#17 どうしようもないもの。
十一月初め。西東京、某市。某所。喫茶店。
もうすぐ冬が来ようというのに、その日はずいぶんと暖かかった。
喫茶店の隅に男女が一組。その他に客はいない。うららかな陽光が空きテーブルに差し込み、店内をきらきらと照らしていた。
BGMもエアコンの稼働音もなく、そして二人の会話もなく、店内には静かな時間が停滞している。手元の文庫本のページをめくる、その音さえも響くような静寂。
昼前。監察局による一時間の貸切りと、局員と元魔法少女の定期面談。だがおそらく、もうこの二人にとって建前上の面談など何の意味もないのかもしれない。
ヨウコとブスジマは面談開始時刻からほとんど一言も話をしていない。傍から見れば、まるで父子が二人で単にお茶をしているようにしか見えない。実際そうなのだろう。暇つぶしのスマートフォンをいじるでもなく、資料も取り出すでもなく、二人はずっと自分のペースで飲み物を口にしている。
ヨウコはホットコーヒー。ブスジマはアイスココア。いつもの一杯。手間がかからなくて助かる、というのが正直なところだ。マスターは自分の分のコーヒーを淹れ、スツールに座って再び文庫本を取り出す。
貸切り分の料金は監察局からきっちり頂戴している。もちろん口止め料も込みだ。そうでなくても、一般の客に吹聴してまわるようなつもりなどない。
ブスジマの前に置かれた灰皿は――“今日は”未使用のようだった。
そうして面談時刻の半分を過ぎた頃だろうか、ヨウコがバッグから一枚の切れ端を取り出す。特に何かを詮索するつもりなどないが、たまたま目がいった。
「これ」
ヨウコが口を開く。
「この前の、落とし物」
ブスジマはテーブルの上に差し出された切れ端を見ると、無言でポケットに収めた。
「前に、この娘を探してるって」
「うん」
「まだ見つからないの」
「まあな」
「そう」
ヨウコは言葉を続けようとしていたが、飲み込んだようだ。
二人は再び会話を止める。そうして面談は静かに終わった。
―――
「ただいま」
ヨウコが面談を終えて帰宅すると、部屋のソファに母親が座っていた。その顔には憔悴が見てとれる。間もなく母親はヨウコに気付き、力ない笑顔を浮かべる。
「おかえり」
「……大丈夫?」
「ええ。大丈夫」
とても大丈夫には見えなかったが、ヨウコはそれ以上の言及を止めた。
父親はもはや家にすら帰らなくなった。いなくなって何日が経っただろうか。自分の前では気丈に振る舞っていてくれた母親も、最近は明らかにやつれているようだ。
時間が解決してくれることもある、という。監察局の前任者も確かそんなようなことを言っていた。ヨウコにはそうは思えない。真綿で首を絞められるように、彼女の周囲にある関係は徐々に歯車のズレを起こしている。いつの間にか、それは修復出来ないところまで歪みつつあった。
私は元気だから心配しないで、と言いたかった。けれどその原因は他でもなくヨウコにある。そんな自分がどうして声を掛けてあげられるだろう。
「お母さん。夕食、私が作ろうか?」
「平気よ。今日は面談で疲れたでしょ」
疲れているのは母親のほうだ、と言いたかった。だが言うことはできなかった。
ヨウコは家に帰ってからも、なるべく自室に戻らず、居間にいるようにしていた。寝る時も自室ではなく母親で一緒に眠った。最初は自分の中の不安感を消すため、少しでも母親に寄り添っていたいという想いから……だが、いつの間にかそれは、そうして“あげる”ことで母親の心配を和らげたいという想いにすり替わっていた。
その行為自体が、彼女の負担になっているとしたら?
もしかしたら、母親はヨウコの顔も見ていたくないと思っているのではないか?
