#9 どっちだろうな。
九月。土曜日。昼過ぎ。
「ただいま」
「おかえり」
ヨウコが買い物から戻ると、やつれた表情の母親が小さく返事をした。
「牛乳はいつものが無かったから、代わりのものを買ってきたよ。後はメモ通りに全部」
「ありがとう。……そこに置いておいてもらえる?」
「うん」
しんと静まりかえった家。台所に立つ母親のそばに袋を置き、冷蔵庫から麦茶を取り出して飲む。母親の横顔を見る。
「父さんは?」
言おうか言うまいか、少し迷った後に口に出す。
「……部屋にいるわ」
「そう、なんだ」
会話が続かない。
―――
自分のせいなのだろうか。
自分が“こんなの”だから、もう皆も元には戻れないのだろうか。
少し前から、父親が壊れてしまった。酒に浸ったわけでも、暴力を振るうわけでもない。仕事にも行ってくれている。ただ、それ以外が空虚になってしまった。やはり親戚の集まりなど行かないほうが良かったのか。けれど、それだけが理由ではないことも分かっている。おそらくは――この一年、いや、二年あまり――積み重なってしまったものが決壊したのだろう。元魔法少女を持つ父親のストレス。たぶん、そういうもので。
かつては決して良い両親ではなかった。共働きで、寂しい思いをしたことも数知れない。けれど――ヨウコがあの地獄から帰ってきた時、両親は泣いて喜んでくれた。あれから一年。まだ辛いことはいくつもある。心がバラバラになりそうな時もある。そんな中で、この乾いた家族が一つになったという事実は、少なくともヨウコによっては小さな救いだった。
それは、いつか思い描いていた夢の景色のようで。いつまでも続けば良かった。でも、それは叶わない願いだった。
やっぱり、これは現実なのだ。
夕食はコロッケ。仕事一筋だった母親が料理をはじめて一年。温かい食事。味付けもヨウコの好み。丁寧に崩し、口に運び、ゆっくりと咀嚼する。一方、対面にいる父親は美味いとも不味いとも言わず、がつがつと食い、ごちそうさまも言わず部屋に戻っていってしまった。
「……おいしい?」
「うん。おいしい」
母親がヨウコのことを心配してくれているのは――最初は疑っていたが――おそらく本心なのだろう。それだけはありがたかった。
かつては父親も同様だった。けれど、壊れてしまった。家族は歪んでしまった。
こんなことなら私は戻ってこないほうが良かったのだろうか。他の子を殺めてまで元の世界に戻ってきて――それで、こんなことを考えている。
「ねえ」
「うん」
「あれから……心配だったけど、少し元気になってくれて良かった」
「うん」
「あのね、ヨウコ」
「うん」
「自分のせいだなんて、思わなくていいからね」
「……ありがとう」
数日後。父親はもう朝食も夕食もいらないと言い放ち、とうとう深夜に帰宅して寝る以外、家に居ることすら無くなった。明らかにヨウコのことを避けるようになっていた。一方でヨウコは母親のことを手伝い、家事や料理を覚えるようになった。
何かしていないと落ち着かなかった。何かしていないと、余計なことを考えてしまいそうになっていた。それから変わったことがもう一つ。布団を母親の寝室まで移動し、二人で寝るようになった。また悪夢を見た時、誰かにすがりつけるように。
―――
九月。夕暮れ時。都内、繁華街のはずれ。警視庁管轄警備派出所前。
「顔を見るのは久しぶりだなぁ、モリワキ君」
派出所から出てきた制服姿の警察官が、モリワキ達を見るなり快活な笑顔を浮かべた。
「ご無沙汰してます、クシタニさん」
「茶でも飲んでいくか?」
「いえ。ご挨拶に伺っただけなので」
クシタニと呼ばれた男は制帽を外し、白髪交じりの短髪をがしがしと掻いた。
「今日はどうした。例の襲撃事件の絡みか?」
「そんなところです。このあたりで捜査を始めているので、一声おかけしておこうと思いまして」
「真面目だなあ。何にせよ、頑張ってるようじゃないか。俺んトコに来た頃はまだ新米だったのに、時が経つのは早いモンだ」
「昔のことですよ。お恥ずかしい」
「そっちは、今の部下か?」
クシタニは後ろにいたヨシムラを見つける。年の割にまん丸で、好奇心旺盛な瞳。
「あ、はい。ヨシムラといいます」
