#6 使えるものは使ってやる。
九月初め。まだ蒸し暑さの残る夜。時刻は午後10時。都内某所。繁華街。
「ずいぶん遅いッスね」
「焦んなよ、シンゴ。こういうのはタイミングが肝心だ」
繁華街から外れた小通り。そこに停めた七人乗りの大型ミニバンの車内。
後部席でスマホをいじる若い男。その前方の運転席には煙草をくわえた小太りの男がいて、時おり窓ガラスの外に灰を落とし、ふてぶてしくシートに背を預けている。
「ケンジ達はタイミングをはかってるんだ。連中がぜってー言い逃れ出来ないように、コトをやらかすタイミングをな」
「なんか、現行犯逮捕とか、そういう感じッスか」
小太りの男はそれを聞き、ぶひゃひゃと景気良く笑った。
「現行犯逮捕か! そりゃいいや! ケーサツみてえだな!」
ひとしきり笑ったあと、男はバックミラーを一瞥する。後部席にいるのは、落ち着きなく窓の外を眺めるたりスマホをいじったりしている“新人”のシンゴ。そして――先ほどから微動だにせず、存在感を殺している“お面”。
その名は“W”。キツネの面とフードをかぶり、夏過ぎだというのに全身黒ずくめのコートに身を包んだWは、ともすればこの車内においてさえ、居ることを忘れてしまうかのように静かにそこに座り続けていた。
(こんなモンを頼って、ケンジ君達はここに連れてきたってのか?)
横にいるシンゴはこのWのお目付役だ。何かあった時に――というよりも、Wが何か“しでかした”時にすぐ対処できるように付けた。シンゴの役目はそれだけだ。顔も声も、何者かも分からない、胡乱な存在。中身は――いちおう聞かされてはいるが、とても信じられるようなものではない。
「あー」
やがて沈黙に耐えきれなくなったのか、シンゴが横にいるWに話しかける。
「何か食う?」
Wはふるふると首を振った。
再び車内に沈黙が流れ――そして、シンゴの持っていたスマートフォンが鳴った。
「来た」
「よし、場所は分かるな。あの角を曲がったすぐのところだ」
シンゴは頷き、後部スライドドアを開ける。
「そっちも降りてくれ」
Wはやはり無言で頷き、音ひとつ立てずに反対側のドアから降りる。立ち上がったWは180cm近い長身……全高の高い大型ミニバンと同じくらいの背丈があり、その黒いコートと相まって、外に出た瞬間から強烈な存在感を放ちはじめた。
(何者だか分からねえが、せいぜい仕事してもらうぜ)
二人は歩き出し、現場へと向かっていく。その背中を見ながら、男は煙草を車外へ放り捨てた。
―――
「テメー、ここが何処だかわかってんのかよ」
「知らねえよ!」
「何処だかわかんねえ、何も知らねえで勝手にシノギしてんのかよ、アア!? “死鉤爪”ナメてンじゃねーぞ!」
現場に着いた二人が目にしたのは、男達が言い争う場面だった。
「そっちが“グローイング・ワン”だってのはとっくに分かってんだよ!」
「だから知らねえよ!」
男達数名が、路上にいる金髪スーツ姿の男に言い寄っている。全員が二十代前半から半ばの若い男達。スーツ姿の男の傍には女が一人いて、突然現れた男達に怯えている。周囲にはサラリーマンや学生達も行き来していたが、誰もが皆そそくさと彼らを避けるように素通りしていく。
ミニバンから出た二人は指示通り、大通りに出ないよう曲がり角で待機して動向をうかがう。
「死鉤爪のシマだって分かっててやってんならいい根性だなテメー!」
「どこだろうと関係ねーだろうが!」
「アア!? シラ切ってんじゃねえよ! もっぺんいってみろよこのクソが!」
一触即発の言い争いを続ける中、男達の中から少し背の低い男が一人、ぬっと現れる。
「まあまあ、いやあ、ごめんねホント。みんなちょっとカッカしてるだけだからサ」
「なんだよこの野郎」
「ごめんねごめんねホント」
おちゃらけた物言いをしながら現れたのは、ワックスで髪を逆立てた顎髭の男。タンクトップにワークパンツというラフな装いながら、そこから伸びる腕にはタトゥーが入っている。巨大な爪の生えた、カメレオンに似た怪物の意匠……死鉤爪(デスクロー)のメンバーであることを表すタトゥーだ。
「ハイハイホラホラちょっとどいてホラ。女の子も怖がってるじゃない」
