバーはバンの元へと戻っていく。
――バンの周りには、コートやジャンパー姿の見知らぬ男達がいた。
「……」
モリワキをはじめとする、警視庁組織犯罪対策課の捜査員達だった。
「アヅマ、ニシ。聞こえるか。モリワキ班、該当人物の一団と接触した」
『こちらアヅマ班、後方より配置済です』
『ニシ班、先ほどの取引の現場はすべて押さえました。取引相手もマークし、別働隊が追跡しています。顔画像はすべてデータベースに送信し、照合中です。これより現場に移動します』
モリワキ達は死鉤爪の情報を掴み、一斉検挙の場としてこのタイミングで仕掛けたのだ。
――そこから先はあっという間だった。
ケンジ達は為す術もなく検挙された。幹部達を引き連れていたのが仇になり、死鉤爪は見事にその首を押さえられることになった。
そうして、死鉤爪はあっけなく終わりを迎えた。
―――
もちろんモリワキは、上層部からはとっくに目をつけられている。
プライベート、と言い張って動いていたこともバレていないわけがない。おそらく今回の事件が解決した後、降格か左遷が突きつけられる。それだけで済めば御の字か。
私怨といえば私怨だ。だが、それがどうした。
はからずも、彼はかつての上司と同じ顔つきになった。保身など考えてはいない。あるのは死鉤爪と、そしてその横にいる元魔法少女……いや、“魔女”を捕らえることだけ。
外堀は埋めた。
もう、奴が逃げられる場所などない。
―――
「――確かに、オンナに手を出すことはなかった。少なくとも今までは。だけどそれだけだ。代わりにコイツらは覚醒剤やら大麻やらの売買に絡んでた。見てただろ。まさかいくらお前でも“オンナに手を出すのはダメでクスリを売るのはオーケー”って道理はないよな?」
良いわけなどない、と分かってはいたのだろう。Wは死鉤爪のメンバー達が押さえられていく現場を阻止することはなかった。
一人で佇むWを中心に、対策課の男達が距離を詰めていく。
「俺達の作戦はここで成功した。そして、ようやくお前とも会うことができたわけだが」
モリワキは一歩前に出て、Wと対峙する。
「裏で色々聞いたよ。そういうのは得意なんでな。だいたいの事情は分かった。だが死鉤爪がやったことも犯罪なら、お前がやったことも犯罪だ。命令されていたからなんて言い訳は効かない。俺達は――俺は、お前を追った」
Wは微動だにしない。
「徹底的にやったよ。もうお前の後ろ盾は何もない。聞いてるだろ? フロイントシャフトも、今後お前と関わる気はないと判断を下した」
ぴくり、とWの身体が動いた。
「まさか聞いてなかったのか?」
それはモリワキにとって予想外の反応だった。
「とにかく、今のお前はただのイレギュラーだ。“やり過ぎた”、それだけだ。自分勝手に力を振るって、社会のルールを甘く見すぎた。だから俺はお前を許さない」
さらに一歩。Wとの距離を詰めていく。モリワキの背中に汗が滲む。周囲にいる班員もまた同様だ。“魔女”の力は並の人間が持つそれではない。
背後には大盾を構えたアヅマ班がいる。何人かの班員は刺股を手にしている。
「ここで終わりにする」
モリワキは手を上げる。
それが合図だ。
腕におぼえのある班員達が、Wを確保するために一斉に飛びかかった。Wは逃げることなく男達の群れに飛び込み、拘束を振り払い、向かってくる男達を叩き伏せる。刺股を突きつけられてなお、その柄を掴んで無理やり捻じ曲げる。
モリワキ達が相手にしているのは人間ではない。魔女だ。
「逃がすな!」
大盾班が迫り、左右から挟み込むように押す。Wは身体を捻って押し返し、ポリカーボネート製の盾を叩き落としていく。
地面に倒れ込む数が、痛みに呻く声が、徐々に増えていく。
男達の怒号に混じってアヅマの声がした。彼はWに頭を掴まれ、地面へと強く押しつけられていた。それを見たモリワキは怒りと衝動にかられ、班員の制止を振り切って飛び出した。どんな凶悪犯よりも恐ろしい。近づくだけでも全身の神経がびりびりと警告を発する。その恐怖を衝動で上書きし、モリワキは走る。叫びと共にWに飛びつく。
「“ジャガーノート”!」
その名を呼ぶ。“止めることのできない、圧倒的な力”という意味を冠する魔女。
顔を近づける。くく、くくく、と含んだような声が聞こえる。
キツネ面の奥で――彼女は、静かに、しかし愉快そうに笑っていた。
なるほど、アカネの言った通りだ。
「何を笑っていやがる。この“戦闘狂い(ウォーモンガー)”が」
