第121話 「最も下劣な行為」
階段を降りきったところで、聖の耳に怒号が聞こえた。
「ざけんなよクソ! ニヤニヤ笑いやがって、あのインチキ野郎!」
男子更衣室の入口に近付くほど、ハサノヴァの声と、何かを強く蹴飛ばすような激しい音が大きくなる。今このタイミングで顔をあわせるべきかどうか躊躇い、ドアに伸びた聖の手が止まる。自分が逆の立場なら、しばらくはそっとしておいて欲しいと思うだろう。しばし逡巡したのち、聖は意を決して、ドアを開けた。
「ハサノヴァ」
声をかけられても、彼は背を向けたまま振り向こうとしない。
その後ろ姿からは、溢れんばかりの怒りが立ち昇っているように見えた。
「……なんだよ、放っといてくれ」
「ごめん、そうだね」
ハサノヴァの様子から、ここはやはり一旦引き下がり、彼が落ち着いてから話をすべきだと思い直す。大人しくそのまま辞去しようとする聖だったが、何かひとことでも良いから、ハサノヴァに声をかけたくて、つい余計なことを口にしてしまった。
「君は良くやってたと思う。今日は、相手が強かった」
言い終えた瞬間、目に見えるように空気が変わった。
振り向いたハサノヴァの瞳には、激しい憎悪の火が灯っている。
「強かった? あれが!? ハッ、あんなモン、強いうちに入るか!」
眼球が飛び出てしまいそうなほど、ハサノヴァの目が大きく見開かれる。衝動的に横殴りしたロッカーが、音を立ててへこむ。何度も素手で殴りつけたのだろう、拳には血が滲んでいた。確かに、ハサノヴァはこっぴどく負けた。スコア的にも内容的にも、彼の良いところを何一つ発揮できぬまま惨敗した。しかし、そうであっても。例え手痛い敗北を喫したとしても。こんな風に、怒りや悔しさ以上に、憎しみに囚われてしまうような男ではないはずだと、聖は思っている。
気まずい沈黙が続く。
両者は何もいえず黙っていると、僅かに冷静さを取り戻したのか、ハサノヴァが舌打ちして大きな溜め息を吐き、聖の方へ手の平を向けて謝意を示す。へこませたロッカーを背もたれにして、その場に座り込んだ。
「……悪い。クソ、最悪だ」
「僕の方こそ。気にしないで」
わざわざ荒れているところに自分から顔を出したのだから、多少の八つ当たりは仕方ない。だが何かうまい言葉で慰めようにも、何も浮かんでこない。そこでふと、聖はハサノヴァが先ほど口にしていた言葉を思い出し、場をつなぐように尋ねてみた。
「さっきいってた、インチキ野郎って? 試合中、なにかされたの?」
ハサノヴァは忌々し気な表情を浮かべてから、自嘲気味に笑う。
「いや、そういうワケじゃない。だが、多分ヤツは
「やってる?」
おどけたように、ハサノヴァが目を丸くする。今ので意図が伝わらなかったのか? とでもいうような表情だ。しかし、聖のきょとんとした顔を見て、本当に分からないのだと察したらしい。苦笑いを浮かべながら、そのことについて、具体的な言葉を出した。
「決まってるだろ。
それは、全てのスポーツの価値を棄損する、最も下劣な行為を指していた。
★
「Game、Ivankov. 3-0」
アゼルバイジャン・オールカマーズ。
聖はジョージアのベテラン選手、アスラン・イヴァニコフとの対戦を迎えていた。
(強いのは間違いない。でも、これは……)
序盤からいきなり2ブレイクを浴び、早くも大きく離された。聖は自身のテニスのウィークポイントを、サーブだと自己分析している。確率自体は悪くないが、速度や回転に突出したものがない。ファーストをなるべく高い確率で成功させ、優位を保ってラリー戦で仕留める。典型的なストローカーのプレースタイルだ。そのため、リターンを得意とする選手には苦戦を強いられることが多い。
(日本人としてみれば身長は低くない方だけど、今の男子プロは平均身長が190cm近い。俊敏に動く大型選手が相手だと、僕のサーブはどうしたって狙われる。自分で良いサーブが打てたと感じても、相手からすれば打ちごろだったりするし。かといって、回転やコース狙いの組み合わせだけじゃ、最後まで誤魔化しきれない。だからブレイクされ易いのは分かってる。でも……)
イヴァニコフは聖のサーブを、サーブと同じか、或いはそれ以上のスピードでリターンしてくる。2ゲームあった聖のサービスゲームでは、合計12ポイント中6本ものリターンエースを浴びせられてしまった。いくら聖のサーブが弱点とはいえ、あまりにも極端な数字といえる。これが経験豊富なベテラン選手の実力、ということなのだろうか。
