第67話 「ミックスの葛藤」
第1セットを落し、続く第2セットも開幕で連続ブレークされ、相手に先行を許した
(あたしに狙いを集めてるのは明白。それも、女の方はあたしの特徴を分かった上で狙ってきてる。当然っちゃ当然だけどさ、こいつ見た目の割りに……っていうか、見た目通り性格悪いったらないね。足長くてムカつくし)
テニス選手としてはもちろん、一般女性の平均よりもバストサイズの大きな鈴奈は、プレーの邪魔にならないようコルセット並みに固いバストバンドで胸を固定している。そのため、とっさに
(ボディだけ狙ってくれりゃ、まだやりようもある。でも、しっかりボディ狙い以外も使って意識を散らしてきやがんの。あの軽薄そうな男、さも自分は女性に対して紳士的ですよ〜みたいな態度しやがるクセに、やることはしっかりやってきてくれちゃって。あ~、やだやだ)
女性にボールを集め、男性がカバーに入ろうとしたところで逆を突く。イタリアペアのとる戦術はいたってシンプルで、ミックスダブルスにおける王道戦術だ。本来ならば鈴奈たちが相手に対して仕掛けたい戦術だったが、彼女のフィジカル的なハンデを背負う日本はイニシアチブを取られ、結局は後手後手になる状況が続いてしまっている。
深呼吸する鈴奈。しかしそれが、深い溜め息だと気付く。同時に、相手ペアと自分たちとの間にある明確な地力の差を前に、気持ちが冷めてきているのだと自覚する。自分が負けず嫌いであるのは承知しているが、その一方で勝負を投げやすい側面があった。それは鈴奈自身があまり認めたくない、自身の欠点でもある。
(すぐこれだよ、あたしってやつは)
胸中で自嘲すると、不意に自分への情けなさがこみ上げてくる。彼女はすぐさま、強烈な理性と子供の頃に身につけた涙腺のコントロールで感情を押し殺す。だが物理的な現象は止められても、崩れ始めた彼女の士気は、燃え盛っていたはずの執念の炎と共に勢いを失くしていく。ここでテンションを落すのは良くないと分かっているが、自分では止められない。岩壁にしがみ付いていた指先から、意志とは関係なく力が抜けていくような感覚。落ちる、と、鈴奈が思いかけたそのときだった。
「スズ、ちょっといいか」
ペアの聖が、鈴奈の肩に優しく手をおいた。振り向いて聖と目が合うと、彼の瞳は今まで見たことも無いような自信と余裕の色を宿していた。姿かたちは何一つ変わらないのに、まるで別人と見まがうほどだ。さっきまでとは、雰囲気がまるで違う。
「悪い、オレがもっとゲームメイクできれば、君に負担をかけずに済むんだが」
雰囲気だけでなく、その声色は普段と変わらないのに、どこか頼もしさを感じさせる。急に年を取って大人びたような、それでいて若々しく力が漲った不思議な声だ。落ちかけた鈴奈の腕をしっかり掴み、軽々と持ち上げて抱きしめられたような安心感がそこにはあった。
「あ、あやまるの禁止……なんだけど」
戸惑いを隠すように、鈴奈がいう。なんだ、この妙な男らしさ。
「あぁ、そうだった。すまない。けど、君にそんな顔をさせるようじゃペア失格だな。今日の試合が終わったら、なにかスイーツでもご馳走するよ。もっとも、オレはこの辺りの店を良く知らないけどね」
聖の急なキザったらしいセリフに困惑する鈴奈。眉間に皺を寄せ、本気で「誰?」と、思ってしまう。鈴奈の知ってる聖は、年下で純情だが実はまぁまぁムッツリスケベな普通の後輩だ。素襖春菜の幼馴染だから、いつかに備えてあわよくば自分に惚れさせておいてやろうと、悪戯心半分でちょっかいをかけていた。彼はそれを真に受けまいと必死で目を逸らすものだから、ついつい面白くなって鈴奈も少し気に入っていた。それだけだ。
そんな彼が、試合の真っ最中に「君にそんな顔を」だの「終わったらスイーツでも」だのと口にしている。到底、鈴奈の知っている聖のキャラとは思えない。しかし、真面目な性格の彼のこと。自分のテンションが下がっているのを察して、一計を案じて落ち着かせるための演技をしてくれたのだろうと鈴奈は予想する。その気遣いをありがたく思う一方、聖のあまりの変貌ぶりに、落ち込みかけていた鈴奈は急に可笑しさがこみ上げてくる。くつくつと溢れる笑いを堪え、肩を震わせながらいった。
「ちょっ、どうした? 急にそのキャラ、似合わないってば。ププ、おっかし」
