#4 どうしたらいいんだろう。

 貴重な夏休みの数日をこうして過ごさなければならないのは、ショウタにとっては苦痛だった。できるなら行きたくもない。けれど所詮は子供だ。中学二年生ふぜいに、行かない、という選択肢は選べない。


 ――八月中旬。埼玉から車で三時間。長野県某所。

 到着したのは午後前。ショウタの母方の祖父が住む、古く大きな家。


 集まりの中心である祖父は八十を超えてなお健在。お前、昔カブトムシとか好きだっただろう、と言っては、会うたびに虫かごに入ったカブトムシをくれる。確かに小学生の頃は興奮していた。けれど今はもう違う。さりとて無下にいらないと突っぱねることも出来ない。


 ネットも無ければ娯楽もない。ショウタは縁側に虫かごを置き、電波の入りづらいスマホを眺めては放り投げ、居間の片隅でごろごろと寝そべっていた。大人達は別の大広間でテーブルを囲み、何がそんなに盛り上がるのか、世間話を延々としている。

何もすることがない。普段ならあっという間に過ぎていくはずの時間が、ここにいるとひどく長く感じる。

 時おり父親が居間に来ては、怠そうな顔をして縁側で一服し、また戻っていく。父にとってもあの大広間はあまり居心地の良い場所ではないのだろう。

 居間の冷房は古く、効きが悪い。じわじわじわと蝉の声が聞こえる。昼寝もできないほどに暑い。外に出て遊ぶ気にもならない。


 夕方を過ぎ、続々と他の親戚も次第に集まり始めた。

 そしてショウタの寝そべっている“はみ出し者”の居間に、もう一人が追加された。


 一瞬、また父親が来たのかと思った。だが違った。ともすれば入ってきたことにすら気づかないほどの静けさで“彼女”は部屋へと入り、挨拶をするでもなく、ショウタがいる場所の反対側に腰を下ろす。ショウタはそれとなく寝返りをうち、薄めでそちらを見る。膝を折り、壁を背にしてもたれかかる一人の少女。化粧っ気の薄いその顔に表情はなく、ただ黙って斜め上の虚空を見つめている。


 誰だ。ああそうだ。思い出した。名前は、確か――。


―――


 親戚達の年齢層は比較的高い。同じ従兄弟同士でも、ほとんどがもうとっくに成人していたりする。この集まりの中では自分がダントツで一番下。そして、ショウタの次に年齢が低いのが、“東京のおじさん”の娘で、三歳か四歳上。

 といっても正直べつに何があったわけでもなく、毎年の集まりの中で遊んだりした記憶もない。良くも悪くも、存在感の薄い従姉妹。そのはずだった。去年までは。


 去年の夏の集まりで、ショウタの記憶に残っていることが一つだけある。“東京のおじさん”達が来なかったのだ。その時は誰も何も言わなかったし、ショウタもそう聞かされたところで特に何か心配をしたわけでもない。何しろ、彼にとってはほとんど赤の他人だったからだ。ああ、そう言えば見ないな、と、思ったのはそれくらいだった。


 ただ、帰りの車の中で母親がその意味を教えてくれた。だから記憶に残っている。


「東京のおじさんトコの、あの子ね。この前まで“失踪”してたの。だから今年は来なかった」


 去年は来なかった。だが――今年は、来た。


―――


 午後六時。大広間に一同が集まった。


 ケース単位の瓶ビール。取り寄せた寿司の大皿。揚げ物。よくわからない山菜の和え物。テーブルに狭しと並べられた夕食の数々。祖父を中心に一族が座り、盆の宴会が始まる。


 酒宴を楽しむ者。明らかに愛想笑いをする者。顔ぶれは様々だ。そしてショウタの斜向かいには、少女の――ヨウコの顔があった。“東京のおじさん”とおばさんの横で、注がれたオレンジジュースを前に、肩を小さくして座っていた。


