第120話 「Quiet Collapse」

 カスピ海沿いに広がる海岸公園のだだっ広い道を、聖は新星あらほしと共に歩いていた。夕暮れ時が近づき、西の空が徐々に鮮やかな茜色に染まっていく。一方で、市街地中心部にあるアゼルバイジャンの名所フレイム・タワーのライトアップが灯り、人工的な美しさの光が首都バクーの街並みを照らす。古来より天高くに在り続ける太陽の光と、厳しい環境を生き残るべく、自然に逆らい人類が手にした叡智の光。相反するものがとけ合うその光景は、まるで今の聖の心境を表しているようでもあった。


「なるほど。それは乳房縮小手術バスト・リダクションを受けたのでしょう」

 三段重ねになっている特大サイズのアイスクリームを、新星はペロリと舐める。まさかよりにもよって、こんな所でこの人物に遭遇するなど、聖は夢にも思わなかった。なんでも、ここで待ち合わせをしているのだという。故郷から遠く離れた異国の地で顔見知りを見つけ、反射的に気が緩んだが、怪しさ全開の新星の風体は、聖に警戒心を思い出させた。


腹部脂肪切除タミータックと似たようなものです。一般では主に美容目的で施術される者が多い。女性アスリートの場合、極端に肥大した乳房は競技パフォーマンスを著しく阻害しますからね。最近では特に珍しいことじゃありません。テニスでいうなら、ルーマニアのシモナ・ハレプ選手が十八歳でその手術を受けています。その後、見事ルーマニア人選手として、初の世界ランキング一位に輝きました」


 初めて会ったときから、聖はこの老人に言い知れぬ忌避感を抱いている。客観的に見れば、新星は聖が体調を崩し気を失ったところを保護してくれた、言うなれば恩人だ。しかし、目が覚めたあとに交わした会話で、この老人があっという間に聖の秘密に大きく近づいていると分かったことが、彼の印象を大きく変えてしまった。辛うじて露見することはなかったものの、彼が口にした言葉は、恐ろしく真実に近かった。


――君自身が、アンドレ・アガシとか?


 思い出すだけでぞわりとする。誰にも打ち明けていない秘密の一部を、全く関係ない初対面の人物が正確に言い当てたのだ。後になって知ったことだが、彼が所属するスポーツ科学研究組織GAKSOは、ATCと協力関係にある。練習中の様子は常時録画されており、その情報は常に共有され、ATCのコーチ陣はGAKSOのメンバーと協力し合いながら選手へのアドバイスを行っていた。事情を知れば何も不自然なことではないのだが、聖からすれば自分の与り知らぬところで情報を収集されていたことが、なんだか妙に不気味に思えてしまったのだ。ましてや、GAKSOの中心人物である新星自身から観察されているとは、さすがに思わなかった。


「自身のキャリアを向上させるべく、文字通り身を刻む思いで決断したのでしょう。若い娘だというのに、見上げた覚悟だと思いませんか。聞くところによれば、彼女は自身の持つ女性的な魅力を、セルフブランディングに利用していたそうです。その方針を変えてまで、手術に踏み切ったのです。それは認めてあげるべきではないでしょうか」


 それにも関わらず、聖は鈴奈のことを新星に話した。ショックが大きく、受け止めきれなかったというのもある。なにより、自分の理解の範疇を越えた彼女の身体的変化について、誰かから冷静な見解を聞きたかったのかもしれない。ただそれだけならば、話し相手はアドでも良かったはずだ。しかしそうしなかったのは、モザンビークでアグリを呼び出した際、彼に指摘された言葉が、聖の心のなかに引っ掛かっていたからだ。


――必ずしも本人に、或いは世界にとって良いこと尽くめとは限らない


(僕がテニスの世界に関わった事が、影響してるんじゃないか?)

 もし自分がこの世界に関わらなければ、鈴奈はあんな選択をせずに済んだのではないか。そんな考えが頭をもたげる。そう思うと、本意ではないにしても、聖の背中を押した虚空の記憶アカシック・レコードを司るアドやリピカに、このことについて話をする気が失せてしまう。彼らに責任がないことは頭で分かっていても、躊躇ってしまう。だからこそ、全く関係の無い完全なる第三者に、今の気持ちを吐露したかったのだろう。


「君は彼女自身の心配を? それとも、何か理由があって罪悪感を? いずれにせよ、それは君のセンチメントでしかない。君は自分の尺度で相手の背景を推し量り、そこに当て嵌めたときに生じたイメージの差異を、どう受け止めたらよいのか分からないだけです。場合によっては、それを思いやりと呼んだり、余計なお世話と呼ぶこともあるでしょう。つまりは、解釈の違いに過ぎないのです」

 そういわれて、聖は自分が鈴奈の心配をしているのか、それとも自分の責任を感じているのか分からなくなってしまう。いや、恐らくは両方だという自覚があるのだろう。それも、その時々で比率が揺れ動いている。どっちづかずの思考を堂々巡りした結果、新星が言うように、結局は自分の感傷に過ぎないのではないかと思えてくる。


