#7 オレにはわかんねえな。

 九月。小雨の降る日。西東京某所。喫茶店。


 前回会った時とずいぶん変わったな、というのがブスジマの抱いた印象だ。何しろ、昼前から雨になると天気予報でさんざん言っていたのに、彼女は傘すら持ってきていなかった。おかげでコンビニで買う羽目になった。ビニール傘一本に領収書を切ることなど、前職でもやらなかった。

 焦点のあわない目。受け答えにも気力はない。おそらくこれは“演技”ではない。それくらいは見れば分かる。


 午前十一時過ぎ。面談開始から十数分。テーブルの上にホットコーヒーとアイスココアが置かれる。ヨウコは一言も発することなく、目の前に置かれたコーヒーカップの縁をじっと見つめ続けている。先ほどからずっとこうしている。向かいに座るブスジマは煙草をくわえ、火もつけずにただ黙ってヨウコを見ている。


 そうして時が過ぎていく。

 ただ過ぎていく。

 壁掛け時計の針が、ゆっくりと時を刻んでいく。


 窓の外ではしとしとと雨が降り続いている。店内が冷えすぎたと思ったのか、マスターが冷房の温度を調整する。手の付けられていないコーヒーが冷めていく。まるで抜け殻のようだ。前もよく相手にした。“こういうタイプ”は基本的に向こうが口を開くまで待つ。それが鉄則だ。何十分でも、何時間でも。だが――今は“取り調べ”ではない。


「どうした」


 先に口を開いたのはブスジマだった。


―――


 ――聞いたことあるでしょ。“失踪から帰ってきた子は、帰ってこなかった子を殺してるかもしれない”――って。


 あの日、親戚の叔母さんはそう言った。数週間、ずっとその言葉が耳から離れない。


 そうか。自分は人殺しだ。忘れかけていた。

 二年に一度の集団失踪事件。それが発生してから十年あまり。噂は以前からあった。けれど、いざ当事者となると、いざ自分が言われると――どうしていいか分からなくなる。

 噂は事実だ。ヨウコは、本当にあの地獄で他の少女達を殺してきた。本当の名前も知らない。どこから来たとか、何をしていたとか、口すらも聞かずに絞め殺してしまった。死にたくない。ただそれだけのためにヨウコは行動し、生き延びた。あの時自分が何を考えていたのか、それすらも夢の出来事のようで、詳しく思い出すことができない。でも顔だけは……顔だけは覚えている。あの子達は、まるで呪いをかけるように断末魔の表情を見せてきた。

 もちろん、この現代においてそれが罪に問われることはない。忘れてもいい。探せば仕事だってある。ヨウコがこれから人生を謳歌することに、法律上は何の不自由もない。

 けれどそれは一生ついて回る。今になってさえ。地獄は終わった。でも、まだ続いている。いつまで続くのだろう。気持ちを切り替えて、後ろ指をさされるのを気にせず、堂々と生きる。それが出来ればどんなに楽なことか。何をすればいいのかもわからない。


 いつまで――いつまで、あの子達は私を呪い続けるのか。


―――


 テーブルの上に一粒、二粒、と涙が落ちる。

 気づけば、ヨウコは表情をほとんど変えないまま泣いていた。


「どうした」


 ブスジマがもう一度訊ねる。ヨウコは呼びかけに反応することもなく、ぽろぽろと涙をこぼしている。どれくらいそうしていただろうか、やがてヨウコはぼそりと呟く。

「……」

 何か聞こえた。冷房の音にかき消されそうなほど小さな声で。それを聞いたブスジマは肯定も否定もしなかった。そしてヨウコは再び黙った。


 前回までは決して見せなかった顔だ。


 ――思えば、シオリがこんな顔を見せたことなど一度もなかった。父親の前では笑顔も泣き顔も見せなかった。元よりそういう間柄で、それは自分が撒いた種のせいだ。それで構わない。あの時はそう思っていた。


 やがて、テーブルの上にベルギーワッフルと季節のパフェが運ばれてくる。先ほどマスターに頼んだものだ。


「食おうよ。美味いんだよ、ここのメシ。なんとかジャムとソースと……そういうのが」


―――


 不思議なもので――人間は泣いていても、それをどこか俯瞰して見ている視線というものが出る時がある。どうして自分は泣いているのか、制御できない気持ちを何とか落ち着かせようとした結果、そういうものが生まれる。


 前任者のコニシという女性は仕事熱心で、感情豊かだった。もしこの場にいたなら、知り得た知識をもって“ケア”をはじめたことはずだ。彼女はいたって真面目だった。本気でこちらのことを考えて、相談に乗ってくれていた。決して煩わしかったわけではない。理解者として真剣に接してくれていた。それだけでいくばくか救われた気になることもあった。ヨウコちゃんは人殺しなんかじゃないよ。彼女ならきっとそう言ってくれただろう。