勿論、聞くことはできない。聞いたところで母親は「そんなことないよ」というだろう。自分にはどうすることもできない。どうにかしてあげたいと思えば思うほど、それは空回りしていく。迂闊なことを言って、この危うい均衡を崩したくない。
もはや、家に帰ることが重荷になりつつあった。だから――あの喫茶店、ブスジマを前にしたあの場は――ヨウコにとっては数少ない安堵の場所になっていた。
何をやっても勝手にズレていく。良い方向に回らない。
どんなに振る舞ったとしても、どうしようもないもの。
これもまた“呪い”なのだろうか、とヨウコは思う。
―――
同日。夕方。警視庁、某警察署。取調室。
「担当のモリワキだ。よろしくな」
椅子に腰掛けた男はにこやかにそう言った。
だが、目が笑っていない。人の表情の変化に疎いシンゴにも、それくらいは理解できた。少なくとも前回担当のヨシムラとは違う。何日か家にも帰っていないのか、その顔には無精ひげが目立つ。窓から差し込む夕日に照らされ、顔の陰影がくっきりと目立っていた。
「死鉤爪の件についての情報提供は聞いた。こういう情報があると俺達もありがたい。おかげで捜査も進んでる」
「はあ」
「さて――それとは別に、今日は聞きたいことがあるんだ」
椅子を引いて深めに腰掛け直すと、モリワキはシンゴの目をじっと見た。
「シンゴ君。あの“デッカいの”と一緒にいたろ」
何の前振りもなく、世間話もなく、用件から来た。
「あいつのことがよく分かってなくてな。知ってる事があれば教えて欲しいんだ」
やっぱりか、と思った。前回の聴取の時、ヨシムラはむしろその部分だけを避けて話をしていたようだった。警察が知らないわけがないし、調べようともしていないわけがない。
「最近、ちょっとした事件があった。どうもそれには、あの“デッカいの”が深く関わってるらしい。俺達は、そいつのことを知りたいんだよ」
「あの、その」
「うん」
「えーと。いや、でも、何て言うか」
「うん」
「……ええと」
モリワキの鋭い視線がシンゴを射貫き続ける。
これは“マジ”だ。
これまで聴取にはなるべく正確に答えてきた。どんなに付き合いがあっても所詮は赤の他人。死鉤爪のメンバーがそうであったように、Wも自分の人生と何か関係があるわけでもない。そもそも知っていることなど僅かだが、それだって洗いざらい白状してしまえば自分の立場も有利になる。元よりそういうものだ。全ては“自分には関係がない”。
「確かに、俺はしばらく傍にいました。でもあんまり、その、細かい事は覚えてないっていうか」
「何でも良いんだ。言ってくれないか」
深い縁などない。絆されるいわれもない。他のメンバーは良くてWだけがダメという明確な線引きもない。一方的なシンパシーを抱く意味など一つもない。でも。
「本当に、むちゃくちゃ強かったですけど、それ以外のことは全然分からなくて。声も聞いたことないし、何者なのかも、どこから来たのかも」
でも――俺はこんな簡単に“W”を売っちゃっていいんだろうか?
「監視カメラの映像で、あれがキツネ面を被った背丈の高い奴だってのは分かってるんだ。そこからの細かい情報が欲しい。例えばあの仮面の下……あいつの素顔を見たことはないか?」
「無いッス」
シンゴはそこではじめて嘘をついた。
カネで働く正式な契約。死鉤爪がやってきた“あれこれ”に加担する雇われ者。確かに社会の為にはなっていないのかもしれない。それでも、シンゴにはあれが血も涙もない機械のような存在だとは思えなかった。
キツネ面の下。一度だけ見た“彼女”の顔。きっと仕事を離れれば、そこにはもう一つの顔がある。グローイング・ワンの所業を聞いた時の静かな憤り。刺された痕を心配したシンゴに示して見せた、ちょっとした手振り。黒ずくめのコートと手袋。少しだけ見えてしまった白い肌と素顔。シンゴが交わしたのはせいぜいその程度だったが、たったそれだけでも彼女が“人間”であることは分かった。そんな彼女との些細なやりとりを、シンゴは何故かいつまでも覚えている。つまりは……きっと勘違いかもしれないが……それは、ちょっとした……ひと目惚れのようなものだったのかもしれない。
「本当か?」
モリワキが詰め寄る。彼がまとうピリピリとした空気が肌にまで伝わる。警察を相手に嘘をつくという行為が易しいものではないことくらいシンゴでも知っている。吐いてしまえば自分は有利になる。それでも。
「知らないです。何も」
シンゴは何も分からない。だが彼女は間違いなく人間だ。知っているほんの少しの素性までをも明かすことまではしたくない。それは“お目付役”であるシンゴが見せた、彼女に対する唯一の仁義だった。
―――
小休憩の時間を取り、モリワキは席を外し、喫煙室へと向かう。
「何か分かりましたか」
先に入っていたモリワキの部下、アヅマが声を掛ける。
「いや。あの少年、嘘をついてるようには見えなかった。自分で名乗ったポジションも、家族構成も、経歴も、全部本物だった」
「この前にヨシムラが聞き出していた死鉤爪に関する情報も概ね正確でした。彼、組織のメンバーとしてはだいぶ下っ端のようで、上部組織やら細かいことまでは分かりませんでしたけど」
「だから“何も知らない”ってのは本当なんだろう」
思い詰めた顔で煙草に火を付けるモリワキに、アヅマが問う。
「モリワキさん、あの“デッカいの”に関する情報も、たぶんこれ以上は……」
「ああ」
「俺達の役目はグループの検挙です。もちろん、モリワキさんに縁のある人が被害に遭ったってのは聞いてますけど」
「分かってるよ」
煙草の煙を強めに吸い込む。過燃焼で苦くなった吸い口がモリワキの顔をしかめさせる。苛立ちと共に吐き出された煙で、狭い喫煙室が白く霞んだ。
「刑事は事件を解決するのが役目。それだけだ。そんなことは分かってる」
モリワキはかつての上司のことを思い出す。
もしあんな風に――狂犬のように振る舞うことができたのなら。
あの日、モリワキは個人としてフロイントシャフトにアプローチした。そうして総代であるアカネから情報を聞き(本来の仕事ではない、私情の混じった捜査だ)、死鉤爪の傭兵として働く元魔法少女のこと、そして彼女が噂になっていた一連の暴行事件の犯人であろうことを掴んだ。つまり非公式ながら“裏が取れた”のだ。
部下であるヨシムラがシンゴから得た情報を元に近く死鉤爪の検挙に乗り出すつもりでいると伝えると、アカネはモリワキに警告した。彼らは“野良”の魔法少女を従えているということ。そしてそれを相手にすることがどんなに危険かということも。
――弱点は無いのか?