タンクトップの男――ケンジが指示をすると、ケンカ腰だった男達は大人しく下がる。絡まれた金髪スーツ男の傍にいた女は怯えた顔を張り付けたまま走り去っていく。
「出来ればこっちもあんまり大事にはしたくなくてサ。こんなトコで立ち話もなんだし、ちょっと向こうでお話しない?」
そう言って、ケンジを中心とした男達に小突かれながら、スーツ男は裏路地へと入っていく。
「出番ないかもな」
それを遠巻きに見ていたシンゴはぼそりと呟く。
「ケンジ君、ああなったらテッテー的にやるから」
ふとシンゴは、隣にWがこちらを“見下ろしている”ことに気づく(長身のWとシンゴの身長差は20cm近い)。Wは相変わらず一言も発さなかったが、何を言いたいかは察しがついた。
「あ、もし何も無くても報酬は払うってさ。ケンジ君そういうところはマメだし。大丈夫だよ、多分。まあでも――」
少し間を置いて、シンゴは言葉を続ける。
「グローイング・ワンの奴らが何のバックアップもなしに、オレ達のシマで堂々とシノギやるとは思えないんだよな。……とりあえず、もう一回コールが来るまでここで待機しようぜ」
Wは首を縦に振る。
「……何か食う?」
Wは首を横に振る。
―――
午後十時半。繁華街から離れた裏路地。
室外機の音が鳴り響き、あたりには生ゴミの異臭が漂っている。
「というわけでサ、うちの――死鉤爪のシマで勝手にやられると困っちゃうんだ。お互い面倒なコトは避けたいでしょ? でも、それ分かっててやってたんだよね?」
「だから知らねえっつってんだろ!」
「あっそ」
言うなり、ケンジはスーツ男に強烈なボディブローを叩き込んだ。カエルが潰れたような声を出し、男は膝から落ちる。
「もっぺん聞くヨ。面倒はヤだから。誰が指示したの。ソレ聞けたらこれ以上やらないからサ」
「知ら――」
うずくまるスーツ男の顔面に膝蹴りが入る。鼻の骨が折れる音。声にならない声は、しかし室外機の音にかき消され、大通りまでは届かない。
「コイツ立たせて」
ケンジが顎で指示すると、周りの男達はスーツ男を無理矢理立たせる。
「ゲロるまでシメてあげて。殺しちゃダメだよ。グローイング・ワンの誰かがうちらにケンカ売ってるの。わざわざこっちのシマで、しかも俺達がやらないシノギをこれ見よがしにやってんだもん。こんなの見過ごすワケいかないじゃない?」
ケンジが踵を返す。と――。
裏路地にいたケンジ達を囲むように、パーカー姿の男達が何処かから現れた。入り口と出口の両方から現れた男達全員が、バットや鉄パイプなどの武器を持っている。
「ケンジ君」
近くにいた男が険しい顔でケンジに声をかける。
「そりゃ、やっぱ、そうなるわね」
窮地に追い込まれたにも関わらず、男達の中で、しかしケンジだけはにやりと笑いポケットからスマートフォンを取り出す。
「じゃ、さっそく呼ぼっか」
―――
曲がり角で待機している最中、シンゴはWに事のあらましを聞かせていた。聞かせてくれとWが言ったわけでもない。そもそもWは最初から一言も発していない。ただ暇だったからと、自分の中で色々整理をしたかったからだ。
シンゴはまだ死鉤爪に入って半年くらいの新人だ。武力や知恵が効くわけでもなく、今まではたいてい“プレーヤー”や雑用など、細かい仕事ばかりだった。
この地域をシマとする死鉤爪のシノギはいくつかあるが、トップの意向で絶対に行わなかったのがスカウト業務である。
――うちらのモットーは“清く正しく激しく”だから、と、ケンジはそんなことを言っていた。そこに別のグループがちょっかいを掛けてきたのが少し前のことだ。自分のシマで堂々とスカウトをはじめたという。
「スカウトってアレだ。女の子に声かけて、連絡先聞いたりしてさ。そっからあとはホストに貢がせて借金作らせてからソープやらせたりとか……あとはもっと単純に、カラミのある芸能プロダクションの名前とかちらつかせて、その子にAV出させたりとか風俗嬢とかやらせるの。ひでーっしょ」
なぜかWはスカウトのことについて興味をもっている――ように見えた。シンゴは聞きかじりの知識で、そんなことを話したりしていた。
そのうちに、コールが鳴った。
―――
「ケンジ君、やべーよ、この人数」
「まあまあ、ちょっと耐えようよ。もう来るはずだからサ」