「そういえば、君はもうATCを離れたのだったね。そんなに事を急かずとも、もっとゆっくりプロを目指すことも出来ただろうに。何か、急がなければならない事情でもあったのかな?」

 聖が浮かない様子なのを察してか、新星は話題を聖のことに変えた。この老人はもっと、自分の言いたい事だけをまくし立てるタイプだと感じていたので、聖は少し意外に感じてしまう。答えの出せない話を考え続けても仕方がないと思い直し、新星の気遣いに甘えてその話題に乗った。


「今、世界中でスポーツ選手は何かと優遇されているじゃないですか。ジュニアじゃいろんな種目で奨学金や支援制度が充実したり、有望株として期待される選手に対して手厚くサポートしたり。この状況は今でこそ続いてますけど、永遠に続くものでもないと思うんです。そうなったとき、プロとしてやっていくのがきっとしんどくなるだろうな、って思えて。行けるときに行って、選手としての価値を高めておくことがいい、そう考えたんです」

 だいぶこのセリフも口についてきたな、と、そんな風に胸中で思いながら答える。ATCを離れたあと、聖は様々な場面で奏芽かなめが考えてくれたこのセリフを使っている。初めて百年ももとせ記者に取材されたときも、自分がイレギュラーな方法でプロを目指す理由について、こんな風に説明した。


「ほうほう、なかなか先見の明がありますね。君が言うように、現在も世界で続いているスポーツバブルは、そう遠くない未来に弾け飛ぶでしょう。それが五年後なのか十年後なのか、あるいは来年なのか。時期は不明ですが、確定された未来であることは間違いない。まだ若いのに、そういう先のことを見越して自分の身の振りを決められるのは、大したものです。君はよほど賢いか、もしくは友人に恵まれている・・・・・・・・・んでしょうね」

 さも感心している風だが、聖は自分の考えではないことを見透かされている気がした。ただ、今となっては聖もセリフの内容が全くのデタラメだとは思っていない。元々は自分の考えではなかったにせよ、今は概ねセリフの通りだと感じている。聖は辛うじて動揺を顔に出すことなく、曖昧に笑って新星の言葉を受け流した。


「結構。順調に成長していますね。しかしまぁ、私としては既に方針転換に移行しつつあります。長らくスポーツを隠れ蓑にして様々な研究や実験をしてきましたが、どうやらここら辺が潮時のようだ。君がいうように、崩壊の兆しはあちこちで見え始めている。いや、もう既に始まっています」

「? スポーツバブルが、ですか?」

「っくぅ~! ちべたいっ! 」

 真面目に話していると思ったら、唐突に顔をしかめて新星が叫ぶ。いわゆる、アイスクリーム頭痛になったらしい。聖は内心、この人は本当にあのGAKSOの重要人物なのだろうかと疑問に思ってしまう。新星が首の後ろを軽くトントン叩きながら、痛みが治まるのを待つ。暫くして痛みがマシになったのか、新星は懲りずにアイスクリームを再び舐めて言葉を続けた。


「ちなみに君は、アイスクリーム頭痛の原因を知っていますか?」

「はい? いえ、知りませんけど」

「原因は主に二つ。ひとつめ、冷たい物が喉を通ったことで、喉にある三叉神経が冷激され、その伝達信号を脳が痛みと勘違いして頭痛が起きる。ふたつめ、口の中が急に冷えたことで、身体が一時的に血流量を増やし、体温を上げようとする。その際、脳へ繋がる血管が膨張し、頭痛が起きる。両方起きている場合もあります。ただ、どの程度喉を冷やせば発生するのかなどは個人差があるうえ、前述の原因も確度は高いですが、完全な原因だと断言はできません」

 急に何の話を始めたのか、聖はさっぱり分からない。

 例え話なのか、比喩なのか、それともただの脱線なのか。


「しかしつまるところ、共通するのは急激な変化です。何かが急に変わると、それに付随して、或いは相反して、別の何かも急激に変わる。何かを得れば何かを失い、何かを失えば何かを得る。この世界の原理原則のひとつです。おっと、待ち人が来たようだ」

 新星が突然、宙を見上げる。

 釣られるように視線を向けると、上空から白い何かが降ってきた。


「えぇ!?」

 驚いて声を上げると同時に、ズンッ! と、鈍く大きな音が響く。

 砂埃が巻き上がり、当たったわけでもないのに聖は衝撃で尻もちをついた。


「ゲッフ、な、何……?」

 顔をしかめながら、聖は落ちてきたものがなんなのか目を凝らす。

 新星の前に、小柄で白ずくめの少女が跪くようにしゃがんでいた。


「教授、お迎えにあがりまシタ」

 降ってきた白い少女が静かに立ち上がる。聖に背を向けたままだが、その美しいプラチナブロンドの髪には見覚えがあった。新星の研究所で見た、マリーという少女だ。以前とは異なり、今は身体にピッタリ張り付いた真っ白なダイバースーツみたいなものを着ている。その形状は昔テレビアニメで見た、巨大ロボットを操縦するキャラクターの衣装と似ていた。スーツはところどころに裂け目があったり、焦げ付いている部分がある。訝しんでいると、振り返ったマリーと目が合う。人形然とした無感情な相貌、美しいとは思うが、人間味はまるでない。その瞳は以前とは異なり、今はルビーのように赤く輝いている。


