第119話 「アゼルバイジャンにて」
三月中旬。聖は二度目のオールカマーズに参戦すべく、アゼルバイジャンへと降り立った。今回も幾島の同行はせず、モザンビーク同様の一人旅。成田空港からドバイを経由し、およそ十七時間のフライトを経て辿り着いたその国は、聖がこれまで目にしたことのない、とても美しい都市だった。世界有数の産油国であり、エネルギー産業で発展したアゼルバイジャン。首都周辺には、近未来的でファッショナブルなデザインの建造物が多く建ち並び、そのどれもがランドマーク足り得る迫力を持っている。その一方で、旧市街には古めかしい城壁や、歴史の重みを感じさせる遺跡のような建築物がいくつもあった。莫大な利益を産むオイルマネーによる急激な近代化、かつてシルクロードの要衝として栄えた永い歴史の名残り。アゼルバイジャンの首都バクーは、東洋と西洋、未来と過去の街並みが不思議なバランスで融合し、他のどの国にも無い独特な雰囲気を有していた。
「Game,Set & Much Wakatsuki. 3-6,6-4,7-5」
相手の打ったボールがアウトし、勝敗が決する。
(よし、本戦確定!)
大会三日目。聖は見事、予選を突破した。前回参加したモザンビークと同じオールカマーズではあるが、大会運営の違いから、アゼルバイジャンの方が規模が大きい。基本的な賞金額、出場する選手のレベル、宿泊先から試合会場までの距離、そのほか設備が充実しているなど、あらゆる面で選手への待遇が配慮されていた。
「若槻選手、予選突破おめでとうございます!」
ホテルのエントランスで、溌溂とした雰囲気の日本人女性が聖を出迎えた。ベージュのパンツスーツに身を包み、屈託ない笑顔を向けるその女性は、日本でスポーツ紙を専門に扱う出版社の女性記者、
「モモさん、ありがとうございます」
「晩御飯、いいとこ予約しましたよ! さ、行きましょー!」
そういって、
<ヒューッ! 巨乳記者ってだけでアガるわ。早く独占取材を受けろよテメー!>
(次、余計なこと言ったらリンク切るからな)
アドに釘を刺し、愛想笑いを顔に張り付ける聖。別にメディア関係者だから警戒している、というわけではない。悔しいかな、アドがいうように百年の体型は大抵の男性の目を引く魅力を持っている。その上、彼女はそのことを充分自覚しており、あろうことか初対面の自己紹介で「百年桃子です! チャームポイントはジャスト100cmでIカップのこの胸です! 見られる分には気にしないので、ご自由に! あ、でもお触りは禁止ですから!」と言ってのけた。あまりに明け透けなそのノリに、唖然とする聖の様子を見て、彼女はバツが悪そうに「ごめんなさい。メディア業界ってゴリゴリの体育会系なので、ついいつものやつを……。高校生相手に今のはセクハラでしたかね?」と、良くわからない釈明を口にしていた。メディア業界は基本的に男性社会だ。まだ駆け出しだという百年が、そんな競争激しい業界で上手く立ち回るための、彼女なりの処世術ということで、聖は一応納得した。
「いやぁ、二大会連続で本戦出場、さすがですね~」
屈託なく褒めてくれる百年の言葉に、聖は思わず照れてしまう。年齢は百年の方が上だというのに、彼女は敬語を崩さない。なにやら、彼女は全てのアスリートに敬意を払うのがポリシーなんだそうだ。ただ敬語ではあるが、振る舞いや態度は実にフレンドリーで、とても接し易い。それでいて馴れ馴れしくしすぎない。一定の距離をきちんと維持したまま、相手の懐に飛び込むのが上手いんだな、と聖は思っている。