笑いが止まらないのは、聖の演技が随分と堂に入っているせいだ。普段の彼の態度から考えたら、演技するにしてもきっと恥ずかしさをにじませたに違いない。それがどうだ、この堂々たるイケメンオーラ。演技とは思えないぐらい板についている。いつもの彼とのギャップが大き過ぎて、鈴奈は笑いを堪えるのに必死だ。
そんな鈴奈の様子を見ながら、聖は「何かおかしいことでもあったか?」というように小首を傾げる。あまりに似合うその仕草がとどめとなり、鈴奈はとうとう大きな口をあけて笑い出す。二人のやり取りを見ていた観客たちが、何が起きたのかは分からないまでも何やら可笑しげな雰囲気につられ、あちこちで小さく笑いが起こり始めた。
「おっと、いけない。時間がない。スズ」
そういうと、聖は鈴奈の耳元で短く作戦を伝え、すぐポジションへ向かう。聖の口にした作戦はすぐ言葉で理解できたが、どうにも可笑しさがおさまらず、すぐには鈴奈の頭に染み込んでこない。しゃっくりを我慢するように笑いを堪えながら、鈴奈もポジションにつく。
辛うじてポイントが始まる前に、鈴奈は落ち着きを取り戻した。萎えかけた士気が回復し、どうにかポジティブな気持ちを手放さずに済んだ。それに鈴奈だけではなく、会場の雰囲気さえ、和んだように感じる。ささいなやり取りだったが、致命的な状況は回避できたような気がした。
鈴奈はスコアボードに目を向ける。ゲームカウントは0-3。
かなりの劣勢ではあるが、諦めるには、まだ早い。
――なにかスイーツでもご馳走しようか
聖のセリフを思い出し、クスっと笑みがこぼれる鈴奈。
(おごってもらおうじゃん? とびっきりの、アメリカンサイズのやつをさ)
★
ピストーラは、相手の日本ペアの空気が大きく変わったことにすぐ気が付いた。
(巨乳ちゃんの表情が明るくなったな。さっき何を話してたんだ?)
試合前、彼女は見せつけるようにペアの腕を組んで仲良しぷりをアピールしてきた。そのことから、愛らしい見た目に反して相手の女性は負けん気が強いとピストーラは判断した。もっとも、テニスで国の代表として活躍できるような選手は、男女関わらず大概が負けず嫌いで気が強いといえるだろう。
だが、負けず嫌いな性格をしている者ほど、追い詰められると脆い。女性は特に感情が高まると自身のコントロールを失いがちな傾向があるとピストーラは思っている。男性はいわゆるラケット
(うちのウナーゾも結構なじゃじゃ馬娘だからよおく分かるぜ。巨乳ちゃんのあの試合前の挑発的な態度、ありゃいうなれば余裕の無さの裏返しだ。だからこそ狙い通り進んでたはず。なんだが……)
鈴奈を狙い続け、まずは彼女の心を挫くことに手応えを感じたピストーラ。作戦は上手く進行し、第一セットを奪い、第二セットのゲームカウントはイタリアが先行の3-0となった。なおかつ次はイタリアのサービスゲーム。ウナーゾのサーブをしっかりキープすれば勝ちは目前。しかし、ここへ来て相手ペアの雰囲気が変わった。
(油断できねえ。まずは手堅くキープだ)
ささいな変化ではあったが、勝利を前にピストーラは今一度気を引き締め直す。ウナーゾが身長を生かした強力なサーブを放ち、ピストーラはそれに合わせてリターン側へプレッシャーをかける。自分の存在を意識させ、ペアにボールが集まるよう相手をコントロールする。ミックスにおけるピストーラの真骨頂は、
(いける)
手堅く優勢を維持しながら、チャンスの兆しを感じ取ったピストーラが次に備える。相手の日本ペアは、前衛である彼に捕まらないようとするあまり、次に打たざるを得ない場所の選択肢が狭まる。そこを敏感に先読みし、ピストーラが仕掛けた。タイミングは完璧――のはずだった。
「!?」
(チッ、さすがにバレバレだったかあ? 形は良かったんだが)
続くポイントでも、優勢を取っているはずのイタリアペアに対し、日本ペアがピストーラの逆を突く形でポイントを連取する。そしてそのことで、初めてピストーラは相手の狙いに思い至った。
(コイツら、オレにボールを集める気か)
★
鈴奈は不思議な感覚を感じていた。
(やりやすい。なにこれ)
聖が妙な演技で声をかけてきてから、日本ペアの、というより鈴奈の動きが格段に上がった。技術的にではなく、その場その場でどんなプレーをすべきかという判断や、ペアである聖との息がピタリと合うようになった。結果、相手にイニシアチブを取られるような場面であっても、冷静に対応してピンチを凌げるようになったのだ。
