#18 そーゆーことだから。

 十一月中旬。神奈川県某所。安アパートの一室。昼。


 窓から差し込む陽光で、ユイはようやく目を覚ました。

 こんな時間まで寝てしまっていたらしい。軋むように痛む身体を何とか起こす。素肌の上から大きめのTシャツだけを着て、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出して飲む。

「おはよ」

 先に起きていたミナミは既に着替えていた。何もかもがすっきりとした、秋空のように穏やかで晴れやかな微笑み。

「もうお昼だよ」

「昨日の……けっこう、疲れちゃってたから」

「あ」

 ミナミは今更のようにバツが悪そうな顔をした。慌ててユイは言葉を継ぎ足す。

「ごめんね。そういう意味じゃなくて。うん、大丈夫だから」


 昨日の深夜、帰宅したミナミの様子はどこかおかしかった。帰るなり、買ってきた大量の食事をあっという間に平らげ、シャワーを浴び、そしてユイの身体を強く求めた。

 もちろん求められるのは嫌いではない。特に寒い夜は。

 けれど、ここ最近はどんどん苛烈になっている気がする。最初の頃はそうでもなかったが、ここ一ヶ月くらいの“夜シフト”の増加に伴って急激にそうなった。

 仕事から帰ってきた直後のミナミは、毎度疲れるどころか身体に異常な熱気を孕んでいる。曰く「自分だけではどうしようもない」らしい。それで毎夜、ユイの首筋に魔女の“牙”が突き刺さる。ほぼ獣と化していると言ってもいい。


 ――おそらくギフトを使っているのだろう。

 本人は口にしないが、ユイもまた元魔法少女だ。それくらいは分かる。


「何か食べる?」

「冷蔵庫の中、何もないよ。買ってこないと」

「じゃあ、あたしが後で買ってくる」

「私も行く……と言いたいとこだけど……」

 身体が重い。

「大丈夫。あたし、今日は一日休みだから」


 降って湧いたようなカネ回りの良さ。そして過興奮状態に陥ったミナミの身体。“夜の仕事”といっても警備員やコンビニバイトの類ではないだろう。“ジャガーノート”のギフトを使うような仕事……彼女は一体何をやっているのか。

 いつも聞こうとしている。でも聞くことができない。二人の関係性を歪ませたくないというのが本音だ。聞いてしまったらこの幸せな暮らしが終わってしまうような気がして、ユイはずっと見て見ぬ振りをしている。


 ユイは部屋の隅に転がる旅行雑誌を手に取り、ぱらぱらとめくる。

もうすぐ仕事も一段落するから、その後に行こう、と二人で計画している。

「もちろん、温泉はあったほうがいいよね」

 ミナミがひょいと横から顔を出して覗き込んでくる。耳元の柔らかな声。穏やかな表情の横顔。それを見ると、ユイはもう何も言えなくなる。

「熱海。伊豆。草津。鬼怒川。伊香保。箱根」

「温泉旅館。うんと良いところに泊まろうよ。あたし、旅館なんて初めてだから」

「私は……パパとママに連れて行ってもらったことあるけど。部屋にね、温泉があるの」

「え、すごい。貸切?」

「うん、貸切」

「ぜったいそこ泊まろう!」

 二人きりで温泉旅行。どんなに楽しい旅になるだろう。

本当は、二人で行けるなら……ミナミが楽しければ、何処だっていいのだけど。

「でも、どうせならもっと遠いところでもいいんじゃない。東北の、山の中とか」

「蔵王。銀山。芦ノ牧」

「どこにあるの?」

 ユイは日本地図に指を滑らせる。

「後はもう、いっそのこと、島とか」

「北海道?」

「北海道にもいっぱいあるよ」


 思えば半年前まではこんな会話だって出来なかった。安アパートの一室で日々を食いつなぐのに精一杯で、旅行なんて夢のまた夢だったのだ。

「旅館に泊まってさ。お風呂入って、美味しいもの食べて、お酒も飲んで、それでまたお風呂入って。そうやって、二人だけで朝まで過ごすの」

 ユイは何処だっていい。けれど、何処に行くにしても、ミナミが頑張ってくれているからこそ、こういうことが出来る。彼女は「絶対に離れない」と言ってくれた。その想いはユイも同じだ。しばらくはちょっとした贅沢ができるくらいのカネも貯まった。もう少ししたらミナミの仕事にもケリをつけてもらって、後は穏やかに暮らそう。失ってしまった幸せを二人で取り戻すために。