(ドーピング……)
ハサノヴァが口にした言葉が蘇る。彼曰く、最近になってから、テニスのみならず色々な種目の選手の間で、ある噂が立っているという。なんでも「現状の検査に引っ掛からない新薬」が出回っているらしい。聖はプロ選手として大会に参加するにあたり、大会運営側が指定する検査会場でドーピング検査が義務付けられている。サポートエージェントの幾島経由で紹介されたスポーツの専門医から、先立って禁止薬物のリストや、服用を避けるべき市販薬、飲食物などのアドバイスを受けており、それなりの対策はできているつもりだ。大抵のプロ選手も、サポートスタッフに支えられながら、万が一のことが起きないよう十全な準備をして選手活動を行っている。
だがもし、万が一、検査で引っ掛かろうものなら、例え悪意がなかろうとも、疑いが晴れるまでは選手としての活動を禁じられるのがスポーツ界の常識だ。仮に悪意が無かったと認められても、対策に落ち度があれば、それについての責任を選手は負わなければならない。それほど、ドーピングという行為の罪は重い。たった一人の選手がそれをしただけで、その種目全体を揺るがしかねない、大きな信用問題となるためだ。
<おうコラ、妙なこと考えてンじゃねェぞ>
タオルを頭から被り、気持ちを落ち着けようとしている聖に、アドが苛立ちを隠さない声色で話しかけてくる。雰囲気とタイミング的に、彼が何を言ってこようとしているのかは、おおよその見当がついた。
(あぁ、わかってるよ)
<本当に分かってンだろうな?>
またぞろからかわれるのかと思っていたら、思いのほかアドの口調には真剣みがこもっていた。確かにこのやりとり、聖だけが特殊な力を使うことへの罪悪感については、既に何度も繰り返し話をしている。それこそ、初めて能力を使ったときからだ。アドからすれば、呆れを通り越して腹立たしいのかもしれない。
<良いンだよ、オマエはそれで。それが役割なンだからな。つーか、オマエじゃなきゃなンねェってのが、ここ一年弱でよくわかった。確かにオメェが適任だ。最初から分かってたことだろうけどよ。ただオレとしちゃ、どうにもハッキリしねェ感じが、女々しいっつーか、危なっかしく思えてならねェンだ。それがオメェの良いところなのかもしンねェけどよ>
アドの言うことが、聖にはイマイチ要領得ない。
(えっと、何の話してる?)
<この先の話さ。この先、オメェが進んでくうえで、ことあるごとにイチイチ立ち止まって思い悩むンじゃねェかって思うと、じれったくてよ。男ならシャキっと覚悟決めて、オレが天下取ったるンじゃいって気概を見せて欲しいのさ。そうじゃねェと>
歯切れ悪く、アドが言いよどむ。
(じゃないと?)
聖が促しても、アドは言葉を続けない。
どうも、重要なことを伏せたまま、何かを伝えようとしている節がある。
<安心できねェ。それだけさ>
(アド、もしかしてなにか)
<あァ、うぜェ。オレのこたァどうでもいい。余計な話だ。何のことかはそのうち嫌でも分かるから、今はとにかく、目の前のクソインチキ
そう捲し立てると、アドは自分からリンクを切った。ただでさえ、今は試合で劣勢を強いられている場面だというのに、別の角度から何やら意味深な話をされて、聖は戸惑うばかりだ。しかし、相手がどうであろうと、自分は自分にできることを最大限やる。既にその覚悟は決めたはずなのだ。何かある度にイチイチ思い悩むのは、アドの言う通り、確かに女々しいかもしれない。
両者がポジションにつき、試合の続きが始まる。
遠目に、相手が嗜虐的な笑みを浮かべたのが分かった。
――ニヤニヤ笑いやがって、あのインチキ野郎
だからというわけでもないが、それを見た聖の心に、微かな怒りが灯る。
「マクトゥーブ」
呟いて、聖はその身に
★
「いや~、終わってみれば見事なストレート勝利でしたね〜! これで次の決勝に勝てば、オールカマーズ大会連続でのファイナル進出。プロ活動を始めたばかりの若手選手とは思えない、大躍進です! 次も期待してますよ〜!」
試合後に訪れたレストランで、スポーツ記者の
「しかしまぁ、どうにも態度の良くない選手だったなぁ」
スポーツカメラマンの五十嵐が、ビールを豪快に飲み干しながらいう。