(自由度が上がった気がする。選択肢が増えたような感じ。いや、何より――)
「スズ、ナイスプレーだ」
爽やかな笑顔と共に、賞賛の言葉を口にする聖。近寄ってきた彼は、実に自然な仕草で彼女の背中を手のひらでポンと叩く。鈴奈はてっきり聖がそのまま自分を抱きすくめてくるのかと錯覚し、ガラにもなくドキリとする。力強い彼の手が、彼女の柔らかい身体にそっと触れてすぐに離れた。心のどこかで、肩透かしを食らったような気になる鈴奈。自ら手を差し伸べ、もう一度タッチを要求すると聖はすぐそれに応えてくれる。重ねた手の平に、強い熱を感じた。
「でしょ。ひじ、セイもナイス組立て」
集中力が鈴奈に戻り、聖の妙に堂々とした振る舞いが彼女を勇気づける。加えて、やけに安定感を増した聖のプレーは心地良いほどに頼もしいし、かける言葉は優しく鈴奈の肯定感を高めてくれた。まるで高級外車にでも乗っているような、揺るぎない安堵感。それでいて乙女心をわずかにくすぐるような、ちょっとしたボディタッチ。それら全てが鈴奈の気分を高揚させ、さきほど萎えかけた気持ちが嘘だったのではと思えるほど、万能感が満ち溢れていく。
「スズあってのことさ。よし、この調子だ。次は――」
聖の口にする作戦はさほど特殊なものではない。ただ、その内容が極めて細かく具体的で、しかも毎ポイントごとに必ず違うプレーを提案してきた。上手く行く場合もあれば失敗する場合もあったが、結果がどうであれ聖は必ずポジティブに解釈して、鈴奈に声をかけ続けてくれる。その度に二人の信頼感が深まり、それと呼応するかのように、二人のプレーは良くなっていった。
(なんなの急に。いや、なんかもうそれはいいや。今は集中)
ペアの唐突な豹変に疑問を覚える一方、しかしそれ以上に高まっていく万能感は鈴奈の集中力を加速させる。やるべきことへ意識をフォーカスさせ、鈴奈はまるで今から試合を開始するかのような真新しい気持ちでプレーに臨むことができた。
★
「Game & 2st set Japan,7-5. Final set, serve for Japan.」
主審が第二セット終了を告げる。ゲームカウント0-3から、日本ペアは一気に調子を取り戻した。序盤の形勢不利をものともせず、逆転してセットを奪い返す。試合はいよいよファイナルセットへと突入する。
「チッ」
ウナーゾはラケットを乱雑に放り、不機嫌さを隠そうともせずベンチに腰掛ける。誰の目から見ても、彼女のイライラが頂点に達しつつあるのは明白だった。ペアであるピストーラは、無言のまま甲斐甲斐しくウナーゾのラケットを拾い上げて傍に立て掛ける。気を遣って何も言わないというのもあるが、単純にこのタイミングではどんな言葉を声をかけても裏目になるだけだと彼は理解していた。それどころか、無言でいることすら彼女のイライラを刺激するだろうこともピストーラはよく分かっている。
「オイ、グリード。こりゃどういうワケだよ」
本人はイライラを隠してるつもりなのだろう。ウナーゾは世間話でも振るような言い方だが、声色には抑え切れない刺々しさがにじみ出ている。何を答えたところでどうにかなるとも思えず、ピストーラは曖昧に相槌を打つ。
「連中は明らかにてめぇを狙ってる。このあたしを差し置いて、だ。ミックスで女を放置して男を狙うなんざ、バカにしてるのか?」
「お前のプレーが良いから、避けてるんじゃあないのか」
「あぁそうだろうよ、そうだろうとも。強い方を避けて戦うのは基本中の基本だ。ってことは、だ。序盤に2つブレークして押し切れるはずが、捲られてセットを落としたのはてめえがマヌケだからってことになるな? 違うか?」
長い足を組んで、威圧するようにいうウナーゾ。
ペアにボールを集中して集められているなら、それをカバーするのがもう一人の役目、という正論をピストーラは口にしない。今この場において、常識的な正論ほど間違っているものはない。今やらなければならないのは、どうにかして怒り心頭になっている麗しきペアの機嫌をとることだ。具体的に言うならば、自分が彼女のサンドバックになる覚悟を持つこと。それが最善策だろう。