「……もう少しだからね」


―――


 ミナミが上機嫌で買い出しに出かけて数分後。


 ユイは軽く部屋を見渡し、窓の外に視線を移す。

 鍵を持って立ち上がり、玄関を出る。ミナミが忘れ物を取りに戻ってきたりしていないかを確認し、アパートの後ろに回る。


 気配のする方へと向かう。


 アパートの裏。一般道からは死角になった影から、小さく音楽が聞こえてくる。

「いつからそこにいたの」

 壁にもたれかかる人影に声をかける。

「アンタが起きてきた時にはもういたよ。おはよ、寝坊助さん」

「覗き見?」

「まァ、そーゆー役目なんで」


 小さな背丈。ジーンズに灰色のパーカーを身につけ、リュックを背負った女。ニット帽を被り、さらに色つきレンズのメガネとマスクを着けているため、顔は全く分からない。

 首にかけた大型のヘッドホンから漏れ出す音楽は“スウェーデン狂詩曲”の一節。


 ユイは“彼女”がそこにいる意味を分かっている。


 一節がリピートした後、ヘッドホンからは「Achtung」と合成音声。女は手元のスイッチで音を停止させ、ユイに向き直る。左側にやや傾いたような、姿勢の悪い女。


「とゆーわけで、メッセージ、持ってきたよ」


―――


 元魔法少女“エニグマ”。本名は不明。彼女の名もまた“スレイヤー”と同様に後から名付けられたもので、そのギフトを示す“本来の”名前も、何回目の帰還者で、いつからいたのかも、ほとんど誰も知らない。

 分かっているのは、彼女がフロイントシャフトのメッセンジャーであること。

 そして彼女のメッセージは、フロイントシャフトの総意と同等であること。


 ユイは苦虫を噛み潰したような顔でエニグマを睨む。

「なに、怖い顔しないでよ。アタシはいつものように仕事をしにきただけだからさ。……ハイ、これ」

 緊張するユイをはぐらかすような軽薄な口調と共に、エニグマはリュックの中から一枚の封筒を渡す。ファンシーな見た目の封筒に、封にはラメの入ったエポキシ樹脂盛りのシールが貼られている。ユイが小学生の頃に流行ったようなシールだ。

「渡しておいて」

「?」

「アンタじゃなくて“ジャガーノート”にあてた手紙だから」

 ユイの顔色が変わった。その変化をエニグマは見逃さない。

「……もしかして」


「とりあえず用件だけ先に言っちゃうよ」


 ニット帽の縁から零れ出た金色の髪。色つきレンズのメガネの奥には青い瞳。エニグマはレンズごしにぎょろりとユイを見据える。


「――あの子はもうアタシ達の“おともだち”じゃない」


―――


 ユイは絶句した。


 今は距離を置いているとはいえ、二人はフロイントシャフトに所属していたことがある。数年前、二人を引き合わせたのも他ならぬフロイントシャフトだ。今でも一応は所属ということにはなっている。

 それが、ここにきて一方的な“絶交”宣告。それもミナミだけ。何故?


「意味、わかんない」

「だからさ。ざっくり言っちゃうと、まず“ジャガーノート”は数ヶ月くらい前からフロイントシャフトからの斡旋でとある仕事をしてたの。あ、教えられてなかった? もしかして秘密だった?」