「モリワキさん!」
ニシがジャガーノートの背後に回り、刺股で体勢を崩しにかかる。
「俺ごと押せ!」
モリワキとジャガーノートはもつれ合うように倒れ込む。ジャガーノートは身体を捻り、側頭部へと肘鉄を繰り出す。がつん、とハンマーで殴られるかのような衝撃がはしり、視界が明滅する。それでもなお、彼はジャガーノートを離さない。
「そのツラ……拝ませて、もらおう、か!」
モリワキは失神寸前の意識を振り絞る。目を血走らせ、キツネ面を剥がしにかかる。ジャガーノートは抵抗する。手首を掴まれ、締め上げられる。
その隙に、彼女の首元が一瞬だけ露わになった。
黒ずくめのコートからのぞく、白く滑らかな肌。
その一点に狙いを定め、モリワキはもう片方の手を内ポケットに入れる。
ジャガーノート。あらゆる攻撃に対する異常な耐久性を持つ“人間戦車”。だが。
「これならどうだ」
モリワキは内ポケットから取り出した“それ”のスイッチを入れ、首元に押しつける。
ジャガーノートの身体が――跳ねた。
―――
寒空にジャガーノートの悲鳴が響き渡る。周囲にいた男達の動きが止まる。
聞く者を畏怖させる“叫び”。
モリワキは弾き飛ばされ、アスファルトの上を転がっていく。その手にはスタンガン(それも改造を施した違法品)が握られている。もちろん、周囲の捜査員達はこのことを知らない。あくまでモリワキの独断による一撃だ。
通常、スタンガンは皮膚の薄い場所に使用してはならないとされる。だからそこに使用した。可能な限り高電圧に改造したスタンガンを、可能な限り皮膚の薄い場所……首に押しつけた。
元より確証があったわけではない。効くかどうかは賭けだった。打撃や刺突において強い“抵抗”を持つ驚異的な耐久性。ならば……物理攻撃がダメだというならば。
果たして効果は“てきめん”だった。ジャガーノートは身体を痙攣させ、苦痛に呻きながら、それでもなおモリワキ達を弾き飛ばし、立ち上がろうとする。
彼女の身体からは異常な熱が発せられている。身体からしゅうしゅうと煙が立ち上っている。普通の人間ならこんなことにはならない。効いている。いや――“効き過ぎて”いる。
「モリワキさん、これは」
ニシが目を見開く。
「何をやったかは後で説明する。見りゃ分かるだろうが、俺のやったことは違法だ。どんな処分も受けるし、始末書だって書く。だが今はまずアイツを確保するんだ。いいな」
ジャガーノートはふらつきながらも二歩、三歩とモリワキの元へ近づこうとし――やがて膝から落ち、うつ伏せに倒れた。
「確保! 確保!」
モリワキに代わり、我に返ったニシの号令で、男達はジャガーノートの元に近寄っていく。焼け焦げた化学繊維の匂いに、小便の匂いが混じる。
賭けは成功した。あらゆる攻撃を撥ね退ける“人間戦車”は、たった一撃で地に伏した。可能な限りの有効打を加えたとはいえ、身体から煙を吹くなど明らかに効き過ぎだ。ジャガーノートの弱点はアカネすらも知らない(教えない、のではなく、本当に知らないのだと)と言った。まさか、あの魔女の弱点とは――。
「?」
ひとまずの安堵に耽るモリワキは、しかしさらなる異変に気付く。
ふと周囲を見る。モリワキと、そして動かなくなったジャガーノートを押さえつける数名の捜査員達を除く全員が、空を見上げていた。
「あの。モリワキさん」
男達が見上げる視線の先。
「死鉤爪に雇われた“魔女”って、一人だけ、のはずでしたよね?」
空ではなく、建物の屋上。
縁に立つ人影。“キツネ面”が、もう一人。
―――
それはジャガーノートとまったく同じ仮面を被り、そしてコートではなく黒いトラックスーツに身を包んだ小柄な姿をしていた。
「モリワキさん!」
もう一人のキツネ面はおもむろに屋上から飛び降りた。三階建てはあろうかという倉庫街事務所の上から飛び、壁、手すり、そして室外機を蹴りながら、人間離れした早さと軽さで跳ね渡っていく。間違いない。あれは――“魔女”だ。ジャガーノートとはまた違うタイプの。
おかしい。どうして、もう一人いる?
狙いは誰の目にも明らかだ。確保したジャガーノートを助けにきたのだろう。そんな情報はどこにもなかった。フロイントシャフトが裏切ってジャガーノートを助けに来た? いや、アカネが嘘をついているようには思えなかった。あの取引は既にケリがついている。向こうがそんなことをするメリットはない。だとしたら、あれは何だ? どこから来た?
