#2 今が幸せ。

 朝、目が覚めて、娘を起こしに向かう。

 昨夜はよく眠れていただろうか。息苦しくなかっただろうか。バターロールとサラダ、ヨーグルト、そして薬、水をテーブルに用意して、二階へ行く。


「ホノカ?」


 ドアをノックする。答えはない。もう一度ノック。応答がない。

 さあ、と血の気が引く。まさか。

「ホノカ! どうしたの?! 開けるからね!」

 嫌な予感と共にドアノブをひねる。あの子は生まれつき呼吸器が弱かった。幸いにして悪化などすることなく十七年間を生きてきたが、この先どうなるかは分からないと、かかりつけ医は言っていた。だがまさか、そんな。

「どうしたのホノカ! だいじょう――」

 ドアを開ける。

「――ぶ……」

 部屋には誰もいなかった。寝ていたはずのベッドの掛け布団は平らに潰れていて、傍には睡眠時用の呼吸補助器具が取り残されていた。やりかけの宿題、今朝着ていくはずだった制服、そういうものを残して、ホノカはひっそりと失踪していた。


 これが、あの日のことだ。


―――


 日本の年間行方不明者は八万人を超える。

 二年に一度、それも“たったの”百人。全員が同じ日に、それも十六,十七歳の少女だけということで、第三回目くらいまではよく話題になった。だが以降は次第に興味を失われた。たった百人の小娘が同じ日に消えたくらいでは、日常は何も変わらない。

 対象者達の反応も似たようなものだった。二百万人を超える中でたったの百人が選ばれることなど、よほどの不運でもなければ当たることなどない。素行不良の者が選ばれやすいだとか、名前や生まれた月が関係しているのではとか、真偽不明の噂が流れたこともあったが、それもまた確固たる証拠があるわけでもなく、有耶無耶のうちに忘れ去られた。


 ただ、見過ごせない点もあった。

 帰還者――“元魔法少女”と呼ばれた彼女たちには、身体的な異変が起きていた。


 それはしばしば自嘲をもって、彼女たちの間で“ギフト”と呼称された。


―――


 八月某日。運送会社“アントマン”西東京営業所、倉庫前。


「ホノちゃん、そろそろ昼だ、いったん休憩にしようや!」

 タオルで汗を拭きながら、ツナギ姿のササキが言う。季節は夏。照りつける太陽はじっとりと体力と水分を奪う。もちろん職場でもこまめな水分、塩分補給が推奨されている。

「ササキさん、こっちはまだまだ大丈夫なんで! この荷物の一山、あたしが片付けておきますね!」

「おうおう、さすが元気だなあ。でも無理しないようにな。水と塩タブ、ここに置いておくからな」

「ありがとうございます! じゃ、もう一踏ん張りしてきます!」

 溌剌とした笑顔でホノカは応え、軽快にカーゴ車を押していく。ツナギの上身を腰に巻き、太陽の下に晒したシャツ姿の、その肌は健康的に焼けていた。

 ササキはそれを横目に、塩タブレットを水で流し込み一息つく。元気な子だな、と頬を緩める。仕事の要領はそこまで良くないが、それを補って“あまりある”ほどの体力がある。おまけに器量もいい。最初に担当として“押しつけられた”時はどうなるかと思ったが、半年経って、今や彼女はこの営業所の名物アルバイトになっている。