「……」

「そりゃゴメンね。うん、で、まあ、色々あって、あの子はイレギュラーなことをした。やってはいけないことをした。だからこーゆーことになった。そんだけ」

 手紙を握ったユイの掌に汗が滲む。

「……どうして?」

 そう言葉を絞り出すのが精一杯だった。

「知らないよ。アタシに聞かないでよ。詳しいことは手紙にあるらしいから、一緒に読んだら?」

 つまりこれは“絶交”の証だ。フロイントシャフトは組織であり、組織にはルールがある。それを犯した者にあてられる手紙。

「“ジャガーノート”はこの事を?」

「伝えてないよ。アンタ、あの子の“友達”でしょ。だから、代わりに伝えておいて」

「何で私に渡したの」

「先に“友達”に教えた方がいいかなと思って……と言いたいところだけど、理由はもう一つ。だって、もし渡した瞬間その場であの子にブン飛ばされたりしたら死んじゃうし。アタシこんなヒョロい身体だから、きっとブッ壊れちゃうし。ヤでしょ」

 ミナミがそんなことするはずがない、と言い返したかった。だが言い返せなかった。


 突然の絶交宣告。ミナミはギフトをもって、フロイントシャフトから斡旋されたという“仕事”で何かをやらかした。その結果としてこうなった。信じたくはなかったが、こうしてエニグマによって伝えられた以上、それは組織の総意であり事実だ。


 ミナミがユイに隠れてフロイントシャフトと連絡を取って仕事をしていたこと。

 自分の前では決して見せない、ミナミが“ジャガーノート”として有する凶暴性。

 聞きたくても聞けなかったこと。どこかで有耶無耶にしてしまいたかったもの。

 信じたくない。ミナミのことを疑いたくはない。けれど。


「とゆーわけで、アタシはこれで」

「待ってよ」

 去ろうとするエニグマをユイは引き留める。

「それが分かっているなら――分かっていたなら、フロイントシャフトはどうしてミナミにギフトを使わせるような“ヤバい”仕事を勧めたの?」

「だから知らないよ」

「知らない、って」

 あまりにも突然で無責任だ、とユイは思った。

「総代がそうするって決めたんだから、それなりの理由があるってことでしょ。アタシに言われてもわかんないし。じゃ、話は終わり。もう行くよ。これでアタシの仕事は終わり」

 いかにも面倒そうに話題を区切ったエニグマの左腕を、ユイは掴む。

「ちょっと待って、まだ聞きたいことがあるの。待ってってば――」


「おい」


 エニグマの声色が変わった。

 その瞬間、ユイは掴んでいたはずの腕を振り払われ、逆に捻り返された。

「!」

 脚を蹴られ、体幹を崩され、ただの一瞬のうちに跪かせられた。驚くべき早さと力によるエニグマの体術。ユイよりもさらに小柄で細い体躯のはずなのに、まったく抵抗できなかった。

「何アタシに触ってんだよ、クソガキ」

 希薄だった存在感が一転し、ぞっとするような雰囲気をまとう。

「痛……ッ!」

 エニグマはユイの前髪を乱暴に掴み、無理やり顔を引き上げる。

「なァ、いいか? これはアタシの私信だ」

 彼女はしゃがみ込み、跪いたユイと視線を合わせる。もう片方の手でマスクを外し、素顔を露わにする。日本人離れした白い肌が目立つ顔立ち。それに似つかわしくない、サメのようなギザギザの歯をのぞかせた口。青い瞳の奥に光る異様な輝き。

「“ライトウェイト”。後で一緒に伝えとけ。センパイから大事な助言をしてやる」

 エニグマはユイに顔を近づける。飴かガムでも食べていたのか、香料の匂いが鼻をつく。甘ったるい吐息と裏腹の黒く重いプレッシャーが、髪を掴まれた痛みと共にユイにのしかかる。


「手前ェのやらかしたことの意味もわからなきゃ、自分で汚したケツも拭けねえような、ギフトひとつ満足に制御できねえアマちゃんが――あんまりナメてっと痛い目遭うぞ、ってな」