ともあれ逃がすわけにはいかない。モリワキ達はもう一人の魔女を追いかける。だが彼女は男達を振り切るように飛び上がり、倉庫街に巡られた配管をつたい、壁を走り、素早く正確なパルクールで翻弄していく。
ある者は上空からの強襲で肩を蹴りつけられ、ある者は股下をくぐり抜けられ、ある者は側転からの浴びせ蹴りを食らい、身体のバネを生かした一撃で弾き飛ばされていく。ただでさえジャガーノートによって無力化された人数がさらに少なくなっていく。
モリワキはもう一度指示を出し、周囲から班員達を引かせる。これだけは使いたくなかったが、今さら他の手段もない。これ以上負傷者を出すわけにはいかない。
腰からランヤードのついた拳銃を取り出し、警告を行う。
「動きを止めろ! これは警告だ!」
セーフティを外し、上空に向けて一発。彼女は少し怯んだが、それでも動きを止める気配はない。モリワキは舌打ちする。銃口を向ける。当たるか。当てられるか。当たってしまったらどうするか。自由自在に飛び跳ねる目標に対して、まともに狙いを付けることなどできない。だがやるしかない。再び飛び上がった魔女に向け、撃つ。
乾いた音が夜の倉庫街に響き渡る。
放たれた一発の.32ACP弾が配管パイプの一部に当たる。ちょうど飛び移ろうとしていた場所だったのか、彼女はバランスを崩し、落下した。
「今だ!」
体勢を持ち直そうとする魔女に向けて男達が突進していく。
「奴も確保だ!」
「大人しくしろ!」
「抵抗するな!」
大盾によって地面へと伏せられ、魔女は体重をかけられて細い呻き声を上げる。ジャガーノートとは違い、耐久力も抵抗する力も弱いようだ。押さえつける力はますます強くなっていく。
「う……うう……あう……」
魔女との連戦で血気に盛った大人達によって締め上げられ、小柄な魔女は痛みに呻く。捜査員達は誰も皆、勢いにはやりすぎている。このままではまずい。
モリワキが男達を諫めようとした刹那――近くで、悲鳴と怒号が上がった。
そこにいるすべてを震え上がらせる、地の底から響くような怪物の咆哮。
「Ghhhhhh」
無力化していたはずのジャガーノートが、かけられた手錠を引きちぎり、数人の捜査員を叩き伏せ、そして“再起動”していた。
魔女が――いや、地獄の獣が――そこにいた。
―――
黒いコートの裾が歪んでいる。魔女、悪魔、あるいは獣。
異常な熱を放ち、全身から白煙を立ち上らせ、両腕に千切れた手錠を下げながら、獣はゆっくりと歩いて来る。一歩ずつ歩くたび、踏みしめたアスファルトに亀裂が走る。質量すらも変化したらしい。
うつ伏せに倒れた拍子に割れたのか、キツネ面の半分が欠けている。その半面からのぞく素顔には深い火傷痕があった。そして露わになった片方の目は、闇夜の中にあって煌々と赤く輝いていた。若い女性。年の頃はおそらく二十代前半。だがその顔立ちと表情は――もはや人間ではない。
――私達はあの子を手離した。
――だから、どんなことをしても、私達が関与することはないでしょう。
――でも、一つだけお気を付け下さいませ。
――あの子を……あの子のギフトは……決して“暴走”させてはなりません。
アカネが忠告した言葉がモリワキの脳内にフラッシュバックする。
ああ。そうか。俺達は、あいつを怒らせたのか。
「Aghhhhhhh」
――今さらこんなことを言うなんて、無責任かもしれませんけれど。
――私は、あの子に、取り返しの付かないことをさせたくないのです。
周囲の捜査員達は恐怖に怯え、動くことすらできなかった。
ただ一人、モリワキだけが、震える脚をなんとか制して立ち塞がる。獣の前に立ち、拳銃のセーフティを再び外し、肩口に向かって撃つ。そこに躊躇いはなかった。
銃声が響き、銃弾は獣の左肩に当たった。だが彼女はまったく動じなかった。怯みすらもしなかった。
「これが」
獣は銃創に指を入れ、銃弾を穿り出すと、その場に捨てた。受けた銃創から白煙が立ち上り、あっという間に傷口を塞いだ。
「こんなモンが、お前らが辿る果ての末路だってのか」
モリワキは獣に言った。獣は何も応えなかった。
そして獣はモリワキに近づき、拳を振り上げた。
「だとしたら。まったく救えねえ奴だ」
モリワキは拳銃を下ろし、静かに目を閉じた。
―――
「……」
――モリワキが目を開けると、獣は拳を振り上げたまま止まっていた。
その身体には、もう一人の小柄な魔女が縋りついていた。彼女も、いつの間にか拘束をほどいていたらしい。
「もういいよ」
小柄な魔女が、はじめて言葉を口にした。
「ありがとう。でも――もう、こんなこと、しなくていいよ」
幼い声で、獣の耳元に囁きかける。獣は――ジャガーノートはその囁きに応じ、拳をゆっくりと下ろし、小柄な魔女を静かに抱きしめた。
モリワキも、そこにいた全員が、二人を見ていた。
まだ誰も動くことができなかった。あまりにも非現実的な光景だった。
やがて皆が我に返る頃。
焦げた匂いだけを後に残し、二人の魔女はそこから姿を消していた。
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