 やがて祖父の音頭と共に、乾杯が行われる。

「今年は嬉しい話がある。東京のところの、ヨウコちゃんが来てくれたんだ」

 祖父は乾杯の前にそう言った。親戚一同の視線がヨウコに向けられる。ヨウコは少しだけ目を見開いて硬直していたが、おばさんに促されるまま立ち上がった。

「あの」

 そこでショウタはヨウコがはじめて口を開くのを聞いた。トーンの低い小さな声。

「……皆さんには、その、ご迷惑と、ご心配を……おかけしました」


 たぶん“そう言いなさい”と言われて出た言葉なのだろう。

 集まった全員から拍手が起こる。ヨウコはそれから何も言わず、その場に座った。ショウタは拍手に参加する気にもなれず、ただ彼女の方を見ていた。


「ま、色々あったようだがな。こうして戻ってきてくれたのはありがたいことだ。な!」


 祖父は豪快に笑い、乾杯の音頭を続ける。言葉に嘘偽りはない。そう思えた。祖父とヨウコの両親以外、それからじろじろと彼女の方を見ようとはしなかった。そしてヨウコの目もまた、誰の方も見ていなかった。その“色々あったようだ”が何を意味しているか、誰もがその意味を分かった上で振る舞っているようだった。


 コップの中で、オレンジジュースがぬるくなっていく。


 ショウタも知らないわけではない。自分が生まれて物心つく前には、あの騒ぎは日本中でもはや慣れっこの事態になっていた。真面目に、深刻化するよりも、それは次第に低俗なゴシップと噂話にまみれはじめていた。

 二年に一度の少女集団失踪事件。クラスの女子がひどく心配していたのを以前にショウタは聞いたことがある。16歳になって、もし選ばれちゃったらどうしよう? と。そしてそれに反応した男子が「お前、ぜってー選ばれて地獄行くんだかんな。消えるんだからな」と茶化していたのも聞いた。その女子は急に心配になったのか、突然泣き出して、ちょっとした騒ぎになった。それからあの話題はしないようにとクラスでは御触れがあった。大人いわく、おかしな噂で騒いではいけません、だそうだ。

 実際のところ、それは宝くじに当たるよりも低い確率だ。心配するだけバカバカしいとショウタは考えていた。けれど実際に、ヨウコは一年間失踪し、そして帰ってきた。


 面と向かって「何があったのか」と聞く者はいなかった。酒宴の場はわざとらしいほどに明るく、妙な雰囲気が漂っていた。その手の話題には触れないように――どこまでも他愛のない世間話に興じていた。

 自分は何も関係ないはず。ヨウコのことだって、ほとんど他人だ。だと言うのに、なぜか居たたまれない。ショウタは誰よりも早く食事を終え、ジュースを飲み干してから居間へと戻る。大人達の酒宴は続く。居間で寝転がり、わいわいと聞こえる宴の声を遠くに聞きながら、彼は眠りに落ちていった。


―――


「ねえ」


 午後八時。声をかけられ、ショウタは眠りから目を覚ます。サイズの大きいシャツとハーフパンツ姿のヨウコがこちらを見ていた。


「みんな入る前に、先にお風呂に入れ、だって」


 彼女の長い黒髪はまだ乾ききっておらず、ほんのりと湿り気を帯びていた。それだけ伝えるとヨウコはまた居間の隅に座り、ボトルの水を飲んでポーチから化粧水を取り出す。なんとなく同じ場にいるのが気恥ずかしくなり、ショウタは着替えを持って風呂場へと行く。


 相変わらず風呂場は無駄に大きかった。普段ワンルームマンションの浴槽しか入らないショウタにとっては慣れないほどに――そして何より彼が気になったのは、そこに漂うどこか華やかな香り。ただそこにあったシャンプーの香料の香り。それだけなのに、ヨウコの入ったすぐ後だと意識すればもう戻すことはできない。居たたまれない気分のまま髪と身体を手早く洗い、浴槽に飛び込む。

 ショウタの脳裏に、ヨウコの顔が浮かぶ。一昨年だって会っていたはずなのに、たった二年ほど前の彼女がどんな顔をしていたのか思い出せない。思い浮かぶのはついさっき、酒宴の間ずっと表情を凍らせていたあの顔だけ。