「途中から明らかにキレちゃってましたねぇ。ジョージア語であれこれ叫んでましたけど、翻訳アプリはアゼリー語に設定してるから、何をいってたのやら。まぁ、罵声かなんかだっていうのは、雰囲気で充分わかりましたけどね」
「あの、もしかして、偕選手の心配されてます?」
祝勝会であるのに、聖が浮かない顔をしているのを百年は察したらしい。
指摘されて、その件についてもまだ上手く処理できていないことを思い出す。
「まぁね、私もちょっと驚きましたけど。しばらく会ってないうちに、まさかあんな大胆な決断をするとは思いもしませんでした。でも、若槻選手は気に病まなくて良いですよ。彼女、まだ勝ち上がってますから。近々コンタクトを取って、それとなく事情を聞いてみます。そしたら、こっそり若槻選手にもお伝えしますから」
悪戯っぽい笑みを浮かべる百年。記者がそんなんで良いのか、と思わなくもなかったが、彼女なりの心遣いなのだろうと受け取り、聖は曖昧に納得してみせた。鈴奈のことは気になるが、今は自分の活動にもっと集中を割かねばならない。
「あの、ちょっとつかぬことをお伺いしますけど」
聖はやや声を落とし、ハサノヴァから聞いたドーピングの話を二人に尋ねた。
すると、二人の反応は聖が思ったより、薄いものだった。
「あ~、まぁ、そういう噂はどこでもありますからね~」
「特にここ数年はスポーツギャンブルが盛んだしな。それに、ロシアなんかはずっと昔から、国家ぐるみでそういう事をしてきたって嫌疑をかけられ続けている。現に、柔道、陸上、フィギュアスケート。主にオリンピック正式種目のアスリートで、ロシア人選手のドーピング発覚者は他国に比べて多い。ただそのどれもが必ずしも確信犯、あぁ、これは使い方が違うんだっけ。えぇと、必ずしも故意だったわけじゃない。なかには選手自身が知らぬうちに、コーチがクスリを飲食物に混ぜて与えていた事例だってある。かと思えば、徹底的に調べた結果、全くの事実無根だったってことも。確かに、大金が動くスポーツビジネスであるがゆえに、不正をしようとする連中は多い。だが一方で、大金が動く市場だからこそ、絶対に不正を許さず、システムとしてスポーツの価値を守ろうとする動きも、また大きい。反社会組織が活発な国だからといって、そう簡単に何でもかんでもできるとは限らないのさ。それに、選手の間で噂が広まってる時点で、発覚のリスクが高いのは明白だ。てことは逆に、誰も手を出そうとしなくなって、却って安全なのかもしれない」
酒のせいでやや顔の赤い五十嵐だが、酔った風には見えない。
業界に身を置いて長い経験豊富な彼がいうと、さもありなんと思えてくる。
「本当にそういう話が、新薬が出回ってるのか、こっちでも情報収集しておくよ」
決勝戦に備えるということで、夜がふける前に三人は解散した。
百年たちは聖をホテルまで送ると申し出たが、聖はこれを固辞して一人で宿に戻った。聖の背中を見送り、角を曲がって姿が見えなくなったところで、百年が少し不満そうにつぶやいた。
「いいんですか? あんな風に煙に巻いて」
頬を膨らませ、百年は横目で五十嵐を見る。
「オマエも誤魔化す気だったろ。それに、半分は本音だ」
「えぇ~?」
「当然だろ。いくらなんでも信じられるか?
レスリングの取材中、二人も聖と似たような話を、もう少し具体的に掴んでいた。なんでも、ロシアンマフィアが新たなドーピングとして、ナノマシンを利用した
「さすがにちょっと突飛ですよね。映画やアニメの設定みたいで」
「冗談じゃねぇよ、ったく。そんな技術ができたら、スポーツの価値が暴落する」
ポケットから煙草を取り出し、火をつける五十嵐。
「スポーツバブル、大いに結構。ひと昔前じゃ考えられないぐらい、スポーツ業界は潤ってる。お陰で、トップアスリート以外にも、その恩恵は充分もたらされている。ただそれが、誰かの、何らかの狙いによって引き起こされてる副産物なのだとしたら。終わりは、あっという間にやってくるかもしれないな」
「自然にやってくるなら、それも仕方のないことだと思います。ただそのきっかけが、下劣な行為によってもたらされるものだとしたら、私はちょっと、受け入れられないな」
五十嵐は空を見上げて、煙を吐き出す。
吐き出した煙が、夜風にたなびいて消えてゆく。
「ホントにな」
夜空の星は地上の明かりに塗り潰され、ただ漆黒の闇が、広がっていた。
続く
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