第66話 「ミックスの達人」

 偕 鈴奈かい すずなの母親は、国内でそれなりに名の知れた女優であった。十代で芸能界入りし、優れた演技力や人柄で大手芸能事務所やテレビ局関係者からも好かれ、若いながら処世術にも長けていた。やがて自らを主演に抜擢し、ヒット映画を産み出した若い映画監督と結ばれる。人気の美しい女優と才能ある映画監督は三人の子をもうけ、鈴奈はその末っ子だった。


 年の離れた兄は建築デザイナーとして既に海外へ移住、年子の姉は母と同じように芸能界へと進んだが、七光りの評判を嫌い身内のことは隠したまま女優を目指している。鈴奈も幼い頃は子役としてCMやテレビドラマの脇役を経験していたが、あるとき偶然テニスに関連する撮影に参加し、それをきっかけに彼女の興味はテニスへと移った。


 元名女優の娘である美少女。奇しくも、鈴奈が自身の運動能力の高さを見せ始めたのと、日本人ペアがグランドスラムで偉業を達成した時期が重なり、彼女は密かに注目の的となる。鈴奈は元来ひと見知りする性格だったが、一方で負けず嫌いな側面もあり、注目を集める自分を褒めてくれる両親の期待に応えようと幼いながらテニスへのめり込んだ。


 そしてほどなくして、彼女の年下で大人たちの耳目を一気に集める少女が現れる。


 素襖春菜すおうはるな


 彼女のプレーを目にした鈴奈は、そこで本物の天才を知ることとなった。


――あのコに負けたくない


 大人が思う以上に、子供は早い時期から自身の価値が他者との比較によって位置づけられることを理解する。大半はなんとなくそう感じるだけだが、鈴奈は他の子供と比べて知恵が回った。テニスの才能で自分は彼女に劣るが、親の威光や容姿は負けていない。鈴奈は早い段階から大人の前で「春菜ちゃんがライバル」と自ら口にし、春菜への注目を利用するように計算高く立ち回った。その結果、鈴奈と春菜は当時のジュニアテニスを知る者の間では、必ずセットで語られるようになる。


 計算外だったのは、彼女の身体のこと。

 小学六年を越えたあたりから発育が良くなり、しかしそれは極めてアンバランスだった。身長は伸び悩むくせに、やけに胸だけが大きく、同年代の子供と比べて女性的な身体になるのが早い。いつの間にか、自分より弱かったはずの選手に追い抜かれるような場面が増えていった。


 たゆまぬ努力のすえ、それなりにテニスの実力は向上したものの、年齢が上がるに連れて肉体的ハンデは大きく作用していく。テニスはただでさえ女性が男性に勝つことは困難だというのに、女性のなかですらその差を痛感させられる鈴奈。加えて、自分を見る周囲の目が、テニスよりも彼女の容姿に対する偏見と嫉妬に変わっていくのを日々感じていた。


――いいよねぇ? アイツは親譲りで顔が良くて胸も大きいんだから


――水着でテニスする動画でもアップすればウケんじゃないの?


――巨乳過ぎるテニスプレイヤーって? ウシの間違いでしょ


――結局さ、アイツが名前知られてたのって母親のお陰じゃん


――アイツが素襖のライバルとか、ありえないっしょ



 うるせぇ、クソ共が。


 自分がどうしてテニスで負けたくないのか、その理由を彼女はもう思い出せない。大した戦績もないうちから注目され、気をよくしていた時期が忘れられないとか、その程度の話かもしれない。だが、もはや理由は問題ではなかった。子供の頃から続けているテニスで、どうにかして自分という存在を周りに認めさせたい。親の威光でも、持って生まれた容姿でもなく、自分で勝ち取った実力で、と。そう強く思っていた。


(でも、もう時間がない)

 年齢はすでに十八歳。ジュニアにカテゴライズされる最後の年。プロを目指すだけならまだ諦めるには早すぎるといえる。しかし、女子選手は男子に比べて早熟化が進み、十代でグランドスラムを制した者は男子より多い。現に年下である素襖は、既にプロとなっている。


 それに、プロになるのはゴールではない。プロとして活躍する多くの選手は、ジュニアの時点でその才能を花開かせている。プロになれぬままだらだらとプロ未満の選手生活を続けても、意味が無い。鈴奈はそう考えていた。