 湯はのぼせてしまいそうなほどに熱く、ショウタは早々に湯船から出る。


 なにより、目だ。あの目が気になった。

 誰を見ているわけでもない。ただ虚空を見つめる、あの目。


 風呂場から出て居間に戻ろうとすると、話し声が聞こえた。

「……の」

「……」

 何を警戒することでもない。だがショウタはつい足音を抑え、部屋に入るのをためらった。良くないことだと思いつつも聞き耳を立てる。


「――だから、もう少し、顔を見せてあげられない?」

「でもやっぱり私は」

「わかるわ。でもせっかく来たんだし。それに、お父さんが」

「私、お父さんのために連れてこられたの?」

「ヨウコ」

「何があったか、私の口から全部話したほうがいい?」

「違うの、そういうことじゃ」

「……」

「……」

「ごめん。行けない。疲れたから、って言っておいて」


 やがて扉の向こうが静かになり、ヨウコの母親が立ち上がる音がした。ショウタは慌てて風呂場まで引き返し、すれ違うのを避ける。それから数分の間をおいて居間に戻る。


「――さっき、話、聞いてた?」

 そうして居間に戻るなり、ヨウコはショウタの方も見ずに呟いた。

「足音が聞こえたから」

 ショウタは否定も出来ず、黙る。

「いいよ。別に」

 見透かされる。気まずい時間が流れる。彼女のことなどよく知らない。行く前と後でどれほどの変化があったのかも知りようが内。けれど今、ショウタはヨウコのことが気になって仕方がない。表情のない顔。抑揚のない声。何をどうしたらあんな目になるのだろう。


 居間の隅に、カブトムシの入った虫かご。その横に、やたらにカラフルな手持ち花火の小さなパッケージ。これも祖父が用意してくれていたものだ。今さら花火ではしゃぐような年齢でもないと放っておいたもの。


 夜は更ける。

 大人達の酒宴はまだ終わりそうにない。外まで響くような笑い声。食器が鳴る音。

 ショウタは少しだけ考え、行動に移すことにした。


 花火のパッケージを取り、ヨウコの元へと向かう。


 血が繋がりはある。とはいえ所詮は他人だ。放っておいたって何もない。自分の人生に関わりなどない。夏休み明けのクラスの話題として面白おかしく話す気もない。


 なのに、どうして自分は。


―――


「いまさらなにを囁かれても大丈夫。そのはずだったんだけど」

 中途半端に色を変える手持ち花火を手に、ヨウコは誰に言うでもなくそう呟いた。それとも自分の前だから話してくれているのだろうか。それはたぶん自惚れだ。

「おじいちゃんは私のことを心配してくれてる。おじさんやおばさん達だって、何があったとかは言わないでおいてくれてる――本心はともかく」

 しゅん、と間抜けな音と共に終わった花火の燃え殻をバケツに突っ込み、ヨウコは次の花火を手に取る。これで五本目だ。何かにとりつかれたように彼女はどんどん火を付けていく。青い火が出る花火。ぱちぱちと広がる花火。ジェットのように勢いよく吹き出す花火。

「何を言われるかわからない。どう思われるかわからない。私はそうやってずっと人を疑うようになってる」

 花火を見つめるヨウコの背中に視線がうつる。じろじろ見るべきではないと思っていても、つい目が行ってしまう。

「だからまた、ただちょっと、怖くなっただけ」

 視線は下から上へ。薄い底のゴム草履。丸みを帯びた小さな踵。滑らかな白い太もも。膝裏。尻から腰、背中まで、シルエットを隠す大きなシャツ。伸びた襟首からのぞくなだらかな肩。細いうなじ。どんな顔をして花火をしているのか、背中越しには分からない。


 ヨウコは最後に残った線香花火の束を手に取り、そのうちの数本をショウタに渡す。柔らかく細い指がショウタの手に触れかかる。

「でもそれは単なる考えすぎで」

 つくりの安い線香花火は、もらったうちの二本が不発だった。なんとか火のついた一本が、じじじじじと音を立てながら小さな火球をつくる。不安定で、どこまでもショボい線香花火。

「本当に心配してくれているのか、単なる好奇心なのか、それともあんまり関心がないのか。どれだと思う?」

 ショウタは答えることが出来なかった。どう答えていいのか。

 あるいはきっと、彼女はただ独り言を呟いているだけなのだろう。


「もし本当に心配してくれてる人がいるんだとしたら、お節介をお節介だなんて思わず、素直になるべきなのかもしれない」

 ヨウコはショウタの真向かいに座り、しゃがみ込んで自分の線香花火に火を付けた。よく見ると二本ひとまとめだ。ふたつの花火から作られた火球が合わさり、雫型を形成していく。遊び方がずいぶん雑だな、とショウタはどうでもいいことを思った。花火の光に照らされるヨウコの顔を一瞥して、ショウタは少々の気恥ずかしさで再び視線を花火に移す。