 いわく――身体を動かしていないと落ち着かないのだという。

「そりゃ、色々ありましたけど……この身体になって、思うままに動けるようになったことだけは、ちょっと感謝してるんです。それだけは」

 以前どこかの現場に向かう時だったか、トラックの助手席でホノカが呟いた言葉だ。

「こんなあたしでも、ようやく人の役に立てる時が――助けられてばかりじゃなくて、助けることもできるようになったんだなって」

 職場における暗黙の了解があった。“彼女のことは詮索しないように”。だから今まで聞かないでいた。だがその日、ホノカは自分から口にした。

「……それに、一度やってみたかったんです、アルバイト」

 そう言って、ホノカはいたずらっぽく笑った。


 夕方。ササキが勤務を終え、タイムカードを切っていると、ホノカが嬉しそうな顔で駆け寄ってきた。

「お疲れ様です!」

「お疲れ、ホノちゃん」

「見て下さい、ササキさん。これ」

 ホノカが茶封筒を見せる。無地で、何も書かれていなかったが、封がされていた。

「所長から夏のボーナス貰っちゃったんですよ」

「そりゃすごい」

「あたしアルバイトだから、本当はそんなの貰えないんですけど。所長が、特別に。内緒だからね、って」

「内緒なのに見せちゃっていいのかい」

「あっ」

 しまった、という顔をした後、ホノカは舌を出して笑った。

「……誰にも言わないで下さいね?」

「言うもんかい」

 ササキも笑った。


 アントマンが彼女を“受け入れた”のはいくつか理由があるという。大きな理由は監察局の口添えだ。“身体を動かしていないと落ち着かない”というホノカにその発散場所を与えること。もちろんタダではない。監察局から会社にはそのための予算も下りている。ホノカ自身もその待遇についてはある程度察してはいるのだろう。だがそのあたりを差し引いても、彼女は置かれた状況下で文句一つ言うことなく、誰よりも率先して仕事をしていた。おかげで営業所も活気づいている。いまや所内の誰もが、彼女を一人前の仲間として扱っていた。

「明日も仕事行くつもりだったんですけど、たまには休めって」

「十四連勤になっちまう。就業規定には従わなくっちゃな」

 ササキはさらりと嘘をつく。就業規定はホノカには適用されない。それどころか本当は無給で働かせても良い、というのが監察局からの通達らしい。

「ボーナス、使い道あるのかい」

「お母さんに、プレゼント買ってあげようかなって」

「いい使い道だ。おふくろさんは大事にしてやんな」

「はい。今までずっと、迷惑とか心配かけてきちゃいましたから」


 本当に良い子だ、とササキは思う。

 こんな子を、一体どこの誰が、ひどい目に遭わせようと思ったのか。


―――


 職場を出て、ホノカは最寄り駅に向かう。今日は帰る前に駅ビルに寄るつもり。


(何を買ってあげようかな)


 職場を出てから開けた茶封筒の中には少なくない額が入っていた。十八歳が“まっとうな仕事として”貰うにしては多すぎるくらいの金額だ。無口で怖い印象のある所長だったが、自分のことを一人前として認めてくれたようで、ホノカにとっては何よりそれが一番嬉しかった。

 改札を出て、いつもの北口のバス停へ行く前に、今日は南口へ寄り道。そういえば母はいつも肩を痛めていた。マッサージ機を買うほどのお金はないけれど、何か身体によさそうなものを――。


 ――目線の先に、見たことのある顔がいた。


「よう、ホノカちゃん。バイト帰り? ごくろうさん」


―――


「お客様。ここは禁煙ですので」

「あっ、そう」

 ウェイトレスに諭され、ブスジマは煙草をポケットに収める。目の前にはアイスココア。

 呼吸器系が“弱かった”ホノカにとって、煙草は未だに――克服した今でさえ――見るだけでも寒気が走る。

「今なら大丈夫じゃないの。“アイアンラング”だっけ」

「その名前であたしを呼ばないで下さい」

 ホノカはブスジマを睨み付ける。

「悪いね。で、ホノカちゃんも、飲むもん決まった?」

「今日は用事があるので。すぐ帰ります」

「すぐ済むから」

 なぜ待ち構えることが出来たのか、と疑問に思って、すぐに思い当たった。アントマンに仕事を振ったのも監察局なら、自宅を知っているのも監察局だ。最寄り駅から帰路もすぐ分かる。

「今日は面談日じゃなかったはずですけど」

 ほとんど言われるがままに連れられたのは、駅近くのファミリーレストラン。監察局の息がかかっていない普通の店だ。当然、ここに“元魔法少女”がいると知る人間はいない。目の前の男を除いては。

 本当なら無視してさっさと帰るべきだった。だがもしそれが原因で監察局の人間が家や職場に何か訴えかけをすれば、周りに迷惑をかけることになる。そういう意味でホノカは彼らに弱みを握られている。無視することは出来なかった。

「聞きたいのは一つでさ」

 ぞぞぞぞぞぞ、とアイスココアを飲み、ブスジマは一枚の写真を差し出す。

「その子のことは知らない、って前に言ったはずですけど」

「いや」

 写真を見る。以前に見せられた切り抜き写真にいた人相とは違う。学生服を着た、おそらく高校の学生証か何かと思わしきバストアップ。

「ココノエ ヨウコ」

「?」

「第八回の“帰還者”の一人。“バイスフィンガー”。見覚えない?」

「いいえ」

「あっ、そう」

「その子がどうかしたんですか」

「知ってたら教えてほしいなって思っててさ」

「監察局なんですから、自分たちで調べればいいんじゃないですか」

「まあそうなんだけどね」

 言うだけ言って、ブスジマは写真をしまう。

「ホノカちゃん、最近どうなの。お仕事頑張ってる?」

「……」

 ホノカは応えない。

「あたし、帰ります」

「悪いね。引き留めちゃって。まあ、次回の面談でまたお喋りしようよ」

 何も話すことなどなかった。担当が“すり替わった”後、ホノカは初めての面談でこの男に危機感を覚えていた。それは本能的に来たものだった。表情の読めない、冷たい目。子供の頃に見たあの父親と同じ目。