――私ども魔法少女にとって、ギフトはもっとも重要なものです。その詳細を無闇に明かすのは命取りにも等しいこと。ましてや弱点など“おともだち”にすら明かすことはありませんわ。
アカネから聞き出したのは“ジャガーノート”という名前と、人間離れした膂力と耐久力を誇る戦闘狂だということだけ。アカネは確かに彼女を売ったが、それでも自分達にも分からないことはある、と付け加えた。故に少しでも情報が掴めないものかとモリワキは(やや強引に手続きを踏んで)シンゴに聴取を試みた。しかし本当に彼は何も知らないようだった。
煙草を吸い終え、モリワキは喫煙室を出る。
自分達の主な役目は死鉤爪の検挙にある。
だがモリワキには“ジャガーノート”のことがどうしても気がかりだった。私情かと言われれば私情だ。あれから被害にあったクシタニはどうにか意識を取り戻したが、身体には少し不自由が残り続けるらしい。ただの警察官である彼が何故そんな目に遭わなければいけなかったのか。モリワキはその不条理に憤っている。
だから。
―――
取調室に戻り、モリワキは少し肩の力を抜いてシンゴと“世間話”を試みる。話してみればシンプルな人間だった。今どき珍しい純朴な青年といってもいいかもしれない。それでも、犯罪者は犯罪者だ。
「お前のやったことは些細なことかもしれないが、それで不幸になったり、大事な財産を奪われる人が出てくる」
「そっ……スよね」
「でも組織なんてそんなもんなんだよ。個人個人の当事者意識がないまま“それが役目だから”なんて理由をつけて仲間内でやってるだけ。そのうちに、それが罪であるという認識も薄くなってくる。お前、中学とか高校のクラスでイジメとかなかったか?」
「ありましたね」
「イジメられるほうだったか?」
「あー、その。イジメ、る、ほうでした」
「その時、何考えてた?」
「こういうことやったらみんなウケるだろうなとか」
「被害者のこと考えてたか?」
「いえ」
「ま、そういうことだよ。つまり“ノリ”なんだ。組織にいると、ノリに身を任せちまう」
半グレどものグループもフロイントシャフトも根は同じだ。身内のノリで組み合って勝手にやって、それが社会や周囲にどんな影響を及ぼしているかを理解していない。モリワキは今回の件でフロイントシャフトを見零した。だが今回限りだ。あの手の集団はいつかまた何かをやらかすだろう。彼女らの存在も許したつもりはない。
そうしている内に時間が来た。モリワキは立ち上がり、先に出口へと向かいドアを開ける。金属製のドアノブに指を触れた瞬間、ぱち、と静電気が走った。
「……ッ」
続けてシンゴにも席を立たせ、退出を促す。
シンゴがパイプ椅子の縁に指を掛けると、ぱち、と再び音が鳴った。
二人は顔を見合わせて、微妙な笑顔を交わす。
「まあ、そういう時期だからな」
「俺、すごい静電気体質なんスよ」
「嫌になるよな。触れるたびにパチパチなるのは。体質が関係するのかどうかなんて分からないが」
「こればっかりは、どんなに身体鍛えたり警戒してても、どうしようもないですしね」
他愛のない会話だ。
警官に付き添われて廊下を歩いて行くシンゴの背中を見送り、モリワキは取調室の電話で使用終了の連絡を入れる。部屋のライトを消し、ドアに鍵をかけ――そこでモリワキはふと自らの指を見る。
「……」
“どんなに身体を鍛えたり警戒していても、どうしようもないもの”。
モリワキは眉をひそめ、二本の指を軽く擦り合わせた。
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