 線香花火の本数だけは無駄に多く、ふたりで次々と“消費”していく。

「でも怖いよ。今はまだ」

 やがて最後の火球がぼとりと落ち、花火はすべて無くなった。

「どうしたらいいんだろう」

 終わって早々、ふたりは片付けに入る。最後までヨウコは一人で喋り続けた。変わらず、抑揚のない声で、淡々と。


 バケツに浮いた花火の燃え殻をビニール袋に入れ、ゴミをひとまとめに。片付けは五分もかからないうちに終わり、あたりにはうっすらと火薬の匂いだけが残るだけになった。


「花火、楽しかったよ。ありがとうね」

 終わり際、ヨウコがショウタに声をかけた。

 こういう場合、どう言えばいいのか。「どういたしまして」? それとも「がんばろう」? 

 結局、ショウタはただ中途半端に頷いた。


 そうして彼女と離れ(寝床は別の部屋だ)居間に戻ると、いつの間にか布団が敷かれていた。


 夏の夜は、そうして終わった。


―――


 翌朝。朝食の食卓に並んだ親戚の数は半分くらいだった。

「まったく、久々の集まりで、みんな飲んだくれすぎたんだな」

 祖父はそう呆れ笑いながら味噌汁を啜る。


 テーブルを囲む位置は昨日のまま。ショウタの斜向かいにはやはりヨウコの姿があり、相変わらず特に表情のない顔で食事を取っていた。よく見ると白飯の量が異常に多い。不意に視線が合うことがあった。それでも昨日の夜のことなど何も無かったかのように、彼女はまた黙々と食事を取り続けるのだった。


 やがて朝食が終わると、祖父が「喉渇いたろ?」と言って缶のスポーツドリンクを渡してくれた。ショウタがそれをちびちびと飲んでいると、母親に呼び出された。


 外に出て、そして昨日の花火の跡まで連れられてくる。

「昨日の夜、花火やったでしょ」

 ショウタが言い訳する前に、母親は言葉を続ける。

「“コレ”はいいの。おじいちゃん、ちゃんと用意した花火で楽しんでくれてたって喜んでたし。でも」

 一拍おいて、母親はため息をつく。

「東京のトコのヨウコちゃんと遊んでたでしょ。年が近いから、遊びたいのも分かるけど……お願いだから、あの子にあまり関わらないで」

 ショウタは足下を見つめたまま、何故、と問い返した。

 もちろん、何が理由か、その意味を分かった上で。

「もうこの辺でも噂になってるのよ。こういう小さなところだとね。例の……“失踪”した女の子がいる家だって。色々と面倒なのよ。おじいちゃんは気にしないけど、おばあちゃんが不憫で……噂話が広がるのなんて、いい事ないから」

 ショウタは何も応えず、ただ視線を落とし続ける。

「それにほら、聞いたことあるでしょ。――“失踪から帰ってきた子は、帰ってこなかった子を殺してるかもしれない”――って」


 ざり、と、誰かが砂利を踏む音が聞こえた。


「……ともかく、そういうことだから。昼頃には帰るから、早めに支度しなさい」

 言葉を区切り、母親はそれだけ言ってまた家の中へと戻っていく。

 ショウタは昨日の花火の跡をしばらく見つめてから、ぶらぶらと家のまわりを歩く。朝を過ぎ、夏の気温はどんどん上がっていく。

 結局、何も言えなかった。昨日の夜も、今も。


 家へと戻る途中、スポーツドリンクの缶が落ちているのを見た。先ほど祖父のくれたものと同じラベルで、しかしそれは異常な力で小さく圧縮されるように握り潰されていた。


 ――それからショウタは、ヨウコの姿を見ることがなかった。


 何をすれば、何を言えば良かったのか。何をするのが正解だったのか。

 彼女は一体何を思っていたのか。何を言いたかったのか。


 どれもが分からないまま、ショウタの夏は終わった。

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