第2話「虚空の記憶(アカシック・レコード)」
家には自分以外誰もいないが、慎重に気配を殺しながら聖は自室に戻った。持ち出したラケットを恐る恐る壁に立て掛け、鍵代わりに鉄アレイをドアの前に置く。万が一、姉の瑠香が帰ってきても良いように、出来る限り安全策は打っておきたかった。
<ンだよ、ビビり過ぎだろ。別に取って食いやしねェよ>
ラケットは無遠慮に話しかけてくる。声は直接聞こえているような、頭の中で響いているような、なんとも形容し難い聞こえ方だ。
今から5年ほど前、聖はこのラケットに突然話しかけられた。その時の詳細については、不思議と記憶が曖昧で具体的な事を思い出すことが出来ない。しかし、酷く
それ以来、聖はテニスから逃げ出した。春菜と一緒に試合に出て、見知らぬ選手から逆恨みされ殴られた出来事から間もなくの事だった為、春菜も姉の瑠香も聖がテニスをしなくなったことについて何も言ったりはしなかった。そのせいで、聖と春菜の間に大きな溝が出来ることとなってしまった。
<おうコラ、黙りこくってンじゃねェぞ。こちとら何年も狭っ苦しい所にほかされてよォ、ヒマで死ぬとこだったぜ。ようやっと覚悟が決まったンならさっさとしろ。時間の無駄だ>
その言葉を聞いて、聖はラケットがこちらの事情について把握してるらしい事に気付く。
<意外か?そうでもねェだろ。神様は
神様。この得体の知れないラケットは、神様なのだろうか?
<あれこれ思い出そうとしたって無駄だぜ。オメェの記憶に干渉してるンだからな。ま、説明すンのもかったるいし、思い出させてやるついでに概要を
「え」
聖の返事を待たず、ラケットにあるグリーンのラインが輝きを放ち、周囲が光に包まれる。同時に、聖の頭の中に様々な情報が一気に
「思い出した……」
<そりゃ結構なコトで>
聖は、書き込まれた事柄について
夕暮れ時のコートで、誰かの忘れ物かと思った黒いラケットを拾った。
それを手にした時、突然目に見えない何かに話しかけられた。
強くなりたいと願った聖に、望む力を与えてやるとソイツが言った。
言う事を聞くと、自分でも驚くような強烈なサーブが打てた。
――そして
直後、筆舌に尽くし難い苦痛が聖を襲った。てっきり悪魔が宿った恐ろしい呪物を手にしたのだと勘違いし、心底震え上がった聖はそれ以来テニスから距離を置いてしまった。
<ま、お前がビビり散らかしたのはぶっちゃけオレの責任でもあるからな。今度はやさ~しくレクチャーしてやるから、心配すンな。つっても、もう既に必要な情報は
そう言うや否や、今度はラケットを中心に暗闇が広がる。いや、まるで突如としてブラックホールが現れ、空間ごと何もかもを吸い込むかのように、光を、音を、温度を、重力を、あらゆる全てをラケットが飲み込んでいく。
そして気が付くと、聖は
★
漆黒の暗闇に無数の宝石を散りばめたような、一面の星空。
大中小、様々な光を放つ星々が拡がっている。
聖は自分が立っているのか浮いているのかすら知覚出来ない。
「よぅ、このナリで会うのは初めてだな?」
不意に話しかけられ、声の方に振り向く。そこには、星の光のような美しい髪色をした少年と少女が並んでいた。2人とも夜空のように深く昏い色の服を身にまとい、顔立ちは人形のように整っている。年齢は小学生、あるいは中学生くらいだろうか。少年は短髪、少女は肩を越える長髪だ。少年はやや生意気そうな表情を浮かべ、少女は機械のように無表情のまま。聖は直感的に、少年の方があのラケットだと感じた。
「
「お、いいねェ、そうだ。オレがアド。こっちがリピカだ」
不敵な笑みを浮かべてアドが言う。
「必要な情報はさっきぶち込んでやったが、お前の理解力を確認しねェとな」
必要な情報。聖は光に包まれた時、過去の記憶を思い出すと同時に、別の情報も得ていた。まるで知っていたことを思い出したような感覚ではあるが、それが自分の既知の情報ではないという確信がある。かなりの情報量だったが、丸暗記をさせられたような感じはない。聖は一度目を閉じ頭の中を整理すると、昨日あった出来事を思い出すように話し始めた。
「まず、僕は
現在・過去・未来、遍く全ての記憶と事象を網羅した、宇宙記憶の概念。言うなれば、神様の図書館、宇宙のインターネットとも呼べるもの。本当にそれが存在し、人類にとってどういう役割を果たすか等は不明なのだが、今こうして聖はその一端に触れている以上、その存在は疑いようのない事実だった。
「それから君等は、その使いで、僕のサポートをしてくれるって事で良い?」
満足そうに頷き、先を促すアド。
「そして、
正直、ここは納得が行かない。そもそも、未来の可能性の撹拌とは何なのか?だが、異論を唱えた所でどうしようもない。詳しい事情は伏せられているし、情報の正誤を確認する術を聖は持たない。事情はともかく聖にとって重要なのはその先、与えられた役割を果たすことで聖が得られるメリット。すなわち。
「僕は
自分で口にしていても、実感はわかない。しかし言葉の意味は分かるし、それがどれほど絶大な力なのかは理解できる。既にプロ選手としてその才能を開花させ、トップを目指し歩み始めた春菜を追うには、それぐらいのロケットスタートが無ければとても追い付けない。それほど、テニスでプロを目指すのは険しい道のりだ。