 それでも、周りに迷惑はかけたくない。監察局との面談をこなさなければ手当の支給もなくなり、もしかしたらアントマンでの仕事も出来なくなるかもしれない。ホノカにとって唯一の気がかり。その原因になるのがブスジマの存在だった。

 この男は何かがおかしい。


 席を立って、ホノカはファミレスを後にする。ブスジマは引き留めることもなく、無表情でアイスココアを啜っている。

「もし」

「?」

「もし他でも第八回の帰還者のことを色々嗅ぎ回ってるなら、たぶん無駄ですよ」

「……」

「あたし“達”に一切の繋がりはありません。フロイントシャフトにも誰も登録してないはずです」

「そうなの」

 この男は、本当に監察局の人間なのだろうか。

 ホノカの瞳に冷たいものが宿る。ブスジマと視線を交錯させる。

「第一回と同じ。第八回は“フリー・フォー・オール”でしたから」

「そうだったっけ」


「文字通りの乱戦。全員が敵。誰もが――生き残るために――殺し合いをしました。あんな地獄でお互い信頼できる子なんて誰もいません。それは、今でも」


―――


 同日。ホノカの自宅最寄り駅から、快速急行上りで三駅。そこから乗り換えて一駅。神奈川県某所。多摩川近くの安アパート。


「ユイ、支度できた?」

「あーっ、待ってよ! 今、髪乾かしてるんだから!」

「冷蔵庫に何もないからあとでコンビニ行こうねって言ってたのユイじゃん。なんで風呂入ってたの」

「だってあついんだもん……」

 ぺたぺたと裸足で狭い廊下を駆け、ユイと呼ばれた女は引っ詰め髪で出てきた。

「ビールとおつまみと、あと何か」

「アイスたべたい」

「あんまり無駄遣いできないんだけど。ま、いいか」

 ミナミは玄関の姿見で前髪を整える。おろした右髪に隠れる、顔半分を覆う大きな火傷の痕。しばらくは化粧でなんとか隠してきたが、最近はどうでも良くなった。どうせユイ以外、まともに見せる相手もいない。それに――「格好いいよ」と彼女は言ってくれた。それだけでいいと思った。


 アパートを出て、コンビニへぶらぶら。財布の中身が少し気になるが、たまには贅沢もいいだろう。夏の夜の、生ぬるい風が二人の頬を撫でる。

「わたし、アイス、我慢するよ?」

 見透かされたようだ。

「いいよ別に。今日はあんまりケチなこと言わないで贅沢するって決めたんだもん。言いっこなし」

「今度、わたしもまたバイトする」

「ユイ、放っておいたら危ないことするでしょ。あたしが日雇いでもなんでもするから」

「えー」

 ユイはユイなりによくやってくれている。彼女もこの状況を分かっていて、なんとかしたいと考えている。けれど。

 以前、ユイは街で怪しいスカウトに声を掛けられ、そのまま素直について行った結果、違法すれすれの風俗嬢まがいのことをやったことがあった――という。思わぬ大金が入ったのは事実だったが、ミナミはさんざん説得し、なんとか辞めさせた。

 あれだけあった貯金も、そろそろ一月先のことまで考えなければならない段階に突入した。働かなければ食べられない。でも――彼女に危険なことをさせたくない。もうどこにも行かせたくない。それがミナミの本心だ。だから自分がやるしかない。


―――


 コンビニでビール(ミナミの分は発泡酒にした)とポテトチップス、ソーダ味の氷菓、数日分の朝食などを買い込み、帰宅する。帰ってすぐに二人で一緒にシャワーを浴び、ビールのプルタブを開け、少しばかりの酒宴を楽しむ。部屋の片隅には、コンビニ袋に入ったままの求人情報誌。ユイを先に店外に出させて、後から買ったものだ。