ケンジが連れていた男達はそれなりに腕の立つ者が多かったが、バットや鉄パイプなどの得物が相手ではさすがに劣勢だった。おそらくはグローイング・ワンの刺客達……彼らにじりじりと追い詰められ、ケンジ達は周囲を完全に包囲される。しかしケンジだけは冷静なままだ。
「来るってアレのこと?」
「そ。アレ。いまシンゴにコールしたから」
「いやケンジ君のこと疑うわけじゃねーけど……でもなあ」
その時、パーカー姿の刺客達の間から「ひぃ」という奇妙な悲鳴が聞こえ、路地に積まれていたビールケースやゴミ箱が散乱する音がした。
「……なんだぁ?」
ケンジはそれを聞いてもう一度笑う。
「ホラ、来たでしょ。せっかくあいつらにカネ払ったんだから、見せてもらおうヨ――あの力がどんなモンかってのを」
――W。“それ”はただそう呼ばれた。ケンジが準備した、死鉤爪の隠し玉である。
「ンだテメェ、勝手に入ってくんじゃ――」
気勢を上げながら近寄った刺客の一人が後頭部を掴まれ、地面へ叩きつけられた。
「おい何だこのデカブツ。誰が呼んだよ、ふざけたお面なんかしやがっ――」
長い脚から繰り出されるミドルキックが腰部に直撃し、バットを携えた刺客が白目を剥いて崩れ落ちた。
「死鉤爪の仲間かコイツ!」
「お前ら、何とかし――」
下から振るわれた拳が鳩尾に突き刺さり、刺客の身体が数cm浮いた。
「このクソが!」
背後から鉄パイプが横薙ぎに振るわれ、Wの脇腹に命中する。あっ、とケンジの仲間達が息を飲む。だがWは痛みに呻くわけでもなく、ぐぐ、とその首を相手へと向ける。
「おい」
今のは確実に一撃を加えたはずだ。なのに、何故?
ゆっくりとこちらを振り向いたキツネ面に睨まれ、刺客は鉄パイプを持ったまま目を剥いた。キツネ面の目からのぞく瞳と目が合う。
「……意味、わかんねえんだけど」
Wは素早く身体を一回転させ、裏拳を顔面に叩き込んだ。
「スッゲえ」
いつの間にか死鉤爪のメンバーは戦うことを止めていた。グローイング・ワンの刺客達は全員がWの対処に追われていた。傍から見れば一対多勢、ほとんどリンチのような状況ではあったが、攻撃を受けながらWは一人ずつ着実に無力化していく。
「漫画みてえ」
「ケンジ君、アレ何。何を呼んだの。本当に人間?」
「まあ、なんでもいいじゃん。強いんだからサ。使えるものは使うってことヨ」
Wの常人離れした点はその長身でもなく、そこから繰り出される強烈な格闘でもなく、ただ一点、その異常な耐久性にあった。鉄パイプ、バット、どれもが、どんなに鍛えていてさえ致命的な威力をもつ攻撃だ。それをWは避けることなく、すべてを“受け止めて”いた。ゆっくりと歩き、振るわれる攻撃を受け止め、刺客達を返り討ちにしていく。脇腹、背中、脚、腕、肩。どこを攻撃されようとWはまったく怯むことがない。
――路地裏に現れた“人間戦車”。
後に、死鉤爪のメンバーの一人は、Wのことをそう呼んだ。
やがて刺客の一人がとうとうフォールディングナイフを取り出し、うわずった声と共にWと対峙する。
「さすがにナイフはヤバくねえか」
メンバーの一人が怯む。ケンカで刃物が出ることは珍しくないが、それでもバットやパイプとは違う、明確に「相手を殺す」という意思の表れだ。
「やられっぱなしってワケにはいかねえんだよ、クソが!」
周囲があっ、という間もなく、ナイフを持った刺客は身体ごと懐へぶつかっていく。Wは正面からそれを受け止める。どん、と妙に響く音がする。周囲が息を飲む。どんなに殴られようと怯まない怪物でもナイフで刺されればただでは済むまい――しかしその予想は一瞬で覆る。腕を捻られて宙を舞った、刺客の身体と共に。
「さ、刺さってんぞ、あれ……」
続けて、Wは自分の腹に刺さったナイフをゆっくりと引き抜く。刃には赤くぬめる血が付着していて、コートや服を貫いているのは誰の目にも明らかだった。にも関わらず、Wはやはり少しも動じることなく、引き抜いたナイフを手に取り、残る刺客達に向けた。「ひっ」と誰かが声を出し、後ずさる。Wは切っ先を突きつけたまま、じりじりと迫っていく。
バケモノにはかなわないと踏んだのだろう、グローイング・ワンの刺客達は一目散にそこから逃げていった。
―――