「そんなに固くならなくてもいいよ。俺は単なる“おまわりさん”なんだから」
クシタニはモリワキが警官として採用された当初に上司だった男である。その後モリワキは刑事部の道へ進み、一方のクシタニは“おまわりさん”であり続けた。「あくまで地域の平和を守りたい」という純粋な思いを持って役目に就くクシタニを、モリワキは階級として上となった今でも尊敬し続けている。
「最近、このへんはどうです?」
「昔に比べりゃ静かになったよ。規制も厳しくなったしな。裏じゃあ色々あるんだろうが、少なくとも、俺たちが見えるところで派手なバカをやらかす奴はいなくなった。……賢くなったんだか、ズルくなったんだかは分からないが」
クシタニはそう言って苦笑する。
「そういう“裏”を探るのが自分達の役目ですから」
「まあ、でも相手は若い奴らだからな。俺、昔に言っただろ。覚えてるか?」
「“どんな人間でも、生まれた時から悪人はいない”」
「そう。あいつらだってちゃんと話して、相手してやれば分かってくれるんだよ。それ、忘れないようにな」
クシタニはいつでも他人に寄り添おうとしていた。モリワキはずっとそれを傍で見ていた。“おまわりさん”になるべくしてなった男の見本のようなものだ。事実、今でも変わらないその人柄によって、この繁華街の中にも協力者や慕う者は多いという。
「最近は女の子が絡んでる件もあるみたいじゃないか。そういうの聞いちゃうとな、しんどいもんだ」
「そういえば」
それから二、三の事務的な会話をかわした後、モリワキはクシタニから一枚の写真を見せられた。
「これって」
写真の中では、一人の少女が笑みを浮かべて、クシタニの横に立っている。
「うちの娘だよ。この前、誕生日だったんだ。去年、うちのオヤジが死んで、年賀状送れなかっただろ」
「おいくつに?」
「十六だよ。来年は高校生だ」
毎年、クシタニから来る年賀状にはきまって家族の写真が載っている。彼は、四十を超えてようやく授かった一人娘を溺愛している、いわば“親バカ”というやつだ。
愛情に満ちた、幸せそうな家族。
「この前に生まれたと思ったらもうすぐだ。早いもんだなあ。俺も年を取るわけだよ」
そこにいたのは警官ではなく、一人の、父親としての顔。
「モリワキ君も早く結婚しなよ。俺も昔は仕事一筋でやっていこうと思ってたけどな、でも、子供がいるってのはいいもんだよ」
十六歳。女性。つまりそれは、例の集団失踪の対象になるということでもある。
もちろん、クシタニの前でそんな事を口にするつもりはない。ただ、そのことが頭をよぎってしまった。それだけだ。彼だって、そんな縁起でも無いことは考えていないだろう。だがもし、一人娘がある日突然に失踪してしまったら、クシタニはいったいどうなってしまうのだろう。
あの人の――ブスジマのようになってしまうのだろうか――それとも。
―――
「ブスジマさん、って、どんな人だったんですか」
派出所を出て、モリワキとヨシムラは署に戻る最中。駅のホームで電車を待っていると、ヨシムラが声をかけてきた。
「真逆だよ。さっきの、クシタニさんとは」
「真逆」
ヨシムラはその言葉をオウム返しにする。
「“とんでもない人”だったよ。一言で言うと。いちど事件にあたったら、どこまでも執念深く捜査する。こんなことを言うのもなんだけど、かなり法令スレスレのこともやってた。成果も上げるけど、正直、上層部からはだいぶ疎まれてた。表彰されたことなんかもない。で、ついた渾名が狂犬」
「狂犬」
「あの頃のクシタニさんも仕事の鬼だったけど、ブスジマさんも鬼だった。でも真逆なんだよ。クシタニさんは人間を見てる。ブスジマさんは人間を見ていない。ただ事件を解決するためにどこまでもやる。なんだって使う」
自動販売機でペットボトルの茶を二つ買い、一つをヨシムラに渡す。
「仕事熱心、と言っても、やり方は人によって全然違うものなんですね。それで……モリワキさんは?」
「うん?」
「モリワキさんは、どっちなんですか」
ホームに立つ二人の前を、けたたましい音を立てて回送電車が通り過ぎていく。
「俺は……どっちだろうな」
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