「時間通りだ、マリー。損傷は?」

「極軽微でス」

「回収物は?」

「回収済みでス。データも転送完了していマス」

「よろしい、では退散するとしよう」

「承知しましタ」

 そういうと、マリーは新星を軽々と抱え上げる

 俗にいうお姫様抱っこの格好だが、明らかに立場が逆だ。


「では若槻君、私はこの辺で失礼します。果たして、また会う機会があるかどうか。そうそう、マイアミでは君のお陰で非常に興味深ァいデータが採れたのでした。お礼というワケではありませんが、ひとつアドバイスを」

 マイアミで? 興味深いデータ? アドバイス?

 状況と発言に、聖の思考が追いつかない。


「表側にいくか、裏側にいくか。その判断は早い方が良いでしょう。私のオススメは表側ですね。今後かなりゴタつくでしょうが、それでも裏側の混乱に比べれは随分マシです。下手に足を突っ込めば、命の保証はありません。では」

「ちょ――」

 聖が質問を口にする余地もなく、マリーは新星を抱えたまま信じられない跳躍をみせる。ヒャハハハハハ、という新星の甲高い笑い声が不気味にこだましながら、あっという間に黄昏の空へと消えていった。


「なんだったんだ……」


 新星の落としたアイスクリームが、ゆっくりと溶けて地面に広がった。


           ★


 翌日。

 体調は万全な一方、どこか心が晴れないまま、聖は試合に臨んだ。結果としては勝利を収めることが出来たものの、危うく逆転負けをするところだった。試合のあとも鈴奈の件がずっと尾を引いていたが、自分を締め直す為に意を決して彼女に短いメッセージを送る。そうすることで、聖は無理やり気持ちに区切りをつけることにした。


「お! ヒジリ、ちょうどいいや、練習に付き合ってくれよ!」

 試合を終えた聖がカフェで食事をしていると、以前モザンビークで顔見知りになったアゼルバイジャンの選手、カラマト・ハサノヴァが声をかけてきた。彫が深く眉が濃い、典型的なトルコ系の顔立ちをした気さくな男で、年はいくぶんか聖より上だ。トーナメント表によると、お互い勝ち進めば準決勝で対戦ということになる。聖は快くオーケーし、ハサノヴァが予約したコートで軽い練習を行った。


「ねぇ、次の対戦相手はどんな選手?」

 練習の合間、聖は何気なく尋ねてみた。

 聖としてはそんなつもりは全く無かったが、頭のなかでアドが

<うっわ汚ったねェ〜! 仮にこのゴン太眉毛が負けたときに備えて、コイツが収拾してるであろう相手の情報を掠め取ろうってか! っかァ〜! オマエも狡いやり方が身についてきたなァ〜! ンな卑怯モンに育てた覚えはねェぞったく!>

 などと、言い掛かりをつけてくる。

 いつもの悪言を聞き流し、冷静に聖はリンクを切った。


「アスラン・イヴァニコフっていう、ジョージアのベテラン選手だ。ジョージアって分かるか? アゼルバイジャンの隣にある国で、昔はグルジアって国名だった。まぁ順当にやれば、オレが勝つと思う。直近の戦績を調べたら、やっぱり年齢的に決勝まで勝ち上がるのに苦労してるみたいだし。今回の勝ち上がりも全部フルセットで、そろそろ疲れが身体に来る頃合いだからな。必ず勝って、準決勝でオマエにリベンジしてやるぜ」


 ハサノヴァは自信ありげに、白い歯を覗かせる。気さくで人懐っこく、誰とでもすぐ打ち解けるのが得意なハサノヴァ。モザンビークでも、試合に負けた直後だというのに、笑顔を見せて聖の健闘を称えてくれた。オマエみたいなやつと試合できて嬉しいよ、またやろう。そんなセリフを嫌味なく言える彼の性格を、聖は好ましく思っていた。鈴奈の件で少し気持ちが落ち込んでいた聖にとって、ハサノヴァとの練習は良い気分転換になった。準決勝で戦うなら、勝つにしろ負けるにしろ、ハサノヴァとやりたい。そんな風に思っていた。


 しかし。


「Game set and macth,Ivankov. 6-0,6-0」


 圧勝、というには、あまりにも一方的すぎる展開。

 観ていた聖はもちろんのこと、多くの者が言葉を失う。

 会場には、まばらで乾いた拍手がぱらぱらと響くだけ。

 それが逆に、あっけない終わりの空しさを際立たせる。


「……」

 長身痩躯で、彫が深いせいか男の表情は分かり辛い。敗者であるハサノヴァをコートに残したまま、イヴァニコフはさっさと引き上げる。去り際、聖は男の横顔が見えた。微かに歪んだ口元が、やけに禍々しく思えてならなかった。


                                 続く

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