――貴女はテニスも素晴らしいけど、他にも活かせる才能を持ってるわ


 ATCの最高責任者である沙粧さしょうは、しばらく前から鈴奈に対しそんな言葉を向けるようになった。見た目こそ母親並みに美しい女だが、鈴奈には彼女が見た目通りの美しい心根の持ち主ではないことを察している。容姿というものは、その人物の一部に過ぎない。そして他者からの羨望を集められるほど優れた容姿を持つものは、得てしてその輝かしさに反し強い影を持っているものだ。自分と同じように。


 鈴奈が所属するATCには、才能にあふれた選手が集められている。そしてその才能とは、テニスに限った話ではない。鈴奈も入った当初は気付かなかったが、あそこには運動能力以外に、外見的に優れた者が不自然なほど集められている。それが何を意味しているのか、考えが及ばぬ鈴奈ではない。


(冗談じゃないね、ただの客寄せパンダになんか、死んでもなるもんか)

 まずはこの大会で結果を出し、どうにかプロになってみせる。プロになってからのことは、今は考えても仕方がない。鈴奈は決意を固めるように、一瞬だけ目を瞑って短く息を吐く。


 小走りでコートを進み、ペアである年下の男子に声をかける。彼は、素襖春菜の幼馴染だという。そのことに、何かしら運命めいた意図を感じる鈴奈。自分がプロを目指すうえで彼の存在がどう関わるかは見えてこないが、彼女の直感は彼との友好的な関係が自分に利することだと告げている。


「セイお待たせ~。しまっていこーじぇ!」

 愛想でたっぷり塗り固めた笑顔を見せてから、ポジションへ向かう。


(まずは勝つ。何を利用してでも)


 静かに激しく燃え盛る執念の炎を、彼女はその愛くるしい見た目で覆い隠した。


           ★


「ッ!」

 ボディを狙った鋭いボレーが、鈴奈のラケットを弾く。


「Game & 1st set Italy,6-3. 2nd set, serve for Japan.」

 会場が歓声に包まれる。最初のセットはイタリアが奪った。鈴奈の2度目のサービスゲームを落とした日本ペアはブレイクバックできず、そのまま押し切られるかたちとなってしまう。中盤からはイタリアのウナーゾが積極的にネットプレーを披露し、鈴奈に対して攻撃を強めた結果だった。


 ひじりは汗を拭う鈴奈にチラリと視線を向ける。彼女は特段変わった様子もなく、ひょうひょうとしている。だが心なしか、どこかいつもの余裕を感じない。相手から集中的に狙われ始め、負担が大きくなっているのだから、余裕がなくて当然なのだ。なのにそれを見せようとしない彼女の振る舞いが、返って彼女にかかっているプレッシャーの大きさを表しているように聖には思えた。


「す、ずさん。えと、切り替えましょう。次は、どうしよう。えーっと」

 思わず謝罪の言葉から話しかけようとしたのを、どうにか堪える聖。だがそのあとが続かない。セットを奪われた直後だというのに、反省の言葉も無く次のセットについて語るのは失礼なのではないかと要らぬ気を回してしまう。


「そだね~、どうしよっか~」

 このあとどこ行こうか、と気軽に聞かれたときのようにあっけらかんとしている鈴奈。最初のセットを先行されてなお、普段の態度を崩さない彼女の肝の太さには驚くが、聖にはどうしても彼女が無理をしているように思えてならない。


(なんだかんだ、スズさんも負けず嫌いだしな)

 彼女の普段の態度や、勝敗に拘らないように見える振る舞いも、ある種のキャラづくりみたいなもの。美人は計算高いものだと、ミヤビは言っていた。


(イタリアペアは強い。適切なタイミングで適切な陣形を取る。ミックスだけど相手の女性も背が高くてプレースメントが良いから、穴らしい穴が見当たらない。対して、こっちはスズさんの身長が低いのを上手く狙われてる。スズさんがいうように、スズさんのサーブのときにギアを上げられたんだ。向こうとしちゃ、スズさんのサービスゲームを取りさえすれば、あとはキープで充分。無理に攻めてこないからミスが少ない。逆にこっちは攻撃しなきゃいけなくなって、そのせいでカウンターやミスが出るんだ。じゃあ、どうする?)


