#10 何も知らなかった。

 九月半ば。夜。都内、繁華街。某ビル、事務所内。


「ホラホラ、そんな堅苦しくならないで。今日のお仕事はサ、そんなに難しいことじゃないんだヨ」

 煙草を一本吸い終えると、ケンジはひらひらと手を振る。

 テーブルの上にはペットボトルの水が二本。


 題して“はじめてのおつかい”。シンゴが男として一皮むけるファーストミッションのようなものだ、とケンジは言う。


 内容は単純。これから一時間後、シンゴはとある荷物を、歩いて二十分ほどかかるクラブの一つに徒歩で持って行く。死鉤爪が運営に絡むそのクラブの場所は、しかしグローイング・ワンのシマにほど近いところにあり、顔の知られた人間ではトラブルに巻き込まれる可能性もなくはない。それ故に今回はいつものメンバーではなく、新米のシンゴに任せるのが妥当だと判断された。シンゴならそこらへんをほっつき歩いていても溶け込むだろう。

「でもサ、さすがに一緒についていくのはマズいじゃない? だから“はじめてのおつかい”作戦。シンゴとは付かず離れずの距離で身を潜めて、で、もし何かあったらこっそり処理して欲しいワケ。何かあったらっていうのは、その……ホラ、例えば、邪魔する奴が出てきちゃったりした場合にサ……わかるよネ? うまくいったら報酬も弾むからサ」

 目の前の“それ”は分かったとも断るとも答えず、微動だにしない。やれやれ、と肩をすくめてから、ケンジはボトルの水を手に取り、一口飲む。ぱき、とキャップを外す音だけが部屋に響く。

「ここまで用意するくらいにはアイツのこと気に掛けてんのヨ? 俺達もサ。だって大事な大事な“仲間”じゃない。なんだかんだ一緒に居たことだし、そっちもそう思ってんじゃないの、ねえ――W?」


 ルートと任務内容の確認だけすると、Wは何も言わず、未開封のボトルを取って席を立って出て行った。

「なんだ、せっかくその仮面の下の顔が拝めると思ったのに」

 肯定とも否定ともとれない仕草。だが、カネを出すのはこちらで、カネがほしいのは向こうだ。問題は無いだろう。


「ま、うまくやってネ」


―――


 一時間後。繁華街。


 サラリーマンや客引きでごった返す大通り。そこには人混みに紛れ一人でふらふらと歩くシンゴの姿があった。


 簡単なお仕事だヨ、とケンジは言った。そして、シンゴにしか出来ない仕事である、とも。これを達成すれば自分も死鉤爪のメンバーとして認められる。これは確かに、紛れもないチャンスだ。

 けれども――と、シンゴは思う。それでこれから自分はどうしたいのか。思えば死鉤爪のメンバーになったのも、高校を卒業してブラブラしていたところを先輩に誘われたからに過ぎない。メンバーになったあとも、結局は言われるままに動いてきた。「まだ新米だから」とバカにされたりイジられたりすることもあったが、正直なところ、その立場はシンゴにとって“楽”だった。権威もないが、責任もない。何も知らない新米。いつまでもその立場でいられれば良いな、と思うことすらあった。

 今回の仕事はいわばイニシエーション。“何か”を所定の位置に運ぶだけの、簡単で、重要な仕事。中身は見るなと言われた。元より見るつもりもない。興味もないからだ。何も知らない。知らないなら、そのままでいい。


 歩き始めて十分あまり。つとめて平静に振る舞おうとする。けれどその足取りはどうしても不確かなものになる。視線を彷徨わせるな。まっすぐ歩け。大丈夫だ。自分は誰の気にも留められていない。自分を気にする者など誰もいない。


 今回、Wは傍にいない。当然といえば当然である。

 あれから……Wが死鉤爪の仕事に加わるようになってから、しばらくが過ぎた。その間、シンゴはずっとWの“お目付役”でいた。もちろん期待されてそこにいたわけではない。ただの見張りのようなものだ。そんなことは自分でもわかっている。当のWも、シンゴのことを特に気に掛ける素振りなどなかった。いてもいなくても変わらないと認識されているのだろう。