アゼルバイジャンのオールカマーズへ参戦するにあたり、聖は自分の味方になってくれそうな人物として、百年を選んだ。もう少し正確に言うならば、初めてインタビューを受けた際、聖が次に参加する大会がアゼルバイジャンであると知った百年の方から、ちょうど自分たちも別件でアゼルバイジャンへ行くから、現地で取材させてくれと申し出があったのだ。なんでも、アゼルバイジャンはレスリングが盛んらしく、大きな国際大会に日本人選手が出場するのだという。それを知った聖は渡りに船と思い、取材を受ける代わりに、空いた時間で自分の簡単なサポートをしてくれないかと交渉した。旅慣れしていない未成年からのお願いを、百年は二つ返事で快諾してくれたのだ。こうして、一時的にではあるが、聖はメディアに縁のある人物を味方につけた。
レストランへ着き、聖へのインタビューという名目で雑談が交わされる。ほどなくして料理が運ばれ、話は一旦そこで区切られた。百年が予約したのはトルコ料理の店で、なにやら日本ではあまり馴染みのない、しかし色とりどりの美味しそうな料理がテーブルに並ぶ。
「試合終えたばかりですもんね、まずは食べましょー!」
百年が聖に気を使ってくれて、情報交換の前にディナータイムとなった。
「んにゃ〜、かっらい! でもおいひい!」
香辛料の効いた料理を食べたせいだろう、百年は噴き出た汗をハンドタオルで拭う。男性二人を前にしているというのに、遠慮なく胸元のボタンを外しては手をパタパタさせて扇ぎ始める。カメラマンの五十嵐は見慣れているのか全く気にせず、モリモリと大皿の料理を食べ進め、時おり満足そうにうなずいていた。目のやり場に困った聖だったが、意識するのも変なので自分も食事に専念する。食べながら、聖は百年をチラ見し、どことなく鈴奈と似ているな、と感じた。無論、色んな意味で。そして、デザートが運ばれてきたタイミングで、自然と情報交換が始まった。
「じゃあ、ハサノヴァ選手も本戦出るんですね」
「えぇ、だいぶ調子良さそうでしたよ」
「リベンジされないように気をつけないとなぁ」
ハサノヴァ選手とは、聖がモザンビークの挑戦者決定戦で試合した、アゼルバイジャンが母国の選手だ。彫が深く眉が濃い、典型的なトルコ系の顔立ちをした気さくな人物で、アゼルバイジャンでのオールカマーズについても、彼から教えてもらった。
「それと、若槻選手が仰ってたアルメニアン・マフィア関連のお話ですけど、確かにここバクー市街にも出没することがあるようです。主にスポーツギャンブル関連で。といっても、公営ではなく裏ギャンブルですけど。ただまぁ、今時そういうのはオンラインなので、どこか場を設けてやる、ということはないと思います」
――ロシアンマフィアの皆様さ
幾島が教えてくれた、アゼルバイジャン周辺で暗躍する裏社会の情報。アゼルバイジャンは、隣国のアルメニアと長らく紛争が続いている。トルコと友好関係を持つアゼルバイジャンに対し、アルメニアはロシアとの繋がりが深い。対立の歴史的背景は複雑極まりないが、聖に関係する点に絞った場合、要するにマフィアはアゼルバイジャン国内で裏ギャンブルに乗じた非合法の金儲けと、アゼルバイジャンに対する内部工作を行っているということだ。その手段の一つとして、他国からやってくるアスリートが狙われる事案が複数起こっているという。
「確かに若槻クンが言うように、ギャンブル絡みでアスリートが巻き込まれる事件もある。ただ報道されているのは、どれもが賭けに負けて逆恨みした一般人の犯行ばかり。マフィアが裏で動いている、という証拠が出た例はない。表向きには、だけどな」
カメラマンの五十嵐が野太い声で意味深に言う。
「表向きには、ですか」
「いや、憶測の域は出ない。なんせ連中は恐ろしく狡猾だから」
「疑いだしたらキリ無いですよー。日本より危険度が高いのはそーですけど」
引き続き注意は必要だが、気に病むほどではない。それがメディアに属する二人の見解のようだった。何かが起きてからでは遅いと思う一方、それに気を取られてしまって目的を果たせないようでは、本末転倒だなと聖も思う。しかし、