時間ですTime

 主審がセット間の休憩終了を告げる。大した作戦会議も出来ぬまま、第2セットが幕を開けた。ここで聖たちが負けてもまだチームの勝敗は決しないが、要らぬプレッシャーを残りの二人に預けることになる。結果がどうなるにせよ、諦めるにはまだ早い。


 だが、そう思う聖の思いとは裏腹に現実は容赦なく襲いかかり、あっという間にイタリアペアが3ゲームを連取する。聖たちは自分たちも気づかぬうちに会話を交わす頻度が減り、徐々に、そして確実に追い詰められていく。


(どうする? 何か手は無いのか?)

 焦りが募る。男子ダブルスや女子ダブルスのように、相手が強力な武器や特殊な戦法で仕掛けてくるわけではない。堅実に、確実に、常に正攻法で立ち塞がる。穴らしきものも、現状を打破するアイデアさえ浮かばない。つけ入る隙が、どうしても見つからない。


――大丈夫、次はがんばろ?


 ふと、昔の記憶が甦る。

 強い対戦相手に狙われ、手も足も出ない聖。それを必死にカバーしようと奮戦するハルナ。彼女は決して聖を責めたりしない。勇気づけ、励まし、諦めそうになる聖の心を奮い立たせてくれた。それに勇気づけられたからこそ、試合を投げ出さずに最後まで戦うことができたのだ。


(ハル姉は、どんな気持ちで戦ってたんだろう?)

 ハルナとて、聖とペアが組めればそれで良いと思っていたわけではないはずだ。彼女は聖とペアと組み、そのうえで勝ちたかったに違いない。勝つことでペアの有用性を示し、勝つことで一緒にいる権利を主張するために。そして何より、大切な人と一緒に勝利を掴みたいと、そう思っていたのだろう。


(僕は今、スズさんの力になれているのか?)

 ペアは組んでいる。練習も一緒にした。パターンを憶え、作戦を共有し、意思統一の手段も揃えた。だがもしかすると、なにかが足りないのではないか。戦略や戦術といった手段の話ではなく、もっと根本的な、なにか。


――男が女を立てる、それがミックスのセオリー


――女性の活躍は男性に懸かってる、ってコト


 鈴奈の言葉を思い出す。


 女性が気持ちよく戦えるように、どう立ち回るべきか?

 ぼんやりとした思考をつむいでみるが、形になりそうで今一つ掴めない。思い出せそうで思い出せないようなじれったさを聖が感じていると、口の減らない神様の使いが、空気も読まずにいつもの調子で話しかけてきた。


<よォ、そろそろ喋ってイイか?>


           ★


 相手の日本サーブから始まった第2セット、開幕で連続ブレークに成功したとき、ピストーラは自分たちの勝利を確信した。手強そうな相手ではあったが、さほど苦戦することなく片がつきそうだと安堵する一方、もう少し楽しみたかったなと残念に思う。


(女に男が引っ張られてるようじゃ、ミックスは勝てねぇぜ?)

 ペアのウナーゾは実力通りのプレースメントを発揮してくれている。イイ女だが、いかんせん気性難で扱いに気を遣う。じゃじゃ馬娘をうまくコントロールするのは、やりがいがあって楽しい反面、団体戦のようなチームの勝敗に関わる場面ではやや荷が重い。特にこちらから何もせず調子が良いなら、それに越したことは無いとピストーラは安堵する。


(ロシューのことがあったから気掛かりだったが、どうにかなりそうだ)

 元々、ピストーラはイタリアチームのリーダーであるティッキーとは顔なじみだった。同郷のテニスアカデミーで天才として実力を見せ始めた彼女を、いつものノリでナンパしようとして酷い目に遭い、それ以降ピストーラは彼女と仲良くなろうと手練手管を尽くす。ようやく彼女が誘いに乗ってくれたと思ったら「私について来い・お前の力を貸せ」と有無も言わさず命令され、なし崩し的に彼女のいうことを聞くようになった。


(イタリアテニスの復権ねぇ。ま、こころざしは支持するけどよお)

 イタリア人としてテニスをしているというだけで、ピストーラ自身も理不尽を被ったことがある。だが、彼からすれば世界中いつもどこかで、理不尽な理由で理不尽な扱いを受けている連中はごまんといるのだ。それが自分だったからといって文句を垂れても、世界を変えることなどできない。もちろんそのときは腹を立てるし抵抗もするが、そんなことは人生においてどこの誰でも起こり得ること。苦労話だって話のネタになる。楽観的な彼は、自分を取り巻く環境をそう受け取っていた。