「ねえ」

「うん」

 ソファに背を預けたミナミの肩に、ユイが寄りかかる。シャンプーと、ほのかな汗の香り。触れれば消えてしまいそうなほど軽く、華奢な身体つき。

「わたし、迷惑かけてる?」

「ユイ、それ以上言ったら怒るよ」

 強引に口を塞ぐ。

 ――二人が監察局の保護を打ち切ったのは昨年のこと。放っておいてほしかった。二人きりにしておいて欲しかった。だから一方的に打ち切った。小娘二人、何の手当もなしに生きてなどいけるものか。監察局の局員だった神経質そうな女はそんなようなことを言っていた。お前らにあたし達の何が分かる。ミナミはそう返して保護カードを突き返した。

「もしわたしのパパとママが生きてたら、ミナミを呼んだのに」

 蕩けかけた目で、ユイが呟く。

「パパとママに言うんだ。とびっきりの友達ができたから、お部屋で、一緒に住むからって。そうすれば、何の心配もなく、ミナミと一緒にいられた」

「今、こうして一緒にいるじゃない。それじゃダメ?」

「ダメじゃない。今、わたしは幸せ」

「ならいい」

「ミナミが声をかけてくれなかったら、多分、わたしもとっくに死んじゃってた」

「死なせない。せっかくあたしが救ったんだもん。こっちに戻ってきてまで死を選ぶなんて、そんなバカなこと」

「じゃあ、生きる」

「そうだよ。ユイには生きる義務があるの。あたしの為に」


―――


 二人の絆は血よりも濃い。


 言葉通りだ。彼女“達”はあの戦いを勝ち抜いて、強い絆を得た。第六回。ルールは“グラウンド・ウォー”。五人単位の分隊で分けられた“魔法少女”達は赤と青にそれぞれ均等に分かれ、50 vs 50の死闘を繰り広げた。ミナミとユイ――“ジャガーノート”と“ライトウェイト”の二人は、青のチームにいた。

 絶対に生き残って帰ってやる。ミナミの決意は固かった。そして分隊はめざましい活躍を上げ、青チームは勝ち、ミナミ達は上位の五分隊に選ばれて帰還した。負けたチーム、そして、勝ってもなお選ばれなかった“臆病者達”を差し置いて。


 この結果は自分たちが勝ち取ったもの。

 分隊内の協力によってもぎ取ることができた命。

 だから――あたし達は戦友――ずっと友達だ。


「三人の名前、まだ覚えてる?」

「……もう、覚えてない」

「わたしも」

 夜が更ける。暗い部屋に転がった二人は、天井に向けて呟く。暗闇の中、冷房のLEDだけが爛々と光っている。

「五人でいられたら良かったね」

「本当はね」

「忘れたくないけど、忘れたい記憶。死んで生き返って、また死んで、死ぬ気で死んで、ずっと戦って――」

「ユイ」

「ずっと一年間、ずっと、ずっと続いて――」

 闇の中、ミナミはユイの右手を探り当て、そして痕が残るほど強く握った。

「ユイ。もういいよ。さっきユイが言ってたじゃない。今が幸せだって。あたしも幸せだよ」

「……そうだね」

 あれからもう何年も経つ。それでも思い出す。あの忌々しい記憶。


―――


 翌朝。職安に行ってくる、と声をかけて外出したミナミは、一人で公園にいた。


 このご時世、働き口はいくらでもある。けれど――。

 ミナミは自らの顔をなぞる。右側。ユイが誉めてくれた火傷痕。

 仲間をかばって負った、勲章とも誇れる痕。それが今は大きな足枷になっていた。

 二十二歳。こんな危ない見た目の女を雇う口は多くない。自分でも分かっている。


(どうして、よりによってこんなものを残してくれたんだろう)


 監察局にまた縋りつくことは考えていない。

 いっそまたフロイントシャフトに相談するべきだろうか。

 結論の出ないまま、ミナミは数日間ずっと悩んでいた。ミナミとユイが再び出会えたのも、あの組織のネットワークがあってこそだ。第六回組はまだ何人か残っているというし、連絡先も取っておいている。それに――あの戦いにおけるトップランカーだった“ジャガーノート”の他ならぬ頼みなら、聞いてくれるだろう。


(二人で生きていくなんて啖呵を切っておいて、これだもん)


 ミナミは自嘲し、空を仰ぐ。

 二人は生き残った。勝ち取った命を使い切ろうと決めた。

 でも、現実はまだ続いている。


 公園で遊んでいた子供が、そそくさと現れた母親に連れられて帰っていった。

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