――憶えておけ。そっちにも、敵は潜んでいるぞ
煉瓦色のスーツを身にまとったその男は、そう助言した。
それが一体なにを意味することなのか、聖にはまだ分からない。
結局、今のところ具体的な何かが周囲で起こっている気配は無さそうだった。話の区切りがついたところで三人はレストランを出る。去り際に、百年が「あ、そうだ!」と何かを思い出し、妙にニヤニヤした表情を浮かべて話始めた。
「すっかり言うの忘れてましたけどね、マイアミで若槻選手がペアだった偕選手も、アゼルバイジャンで開催される女子の国際大会に参加してますよ。って、もしかしたら知ってましたかね?」
「スズさんが? いえ、初耳です」
「てことは~、お二人はまだ全然そういう関係じゃない、と」
「当たり前じゃないですか」
「え〜? マイアミじゃメッチャ良い雰囲気じゃなかったです~?」
「いえ、あの、全然そういうことはないです」
「チャンスはあると思いますよ〜。女の勘です」
「あの、なに言ってんですか」
「私、個人的に彼女を応援してるので、連絡とってみてください! じゃ!」
百年がどういう意図で鈴奈のことを教えてくれたのか、聖にはイマイチ判然としない。何やら余計な妄想を膨らませているようだが、聖がどうしてプロになったのかは以前答えてある。アスリートのゴシップネタをどうこうするタイプでは無さそうなので、単純に面白がっているだけなのかもしれない。聖はどうにも、自分は年上の女性からいじられることが多いと感じる。そういう星の下に生まれているのだろうか。だがそれはそれとして、かつてのペアが日本から遠く離れたこの国で、自分と同じように戦いに挑んでいるという報せは、少なからず聖の気持ちを元気づけた。
「明日の試合は午前だし、時間が合えば行ってみよう」
<お、今度こそスズパイとゴール決めてくれンのか?>
「だから、そういうんじゃないってば」
ホテルに戻り、聖は久しぶりに鈴奈へメッセージを送る。女子の試合会場は地下鉄で数駅先だ。タイミングが合うなら、試合前に直接会って激励したい。なんだかんだ、最後に鈴奈と会ってから半年近くが経っているのだ。
だが、朝になっても、鈴奈からの返事はなかった。
★
アゼルバイジャン・オールカマーズの
(他の国でも感じたけど、自分と縁のない土地でも、人って生活してるんだな)
<なにいってンだコイツ。今頃時差ボケかましてンじゃねェぞ>
(その、上手く言えないけど、自分がいてもいなくても、世界は在るんだなって)
<ケッ、当然だ。世界は人間に興味なンざねェよ。命は全部、
(アドって人間嫌いなの?)
<あァ、嫌いだね。デキるなら魔界の穴ブチあけて、グチャグチャにしてェわ>
(それにしては、漫画とかゲームとか大好きじゃん)
<それはそれ、これはこれ>
(よくわかんないなぁ……あ、着いた)
日本ではまず見られない、急角度で深く長いエスカレーターを下り、地下鉄のホームへ降り立つ。利用者の数は聖が思っていたよりも多い。都会の住民らしい人々の、他人に対する無関心な雰囲気はどこか日本に通じるものがある。カスピ海沿いに、なだらかなカーブを描いて地下鉄は進む。目的の駅にはすぐに到着し、迷うことなく会場へ入れた。
(えーっと、
携帯端末を片手に目的のコートへ着くと、観戦者は聖が参加している大会より多い印象だ。ただ少し違うのは、男性客の比率が明らかに高い。そしてその殆どが、片手に携帯カメラを構えている。そんな観客の傾向を、聖は意識的に無視した。
(お、スズさんいた。6-4,4-2で先行してる。……あれ?)
聖の胸中で、知り合いを見つけた喜びがわき上がる。
それと同時に、強烈な違和感が襲った。
(あれ、スズさんだよな。……えぇ?)