 対してブスジマは何も喋らず、寄り添って何をするわけでもなかった。ヨウコが泣き止み、崩れた気分をなんとか落ち着かせるまで、ただただ置物のように黙って座っていた。

 そもそも理解しようとする気もないのだろう。こんな人間がどうして監察局に入って、ここにいるのか分からない。


 けれど――それが、今のヨウコにとっては、ほんの少し、ありがたかった。


 ヨウコは鼻をすすり、クリームの溶けかけたパフェを口に運ぶ。繊細な味もわからない。冷たくて、ただ甘いパフェ。

「美味いか」

 ヨウコは応えず、ぬるまって酸味の出たコーヒーを飲み、またパフェをつつく。


 どこまでも得体のしれない男。警戒を解いたつもりもない。それでも、この数週間ずっと我慢してきたはずの涙がこぼれてしまったのはなぜなのか。自分でも分からない。

 ブスジマはもう一方のベルギーワッフルを前に、雑にフォークで突き刺してかぶりついている。美味いとも不味いとも言わず、機械的に咀嚼し、平らげる。

 なんなのだろう。この人間は。


 パフェを食べ尽くす頃になると、ヨウコは泣いているのが馬鹿らしくなった。気持ちの整理がついたわけでもない、何かが決定的に変わったわけでもない。ただ少し落ち着いた。そんな気がする。


 外に出ても、まだ雨は降り続いていた。


―――


 数日後。駅前。夜。個室居酒屋、鳥民。


「先輩、煙草、止めたんですか」

「んなことねえよ。買ってくんの忘れただけだよ」

「俺の、一本吸いますか」

「いらねえよメンソールなんか」

「そうですか」

 お通しのキュウリ漬けをぼりぼりとつまむ。ビールが出てくる前に、あっという間に自分の分を食べ尽くす。やがて向かいに座るモリワキが煙草を一本吸い終えたタイミングで、二人分のビールと手羽先、焼き鳥、玉子焼きが運ばれてくる。二人は乾杯をすることもなく、ビールに口をつける。