 Wはとにかく強かった。寡黙だが、ひとたび力を振るえばその場を全て支配した。だが自分もああなりたいかと言われれば、たぶん違う。別に自分はヒーローに憧れているわけではない。あるいは、Wのような強い力を従えて“成り上がりたい”か? というと、それも違う。


 いったい、自分は何をしているのだろう。何がしたいのだろう。

 そんなことを考えながら、気もそぞろに大通りを歩いていく。


―――


 妙な素振りをしているな、とクシタニは思った。


 もちろん、この繁華街の人間の顔をすべて覚えているわけではない。けれど“慣れない人間”は一目で見て分かるものだ。

 男性。見た目は二十歳前後。少年、と言っても差し支えないだろう。垢抜けない顔立ちに、黒に戻りつつある中途半端な茶髪。どこか“無理に着崩した”ような服装。誰にも声を掛けられまいと、わざと胸を張って歩く姿勢。それらすべてが、この街に馴染んでいない。


 大丈夫だろうか。


 怪しいと思いながら声をかけるな、とはクシタニの信条である。警官から声をかけられて警戒しない人間はいない。なるべく柔らかに、和をもって接する。それが第一だ。


「お兄さん」

「はい」

 ひゅ、と小さく息を飲む音が聞こえた。

「どうも、ごめんね、突然声をかけちゃって」

「いえ」

 少年の目が泳ぐ。警戒している。当然だ。

「お兄さん、どこから来たの?」

「か、川崎から」

「そうか、今日は遊びにきたの?」

「はい」

 少年は目を合わせようとしない。これも当然だ。

「最近、このあたり、ちょっと物騒だからね。それで、大丈夫かなって思って声を掛けたんだ。それだけなんだけど」

「そうですか。いや、あの、特に、問題とかないんで」

 ――少し様子がおかしいな、とクシタニの勘が囁く。

「ちょっとだけ、お話してもいいかな」

「急いでるんで」

「ごめんね、すぐ終わるからさ」

 そう言ってクシタニは懐から手帳を取り出す。その瞬間――がこん、と大きな音がした。


 ビルとビルの合間。路地裏で、何かが勢いよく崩れた音。


 クシタニと少年は、そして周りの人々も一斉にそちらの方を見た。

「……」

「……」

「……ええと。ちょっとそこで待っててくれるかな。すぐ戻るから」

 少年にそう伝えて、クシタニは路地裏へ向かう。少年はすぐ逃げるわけでもなく、言われたとおりにそこに立っていた。


 確認して、異状がなければ戻ろう。そして少年に、気をつけて帰るよう指導しよう。そう思いながら、クシタニは路地裏へと向かう。


 路地裏は薄暗く、何も見えない。ライトを取り出して照らす。少し奥まったところに、ビールケースや粗大ゴミの山が崩れている。

「?」

 人の姿はない。ケンカがあったわけでもないらしい。クシタニは歩を進め、崩れた位置まで歩いていく。おかしい。ただ崩れただけだろうか。ライトで入念にあたりを照らす。やはり誰もいない。


 後ろに気配。


 その瞬間、衝撃があった。とても人間とは思えない、異様な力。

「……」

 上から振り下ろされる。右肩に痛み。ライトを取り落とす。衝撃に姿勢を崩し、クシタニはその場でたたらを踏む。

「ぐ……」

 振り向いて声を掛けようとした。もう一度、今度は脇腹に衝撃。全身の力が抜け、振り向く事すら出来ないままその場に倒れ込んだ。そして痛みに意識を失う間際、冷たく湿ったアスファルトに転がりながら、クシタニはそれでもなんとか襲撃者の姿を見ようと、渾身の力で首を向ける。真っ黒なコート姿の“何者か”がいた。最初はバットか何かの鈍器を使われたのかと思った。だがその手には何も持っていない。