コート上でラリー戦を展開する鈴奈。対戦相手の方が背は高く、体格差は明らかだ。しかし、鈴奈は相手の攻撃に一歩も引かず、それどころか強引な一撃で主導権を握る。相手が守勢に入った瞬間、攻撃の手を緩めることなく鈴奈が追撃してポイント。見事な試合運びに観客は声援を送るが、聖は鈴奈から目が離せぬまま言葉が出てこない。何度も何度も、見間違えじゃないのかと鈴奈を目で追っているうちに、いつの間にか試合は鈴奈の勝利で幕を閉じた。
「ちょ、通してください、すみません。スズさん! スズさんっ!」
試合後、勝利した鈴奈はサインを求める観客のファンサービスに応じている。聖はなりふり構わず、観客をかき分けながら鈴奈の名前を呼ぶ。厄介なファンだとでも思われているのか、並んでいる観客たちは迷惑そうな表情を浮かべて聖に前を譲ろうとしない。聖が最前列に辿り着く頃には、ファンサービスを切り上げた鈴奈は荷物を背負い、控室へと戻っていってしまう。距離を考えれば、聖の声が聞こえていないはずはないというのに。
「スズさんっ!」
必死に鈴奈の名を呼ぶと、思いが通じたのか、足を止めてようやく彼女は聖の方を見る。視線が合った瞬間、聖は自分の見ている人物が、かつてのペアだという事を確信した。そして、
年の割に幼い顔つき。少し厚い唇に、愛くるしい大きな瞳。
小柄ながら、大地を駆ける草食獣のように鍛えられたしなやかな四肢。
トレーニングで痩せたのか、ふっくらした頬はやつれているようにも見える。
何より、彼女がチャームポイントだと自慢していた
スラリとした体型となった彼女は、容姿と相俟って幼い少女のようだった。
「……」
彼女は表情ひとつ変えない。
やがてすぐに踵を返し、コートから去っていく。
聖は何も言えず、呆然としたまま動けなくなった。
「日本のあのコ、強かったなぁ」
「でもさぁ、
「それなー。日本人には珍しい巨乳キャラだったのに」
「勝ちたいのは分かるけどさ、そこまでやるかねフツー」
「あの体格であのハンデあったらまぁ、ねぇ」
「とはいえやるか?
「それで強くなっても、選手としての魅力は半減だよな~」
ビールを手にした酔客同士の会話が聞こえてくる。聖の胸に広がる動揺が、筆舌に尽くし難い怒りに変わっていく。しかし「なぜ?」という疑問が、怒りの炎が燃え盛ろうとするのを押し留める。マイアミの大会からたったの半年弱の間で、一体彼女に何があったのか。他のメンバーは、このことを知っているのか。論理的に考えれば、彼女がそういう決断をすることに、何ら不自然な点はない。ないが、聖にとってこれは感情の問題だ。理屈で納得できる話ではない。
「すみません、今日ここでの試合は終わりなので、ご退場願います」
清掃スタッフが露骨に迷惑そうな態度で話しかけてくる。
促されるまま聖は観客席を離れるが、どこに足を向けたら良いか分からない。
鈴奈が控室から出てくるのを待つか迷ったが、彼女の様子から察するに、恐らく意味が無いと聖は判断する。手持ち無沙汰のまま試合会場から離れ、当てどもなくとぼとぼと歩く。頭のなかでは、鈴奈に関する疑問であふれ返り、なんともやるせない気持ちでいっぱいだった。鈴奈と聖は確かにマイアミでペアを組んだが、正規ペアというわけではない。関係性もよくて友人、もしくはせいぜいが先輩と後輩だ。彼女が自身のキャリアについて悩んでいたとしても、聖に相談をするはずがない。そんなことは分かっている。分かっていてなお、聖には納得がいかなかった。
「オヤ、これはこれは。奇遇ですねぇ!」
気持ちの整理がつかぬままウロついていた聖の耳に、聞き覚えのある声が飛び込んでくる。ハッとして声の方を向くと、白衣に身を包み、奇妙なゴーグルをつけた白髪の老人が目の前にいた。聖はその老人を知っている。
世界最高峰のスポーツ科学研究組織、
続く
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