「そうだな、おめぇの言う通りだよ。やつらは途中からオレに狙いを定めやがった。それも集中的にではなく、ここぞってときに。お前を活かすためのゲームメイクをしているオレを狙うことで、こっちの攻撃を封じやがった。攻撃は最大の防御ってなもんさ」
「それが分かってんなら、なんでさっさと切り替えねえんだ?」
「努力はしてるさ。だが、連中どういうわけか、試合の最中にパフォーマンスが上がった。二人同時にだ。まるでジャパニーズコミックみてえによお。戦いの中で成長してやがる、ってなもんだ。驚きだぜ」
精一杯おどけてみせるが、そんなことでウナーゾの機嫌がよくなるはずもない。
(怒りの矛先をオレに向けておいて、相手に対する冷静さだけは保たせねえとな。今のこの状況でウナーゾが本格的に冷静さを失ったら、取り返しがつかなくなる)
ウナーゾは優れたプレイヤーだが、唯一メンタルコントロールに難点がある。それは彼女自身も自覚していることだが、十代の少女で自分の感情を完璧に制御できる者などそうはいない。彼女なりに努力はしていると評価しているピストーラだが、敗色濃厚な場面になるといまだに崩れがちだ。
(ティッキーに影響されてクールぶるのは良いんだが、コイツの場合、ただの瘦せ我慢なんだよなあ。だから自分でストレスを溜めた挙句に辛抱できなくなって爆発する。可愛げあるっちゃあるが、こういう場面ではマイナスだよなあ)
ふと、日本ペアの方に視線を向ける。向こうはこちらと違い、挽回の勢いの乗ってることもあってか雰囲気が良さそうだ。試合中だというのに笑顔を見せる余裕がある。しかし、その様子に対し、ピストーラは違和感を覚える。
(そうだ、何かヘンだ。特に、そう。男の方。アイツ、急に大人になったような感じがする。態度、仕草、表情。妙に女慣れしてるっつーか、最初と違って今はあいつがペアの主導権を握ってる。初めは明らかにあの巨乳ちゃんの尻に敷かれてるっつー感じだったのに。ブラフをかましてたようにも思えねえ)
原因やきっかけは分からない。だが、相手のペアは明らかにプレーの質が大幅に向上した。それもメンタル的な要素が大きく影響しているようにピストーラには思える。そして、日本ペアのなんだか楽しそうな雰囲気は、ピストーラ自身がミックスで求めている理想にも見えた。
(ったく、見せつけてくれるじゃあねえか。こっちはじゃじゃ馬娘のご機嫌取りを必死でやってるっつーのによお。クソ、なんかこっちまでイライラしてきたぜ……)
テニスをしてる最中にイライラすることは滅多にないピストーラだが、イタリアチームはこの大会での結果に強くこだわっている。プレッシャーのかかる場面であるうえに、優勢かと思われたら逆転され、仲間であるはずのペアはご機嫌ナナメ。いくらピストーラといえど、ストレスになりうる要素が満載だ。
現実から目を逸らすように日本ペアへ視線を向けると、相手の聖と目が合った。すると彼はペアである鈴奈に何かいって、今度は二人一緒にピストーラの方を見る。鈴奈はずいぶん機嫌が良さそうで、すっかり立ち直っている。聖がベンチの背もたれに腕を伸ばすと、まるで鈴奈の肩に手を回すような恰好となり、二人同時に笑みをみせた。
挑発だ、とピストーラはすぐに相手の意図を察し、一瞬だけ頭に血が昇る。
「おい、聞いてんのかグリード」
「うるッせえ! 少しだま……あ」
最悪のタイミングだった。
やらかした。これは致命的にやらかしたとグリードは一気に冷静さを取り戻す。だが、すでに手遅れであることは、みるみる顔色を変えるウナーゾの表情が証明していた。まるで不意にこぼしてしまったミルクがテーブルに広がり、止める間もなく買ったばかりのラグマットへ滴り落ちるのを眺めるしかないように、それはもうどうしようもなかった。
「あぁ、そうかよ」
低い声でそう言って、ウナーゾは立ち上がる。
ピストーラは先にコートへ向かう彼女の背中を黙って見送るより他なかった。
「やっべぇな……こりゃ」
今、じゃじゃ馬娘は完全にへそを曲げた。しかし、出走時刻はとうに過ぎ、ゲートは開かれてしまっている。手綱を握るのはピストーラだが、彼女が走り出してくれるかどうかは、神でさえ知ることのないように思われた。
続く
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