 エニグマは掴んでいたユイの前髪から手を離し、すっと立ち上がる。マスクを上げて、いつもの口調に戻る。

「じゃ、そーゆーことだから」

 跪いていたユイに手を伸ばす。ユイはその手を借りず、一人で立ち上がる。


 エニグマは肩をすくめた。


―――


 呆然とするユイを尻目に、エニグマは“メッセージを伝える”という仕事を終え、そこから立ち去っていく。


「あ、そうだそうだ。追伸」

 去り際、何かを思い出したように彼女は足を止め、振り返り、そしてこう加えた。


「アンタはまだ一応“おともだち”ってことらしいから。だから、何か困ったことがあったらいつでも来てくれ、ってさ。――じゃあね」


―――


 何もかもを見て見ぬ振りをした。そのツケがまわってきた。もし早めにミナミを止めていたら……旅行も贅沢も出来なかったかもしれないが、こんな事にはならなかった。「お金なんかいらないから隠し事は止めて」とだけ言えば良かったのだ。だがユイはそれが出来なかった。

 カネの問題が理由ではない。ただ、そう言ってミナミに失望されるのが嫌だった。ミナミがこの生活を良くしようと頑張ってくれていることに水を差したくなかった。迂闊に踏み込んで、その関係性を崩したくなかった。そんな勝手な理由で、結局、ユイは彼女を止められなかった。


 でも。

 やっぱり言えない。渡せるわけがない。もしこの手紙を渡したら――ミナミがこの事実を知ったら、どうなってしまうだろう。


 こんな事態になってさえ踏ん切りがつかない。


 ユイは、まだそこから動けずにいる。


―――


 数刻後。


 エニグマはアパートから離れ、しばらく歩いた後に振り返った。

 視線の先――“ライトウェイト”の姿と気配が伝わってくる。その目には、ぼんやりとユイのシルエットだけが浮いている。ある程度の距離までであれば、エニグマはあらゆる障害物を透過して魔法少女の姿を感知することができる。これが彼女の持つギフトだ。

 ユイはどうやら部屋に戻っていったようだ。“ジャガーノート”が帰ってくるまで待とうかと思ったが、面倒なので止めた。ただでさえ元魔法少女を感知し続けていると頭痛がするのだ。ヘッドホンをかけ直し、つないだスマホから音楽を再生する。


 本来の仕事は“ジャガーノート”本人に伝えることだった。それをせず、わざわざ同居人に伝えたのはエニグマなりのアドリブだった。さきほど話した理由はあくまで建前だ。その気になれば経験の浅い魔法少女くらいどうとでもなる。

 ともかく、彼女が本人にきちんと伝えるかどうかは知ったことではないが――少なくとも“バカをやらかした友達をどうにか助ける猶予”くらいまでは与えたつもりだ。


 我ながら回りくどいことをした、とエニグマは思う。


 近くのコンビニでミルクティーとおにぎり、頭痛薬、生理用品、そしてゲームの課金カードを購入。外に出てから喫煙スペースの前で電子タバコを取り出し、マスクをズラして吸う。タバコを片手に、もう片方でスマホをスワイプ。

 仕事が終わったという旨の電話を入れる。

 電話の主……“エンフォーサー”は「わかりましたわ。どうもありがとう」とだけ応えた。冷静さの裏に葛藤が混じったような声色だった。


 アレもアレで、どうにも厄介なことに巻き込まれたらしい。

 前総代の……使命なんだか意思を継ぐんだか……現実に戻ってきてこんな組織を立ち上げるだけでも面倒なのに、よくも彼女はそんな立場を続けていられるものだ。自分なら絶対にそんなことはしないだろう。一度はあの地獄で殺し合った身だ。さらにそれぞれギフトを抱えて、それでもみんな“おともだち”同士で仲良くやっていこうだなんて、そもそも無理がある。


 もっとも、今はエニグマもその恩恵にあずかっている身だ。おかげで仕事や報酬を貰ってダラダラと生きていられるわけで、それで特に口を挟んだりするつもりはない。やりたいようにやればいい。

 ともかく今日の仕事は終わった。帰って秋イベントの周回をしなければ。最近始めた『クマ娘』も、せっかく天井までかけて引いたSSRアメリカクロクマとメキシコハイイログマの育成が済んでいない。これも今日中に終わらせたい。


 タバコを吸い終えたエニグマは歩き出し、大通りへと消えていった。


 ――フロイントシャフトのメッセンジャー、エニグマ。本名不詳。

 またの名を、元魔法少女――第三回帰還者“シックスセンス”。

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