「……うっそだろ」
路地の隅で一部始終を見ていたシンゴの口から、いかにもマヌケな声が出た。
本人は腕っ節に期待はされていない。Wを送り届けたら後は車に戻るだけだったのだが、つい気になって来てしまった。そこに飛び込んできたのがこの光景である。
頼もしい、とか、強い、という感情はない。あちこちを打擲されながらもまったく動じることなく、全身黒ずくめのそれは、機械のように淡々と一人ずつねじ伏せていく。バケモノ……そう、バケモノだ。異様なものを見た。そういう恐怖感しか沸かない。自分はさっきまで“こんなもの”の横にいたというのか。
腹に刺さったナイフを引き抜いた瞬間、Wが一瞬こちらを向いたような気がした。だがキツネ面の奥の表情は伺いしれない。目の前の刺客を捻り倒し、周囲を圧倒させた後、Wはナイフを持ったまま再びゆっくりと動き出す。先ほどケンジ達に殴られ、倒れ込んでいるスカウトの男の元に。
「ひ、ひ、ひっ」
用意したはずのバックアップを一人残らず蹴散らしてしまった“バケモノ”がナイフを持って迫ってくるのを前に、スーツ姿の男はげほげほと咳き込みながら後ずさりしていく。
「まっ、待てよ、悪かった、俺が悪かった! 俺は言われた通りにやっただけだ! お前だってそうだろ、なあ?! たっ、たっ、助けてくれよ!」
何人もの女性を引っかけてきたのだろう、その端正な顔立ちは今や涙と鼻水にまみれ、メンツもプライドもなく、キツネ面に向けて懇願している。シンゴだけではない、周囲にいた死鉤爪のメンバーも固唾を飲んで動向を見守っている。ただ一人、やはりケンジだけがにやにやと笑っていた。
「おい、なあ、頼むよおい……聞いてんのかよ!」
男の命乞いにもまるで反応することなく、Wは手首でくるりとナイフを返し、人差し指と親指だけで柄をつまみ、切っ先を真下の――男の顔面へと定める。あとはその二本の指を離すだけで、ナイフはWの高身長からの落差をもって男の顔に突き刺さるだろう。
「やめろやめろやめておねがいやめ――……こ、こ、この、バケモノがぁ!」
絶叫。
二本の指が、ふ、と離れる。
シンゴは起こるであろう惨劇に、本能的に顔を背ける。
……からん、と、アスファルトにナイフが落ちる音だけが、路地裏に響いた。
―――
「ケンジ君、さすがにヤバいんじゃない」
「心配ないヨ。あっちがその気なら、こっちにもヤバいのがいるって分からせるのが今回の目的だったんだから。あ、そこでションベン漏らしてるスカウトのガキは連れ帰って、ありったけの情報吐かせておいてネ」
「うい」
「あと、明日から他の地域にもちょっと顔出しておいて。また同じことするようなら、今度こそウチの“キツネちゃん”が殺しにいくヨ、って。これを機にグローイング・ワンをツブすことも考えてるからサ。ハイ、死鉤爪のモットー、復唱」
「き、“清く正しく激しく”」
「オッケー。そういうことだから」
「にしてもケンジ君、アレ」
「アレ?」
「本当に大丈夫なの?」
「それも無問題。アレ連れてくるのにだいぶ苦労したけど、その分は保証済。あの女も言ってたし」
「あの女って」
「ま、そーゆーヤバいやつってことだヨ」
ケンジ達が話すのを聞きながら、シンゴはまだ呆然としていた。いつの間にか横にはWがおり、先ほどの凶暴性などひとかけらも見せずに、ただそこにあるかのように立っている。ケンジが下した基本的な命令は“呼ばれるまではシンゴの横にいろ”だ。あの場をひっくり返したのはWのおかげ……と言いつつも、他のメンバーは明らかにWの事を避けているようだ。仕方ないといえば仕方ないが。
「ハイハイ、ゴクローサン。シンゴもお疲れ!」
その中から、ケンジだけが笑いながらこちらにやってくる。
「あ、お、お疲れ様ッス」
「助かったヨ。これ、ちょっと増やしておいたから」
ケンジは持ってきた茶封筒をWに渡す。封筒はかなりの厚みがあり、それが少なくない額の報酬であることはシンゴの目にも明らかだ。Wは礼を言うでもなく、やはりただ黙ってそれを受け取り、懐にしまう。
「また何かあればあの女を通して呼ぶから、今後ともよろしくネ。W……それとも“ヘクセ”?」
ぴく、とWが一瞬反応したように見えた。
……ヘクセ? W? “H”じゃなくて?