 顔は見えない。繁華街の光を背に、そのシルエットは倒れ込んだクシタニを一瞥し、闇に紛れるようにどこかに消えた。


 間もなく、クシタニは意識を失った。


―――


 待っていてくれ、と言われたまま五分が過ぎた。


 行っていいものかと迷ったが、結局あの警官はいつまでも来なかった。シンゴはこっそりとその場を後にし、無事に目的地に辿り着いた。警官に声をかけられたことさえ除けば、後は楽なものだ。

 目的地であるクラブは大通りから外れた狭い道の途中にあった。入り口に立っていた男にケンジの名を出すと、奥に通された。持っていた小包を渡し、帰るように言われた。入り口の男も受取人もまるでシンゴに興味などないようで、何もかもが無味乾燥に進んだ。後ろ暗いこともドラマティックなことも、何一つなかった。


 こんなものか、と肩の力が抜ける。


「あれ」

 クラブから出ると、そばの物陰に気配があった。普段はまったく役に立たないその勘がその時はたまたま働き、何かの気配を感じ取った。

訝しげな表情でひょいと物陰をのぞき込むと、そこには明らかに異質な、しかし見慣れた姿があった。

「何してんの」

 長身の、黒いコート姿。目深にかぶったフード。そこにあるはずのキツネ面はなく――代わりに、顔があった。手にはペットボトルの水が握られている。

声を掛けられた“彼女”は少しだけ目を見開いたあと、咄嗟にキツネ面を取りだして顔を覆う。

「あ、その。悪い。見るつもりじゃなかった、んだけど」

 反射的に謝り、シンゴは顔を背ける。ややあってから振り向き直すと、そこにはいつものWがいた。

「もしかして……さっきから傍にいたの?」

 そう言うと、機械的な仕草でWは首を横に振った。


 それが嘘であることは、なんとなくシンゴにも分かった。


―――


 結局、自分はいつまでも“新米”扱いのままなのだろう。一人でこなすはずのミッションはしかし裏にWという護衛がいて、そしてクラブの裏には死鉤爪のミニバンまでもがあった。


「何だよ。せっかく迎えに来てやったのに」

「いや、いいッス。俺、一人で帰るんで」

「おう、今日はお疲れ」

 さすがにあの姿で繁華街を歩くわけにもいかないのか、Wはミニバンに乗って帰るらしい。一緒に乗っていくか、と運転手の男は言ったが、なんとなく気まずくなって、シンゴは一人でそこを離れることにした。


 ボトルの水を飲んだ時に外したのだろうか、Wは珍しく手袋をしていなかった。コートの長袖から伸びる手は白く細く、黒ずくめの中にあってやけに映えた。怪力をもったバケモノ。人間戦車。そんな言葉に似つかわしくない……女性の手。Wはミニバンのドアノブに触れる。ぱち、と音がして、反射的に手を引っ込める。静電気に怯んだのか、そんな仕草を見せるWの姿はいつもより少しだけ小さく見えた。


 ミニバンは走り去り、後にはシンゴだけが残される。

 はじめての“仕事”を果たしてなお、帰り道を行くシンゴの足取りはどこか覚束ない。その脳裏には、先ほど一瞬だけ見えてしまったWの顔があった。


(あれ、たぶん火傷だよな)

 前髪を下ろした、表情のない女の顔。前髪の隙間から見えた、爛れた皮膚の痕。

 それでもシンゴは――彼女の顔を、美しいと思った。元魔法少女。“魔女(ヘクセ)”。話には聞いていたけれど。

(あんな顔、してたんだ)

 キツネ面の下で、どんな顔をして力を振るっているのだろうか。仕事が済めば面を外して、それから自分が見たことのない表情をしたりもするのだろうか。自分ではない誰かに、その顔を見せるのだろうか。つまるところ――他のあらゆる事がそうであるように、シンゴはWのことも何も知らなかった。

 自分は物語の主人公などではないのだ。


 シンゴの一日はこうして終わった。この日を最後にシンゴはWのお目付役を任されることはなくなり、そして二人は二度と会うことはなかった。

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