「それからな、モリワキ、その先輩ってのを止めろ。もう関係ねえだろ」

「じゃあなんて呼べばいいんですか」

「それ以外だよそれ以外。好きに呼べよバカ野郎」

「せんぱ……ブスジマさん、今日、機嫌悪いんですか?」

「いいわけねえだろ。何が悲しくて仕事帰りに呼び出されて、こんな捜査協力者みてえなマネしなきゃならねえんだ」

 ビールを半分ほど呷り、手羽先をかじる。


「で、何だよ。お喋りしにきたわけじゃねえだろ」

「……グローイング・ワンって、覚えてますか」

 モリワキは焼き鳥の串を外しながら訊ねる。

「覚えてるもなにも、一緒に追ってただろ。女コマして小遣い稼いでる半グレども」

 ねぎま。もも。ぼんじり。二本外して、ビールを飲む。

「この前、そいつらがこっぴどくやられたらしくて」

「ガキどものケンカなんて、いつものことじゃねえか」

「他の連中のシマでシノギやってたところ、ほとんどボコボコにされたみたいで。それも一方的に」

 ブスジマが鼻で笑う。

「ケンカのやり方も知らねえでふっかけていくなんて、連中にしちゃずいぶんマヌケなことやってるな」

 本当は塩が好みだったが、ブスジマはタレ派なので逆らえない。外した先からブスジマはひょいひょいとつまみ上げていく。

「いや、何も対策してなかったわけじゃないんです。ケンカのやり方は知っててやったんですよ。奴らにしてみたらいつものことで、いつもの挑発行為だった。でも」

 最後の一本は串から外さず、モリワキはそのままかぶりつく。

「“人間とは思えない何か”にボコボコにされた、って」

 ブスジマの動きが一瞬だけ止まる。顔色は変わらない。

「逮捕した一人を締め上げたら、そんな事を言ってました」

 続けて玉子焼きが運ばれてくる。テーブルに置かれた直後、ブスジマが問答無用で醤油をだぼだぼとかける。

「その相手のグループは」

「今は言えません。捜査機密なので」

「あっ、そう」


―――


「何か頼みますか」

「焼酎。梅干し割り」

 テーブルの上の呼び出しボタンを押す。妙に甲高いアニメ声の店員がやってきて、注文を取る。

「前にも言いましたよね。世間知らずどもが、大人の決めたルールも守らないでバカなことをしている、って」

「その世間知らずをしょっぴくのがお前の仕事だろ?」

「頑張ってやってますよ。色々と。何しろ、さんざんその“やり口”を仕込まれましたからね。“先輩”に」

「ろくでもねえところだけマネしやがって」

「効果的だと思う方法を選んでやってるだけです。……それで」

「元魔法少女、か」

 モリワキが食べないでいたお通しのキュウリ漬けを、ブスジマは手元に寄せる。

「まさかとは思いますが」

「アホかお前は。半グレのガキどもに、局が仕事を斡旋するわけねえだろ」

「“表向き”は?」

「表も裏もあるかこのバカ野郎」

「それじゃあ」


 続きを言いかけたところで、アニメ声の店員が二人分の酒を持ってくる。モリワキは言葉を止め、いそいそと空のグラスや取り皿を返す。

 追加で頼んだなんこつ唐揚げ、冷やしトマト、ポテトフライがテーブルに置かれる。


「――フロイントシャフト、っていうのは」

「知らねえ」

 即答された。

 ブスジマは箸で梅干しを崩し、焼酎を呷る。モリワキはどうもこの“酒の中に何かが浮いている”というのが好みではない。あくまで個人的な好みなので口には出さないが。

「局の人間なら、何か知ってることもあるかと思いまして」

「知らねえ。そんなモン、オレに聞くよりお前らの方が情報掴んでんじゃねえのか」

「掴んでますよ。ある程度は。でも全部じゃないです。だからこうして捜査協力を仰ごうかと思って“聞き込み”をしてるわけで」

 ごりごりごりと音を立てて、ブスジマはなんこつ唐揚げを咀嚼する。焼酎で流し込む。モリワキは冷やしトマトをつまみ、ビールを飲む。

「良い度胸だよ、お前」

「度胸がなきゃ仕事はやれませんよ」

「言っておくけどな、こっちだって真面目に仕事してんだよ」


 やがて焼酎を飲みきったブスジマは冷やしトマトを二ついっぺんに頬張り、それからこう返した。

「……お互いに“知らないフリをしてる”んだとよ」

 モリワキはビールを飲む手を止め、咄嗟に手元のメモ帳を取り出す。

「聞いた話だよ。深く突っ込むなよ。向こうが何をやってるのかも関わらないし、向こうもこっちが何をやってるのか突っ込んでこない。“その名前を出されても追求するな。行っても引き留めるな。戻ってきても拒むな”。それが局のスタンスなんだと」

「相互不干渉、と」

「それ以上は本当に知らねえ。だからお前の聞きたいことも、オレもなーんも知らねえ」

 ブスジマはそう言い切り、モリワキの手元にあったメンソール煙草を一本奪う。

「もし彼女らが――フロイントシャフトの連中が犯罪行為に加担してたとしたら。それで元魔法少女達が使われてたとしたら――どうします」

 奪われたことを咎めもせず、モリワキはライターを渡す。

 ブスジマは煙草をゆっくりと一口吸い、煙を吐き出す。


「どうもしねえ。言ったろ。局には関係ねえよ。オレは警察じゃねえからな」


―――


 数刻後。


「無駄足だったろ。経費で落ちねえカネまで使って」

 居酒屋から出た二人はコンビニに寄り、ボトルの水と煙草を買う。そのまま駅には向かわず、小さな公園に寄り道する。ベンチに腰掛けたブスジマがそう言って笑う。

「いえ、充分参考になりました。色々と」

「あっ、そう」

「にしても」

 モリワキは背を丸めて座るブスジマを見て、返す。

「ブスジマさんが普通に仕事してるようで、安心しました」

「オレのこと、なんだと思ってたんだよ」

「いえ。てっきり――」

 そこから先は言わないでおいた。ともすれば、彼自身が“しでかして”しまいかねないと、モリワキはかねてより案じていた。


 ……なにしろブスジマは、自分の娘の“跡”を追い、真相を突き止めようとしていたのだ。その過程で何をするか――かつて署内で“狂犬”の渾名もあったブスジマの本意は、かつて部下として務めていたモリワキにすら掴みきれない。


「ガキどもの考えてることなんて、やっぱりオレにはわかんねえな」

 いつもの銘柄の煙草の封を切り、ブスジマは一本取り出して火を付ける。がりがりと頭を掻き、紫煙を吐く。

「仕事放棄じゃないですか」

「それでもやってんだよ、うるせえな」

「みんなそうです。他人の考えなんてぜんぜん分かりませんよ。俺だったらそんな面倒くさい仕事やってられないです。俺に出来るのは、ルールを守らない連中を追いかけて捕まえることだけなんで」

「それだけ考えてりゃいいんだから、刑事なんて楽な仕事だよ」

 ブスジマは笑った。モリワキも笑った。


「――ブスジマさん」

「うん」

「俺は俺に出来ることをするだけで。それでもし――あの子達と対することがあっても、俺は公平にやりますよ」

 モリワキはボトルの水を飲みきり、ゴミ箱へと放り投げる。ホールインワン。

「あっ、そう」

 ブスジマはいつものようにそう返して、煙草を踏み消した。

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