聞こうと思った時には、ケンジは既にその場を去っていた。
そうして、再びシンゴはWと二人になった。
「あ、じゃ、その、俺も、そろそろ行くから」
Wは応えない。
「その、お腹、っつか……刺されたとこ、痛くないの?」
シンゴがそう訊ねると、Wはおもむろに左手で腹をさすり、掌を返してみせた。そこには血の一つもついていない。
「あ……」
それはおそらく、唯一“彼女”がシンゴに対して表した感情表現であった。路地裏の闇は深く、キツネ面に開けられた二つののぞき穴からは何も見えない。だがシンゴはWがこちらを見ているように思えた。
「ま、まあ、何も無かったなら良かった、けどさ。あー、その」
踵を返し、その場を後にしようとするWの背中に向け、シンゴは言葉を続ける。
「……これから、何か食う?」
Wは首を横に振り、去って行った。
―――
日が変わり、深夜一時。神奈川県某所。安アパートの一室。
「ねえ、機嫌直してよ。遅くなるから先に寝てていいって言ったじゃん」
「だって」
クッションを抱いた格好でユイは部屋の隅からミナミを睨む。
「十二時には帰るって言ってたから、ずっと待ってたのに」
「たった一時間じゃない。初出勤で仕事のメモとかしてたら遅くなっちゃったの。それだけだから」
何度言っても、ユイは頬を膨らませたままだ。
「お風呂、先入っちゃったんだからね」
「はいはい」
すっかりスネてしまった。
「仕方ない。本当は明日の朝、サプライズにするつもりだったんだけど」
「?」
ミナミは苦笑いをしながら、テーブルの前にスーパーの袋を置く。警戒半分の子犬のように、ユイはクッションを置いてゆっくりと寄ってくる。
「わぁ」
バニラ。クッキー&クリーム。ラムレーズン。抹茶。それから期間限定のサルサパリラ味。
「ダッツだ!」
ユイが見えない尻尾を振りながら駆け寄り、目を輝かせる。
「どうしたのこれ!?」
「お手当はその日払いだから。帰りにちょっと奮発しちゃった。この前、コンビニでずっと見てたでしょ。本当はユイが寝てる間に冷凍庫に入れておいて、驚かせるつもりだったんだけどね」
「食べていい??!」
「いいよ。好きなの選んで、後は冷凍庫に入れておいてよ。その間にあたし、シャワー浴びてくるから」
「あ、その、お、お風呂」
「?」
「……沸かしておいたから」
期間限定のサルサパリラ味を手に取り、ユイはぼそりと呟く。
「ありがと」
「あと、それから」
「うん」
「ミナミ――……本当に、危ないこととか、してないよね?」
ユイはそう言って、ミナミをじっと見つめた。
「してないよ」
ミナミは精一杯の笑顔で、ユイの不安を取り去ってみせた。
―――
浴室に入り、熱いシャワーを浴びる。決して広いとはいえない浴室は、180cm近いミナミにとっては少々手狭だ(なおユイは150cm程度である)。そういえば一人で入るのは久しぶりかもしれない。汗を流し、自らの身体を鏡に映す。肩、脇腹、腕、全身。さんざんに殴られたはずの箇所は、今やどこも骨折どころか青アザのひとつもない。それから腹部を指でなぞる。ナイフで刺された箇所だけは、今でもほんの少しだけ切創を残している。
(ユイに、こんなモノを見せるわけにはいかないもんね)
これも明日の朝には跡もなく消えるだろう。唯一消えないのは顔の火傷痕だけ。これさえなければ、あるいは自分も“あんなこと”に手を出さなくて済んだのだろうか。鏡の前で、ミナミは自分の顔と向き合う。
「大丈夫。きっと大丈夫」
鏡から目を逸らし、瞼を閉じる。己の醜い顔を、ユイの笑顔で上書きする。
「あたしはできる。まだやれる。あたし達ならやっていける。“ジャガーノート”……ギフトだろうと何だろうと、使えるものは使ってやる」
例えW……あるいは魔女(ヘクセ)と呼ばれようとも。
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