 だが、ウナーゾは違う。


 女子ダブルスで才能を発揮した彼女は、幼い頃から仲の良かったスイス人とペアを組んで頭角を現した。イタリアテニス界が批難の対象となっても、二人はペアを継続し、勝つことで抗ってみせた。しかしその結果、ウナーゾのペアは理不尽なできごとに巻き込まれてしまう。それ以降、ウナーゾはティッキーと共にイタリアテニスの現状を変えるべく、出来る限りのことをしようと決意した。なにかにつけて女を口説こうとする、尻の軽いイタリア男とペアを組んででも。


(美人は笑顔が一番なんだけどなあ。悲壮な覚悟キメちゃってよお)

 ティッキーも美人だが、ピストーラはどちらかというとウナーゾの方が自分の好みだった。自分の感情を冷徹なまでにコントロールできるティッキーに対し、ウナーゾは自身もそうあろうと努めているが、上手くいかない。ちょっとからかうとすぐクールさの化けの皮がはがれるのだが、それがまたたまらなくチャーミングなのだ。


 生来の気質はもっと好奇心旺盛で人懐こいウナーゾが、過去の経験から自身を律するべくティッキーのような態度を心掛けたいのは分かる。だがそれがむしろピストーラには、子供が無理して背伸びしているようにみえて愛おしく感じてしまう。一言でいうならば「オレが傍で見といてやらねえとな」といった具合だ。


(そう思ってるのがバレたら、二度とクチ利いてくれねえだろうがな)

 色んな意味で、よくも悪くも外からの影響を受けやすい彼女を、ピストーラは支えてやりたいと思っている。まずは、彼女が笑顔を取り戻せるように、と。そのためには、是が非でもこの大会で結果を残し、彼女とティッキーの目指すイタリアテニス復権を実現する。女性のためにあらゆる努力を惜しまない、それがピストーラという男だ。


           ★


 聖の意識が、無数の本が立ち並ぶ虚空のアカシック・記憶レコードの書架へと繋がる。


「撹拌事象……。ダブルスでも起こるのか」

「ったりめェだろ、ダブルスもテニスなンだからよ」


 少年の姿を現したアドが偉そうにいう。確かにそれはそうなのだが、聖はてっきり、自分が一人で戦うときにだけ撹拌事象は起こるものだと思い込んでいた。特に根拠はない。強いて言えば、自分が力を宿した状態でテニスをする際、ペアはどうなるのかが想像つかなかったからだ。


「えと、この場合、どうなるの」

「なにが?」

「ダブルスって二人で1ペアじゃん」

「あァ、別に二人分の能力が乗っかるとかじゃねェよ」

「あくまで一人、か」

「だな。ただ……まァ、やりゃわかる」


 なにが、という間もなく、景色が変わりアドが姿を消す。こういうときはもう、いくら質問したところで答えは返ってこないと聖も学習していたので、さっさと気持ちを切り替える。ぼんやりと光を放つ背表紙に手を伸ばし、そこへ刻まれた名前に触れる。


 地上でもっとも広い大陸を悠然と流れる、インダスと呼ばれる大河に由来する名を持ち、勤勉・勤労な国民性と、宗教への高い信仰心を併せ持つ国、インド。かの国は長きに渡る大国からの隷属が終わると、著しい発展を遂げた。


 経済的に急成長をみせるインドの恵まれた家柄のもと産声をあげ、高い教養と広く余裕のある価値観を育まれたその選手は、長年に渡りダブルスの名選手として活躍し続けた。また、ミックスダブルスにおいても、数々の女性とペアを共にし、快挙を成し遂げる。


 身長差から凸凹でこぼこコンビとあだ名された、小柄な日本人


 類稀なる才能を持ったがゆえに一度は燃え尽きた、早熟の元天才少女


 モデル顔負けのルックスと確かな実力を兼ね備えた、テニス界の理想の美少女マドンナ


 彼女たちを栄光の四舞台グランドスラムの頂点へとエスコートし、また自身も男女混合ミックスダブルスにおける生涯に渡るキャリア栄光の全制覇グランドスラムを達成した。やがて彼はその功績を認められ、母国から最高名誉賞パドマ・シュリーを受賞する。


 人種、性別を問わず、誰とでも息を合わせられるダブルスの熟練の達人エキスパート


 その選手の名は


 Maheshマヘーシュ・ Shrinivasシュリーニヴァース Bhupathi・ブーパティ


 達人の手にかかれば、じゃじゃ馬娘たちさえ、淑女となる。


                                    続く

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