そこまで話すと、一旦アドが話を要約した。
「つまり、オメェは未来の可能性の撹拌を担う為、アカレコ様に選ばれた。理由は教えてやれねェ。その代わり、オメェが自分の目的を叶えるのに必要な、悪魔に魂を売りでもしない限り手に入らない、絶対的な能力を貸してやる」
随分と雑に要約したものだが、そういう事になる。
聖はふと、子供の頃に読んだ本の一説を思い出した。
――本当に叶えたい夢がある時、宇宙はそれが叶う様に力を貸してくれる
確か、夢を旅した少年の物語だったと思う。まさか現実に、自分の身にこんな出来事が起こるなどとは夢にも思わなかったのだが。
「ンじゃ続いて、オメェに貸し与える能力の詳細について確認しようか」
星色の髪をした少年は、およそ神の使いとは思えぬ不敵な笑みを浮かべて、そう言った。
★
「さて、こっからはチュートリアルといこう。初回限定レア確定ガチャもあるから期待してくれよな。テニス無課金勢のオメェには過ぎたシロモノなんだぜ、全く。オイ、リピカ」
神の使いとは思えないような口ぶりでアドがそう言うと、リピカはピアノを弾くように両手を前に突き出した。薄ぼんやりとリピカの目に光が宿り、何もない空間に不可思議な紋様が浮かび上がり光を放った。
「これより、
アドとは異なり、リピカは感情の無いやけに無機質で機械的な声をしている。
「今のオメェがラケット握ってボールを打とうとしたって、空振りするかフレームにぶち当てて後ろに吹っ飛ばすのが関の山だ。ンなこた確認しなくたって分からァな。無駄な時間はねェから先に
「撹拌事象における
聖が言葉を挟む間もなく、一瞬で周りの風景が変わった。意識のピントが合うと、聖は膨大な書架が立ち並ぶ図書館のような場所にいた。ぎっしりと隙間無く本が敷き詰められた本棚が幾つもあり、見渡す限り本の海だ。周りを見渡すと、聖はそこにポツンとだけある四畳ほどのスペースを見つけた。そこにはアンティーク調の古めかしいテーブルと椅子が備え付けられている。
<本棚から適当に1冊選べ>
姿の見えないアドに促され、テーブルの横にある本棚を前にする。1冊の本の背表紙がぼんやりと光っているように見えたので、聖はその本を手に取って席に着いた。本は深いワインレッドの装丁で、映画で見た魔法使いが持っていた古ぼけた魔導書に似ている。表紙を開くと白紙だったページに、文字が浮かび上がってきた。
――Andre Kirk Agassi――
「アンドレ、キルク?……アガッシ?」
<知らねェのか、このバカ>
バカとはなんだとムっとしたが、直後、聖の脳裏に知らない誰かの記憶が洪水のように流れ込んできた。
史上唯一の
他の追随を許さぬ、雷光が如く打ち込む究極の
奇抜なファッションでテニス界の常識を覆した、
歴代最強と謳われた英雄を相手に、幾多の名勝負を繰り広げた
栄光に陰りが差して尚、どん底から不死鳥の如く甦った
その男の名は
――
★
「テニスやっててアガシ知らねェなんざァバチが当たるぜ。しっかし、最初にソイツを引き当てるたァな。オメェの才能もそこそこ
アドの声が聞こえて我に返ると、聖は再び先ほどまでいた宇宙にいる。
「さて、これで晴れてオメェはアンドレ・アガシの能力を
軽口でアドが茶化す。しかし、聖は浮かれたりしない。
その先については既に
聖の表情が固いのを見て取り、アドは満足そうに笑みを浮かべる。
「ご承知の通り、その能力
聖は知らずに唾を飲み込む。
「能力を代償無しで最大限解放出来るのは、
撹拌事象。
その言葉を聞けば嫌でも『未来の可能性の撹拌』という聖に課された役割と結びつく。恐らく、何かしらのタイミングやきっかけで撹拌事象が発生するのだろう。つまるところ、聖が代償無しに能力を使えるのは、
「ンで次、非撹拌事象。これはつまり撹拌事象以外のタイミング全てだ。この場合、能力の出力はオメェの身体の強度に合わせて
子供の頃に味わったあの苦痛。記憶は戻っているものの、不思議とどのぐらい辛かったのかという具体的な感覚までは思い出せない。ただひたすらに、それこそトラウマといって差し支えないほどの辛かった感情が苦い記憶となって渦を巻く。
「ま、そんなビクつかなくても、身体に悪影響は無ェよ。時間が経てば元通りさ。それにオメェがこの先、きっちり身体を鍛えてプロとしての肉体を完成させりゃあ、苦痛は軽減されていく。代償はつまり、能力の元になった選手がその力を得る為に費やした時間をすっ飛ばせる事への補填だ。努力の圧縮とでもいうか。そう思えば割り切って受け入れられるだろ?」
確かに、何の努力もせずいきなり一流選手の力をその身に宿せるのだ。その絶大なメリットを考えれば、ある程度の代償があるのは仕方がない。ただ、頭で分かっていても子供の頃に味わったあの恐怖は、そうそう理屈で搔き消せるものではない。聖は複雑な表情を浮かべつつ、曖昧に返事をする。
「で、最後だ。これもオマエにとっちゃメリットになる。テニスをするやつなら、
アドは得意げな笑みを浮かべて説明を続ける。
「舌噛みそうだから略すが、リザスを使うことでそれが撹拌事象であろうがそうじゃなかろうが、オメェには経験値が溜まる。この経験値はテニスに対する熟練度、もうちょい分かり易く言うと、素のオメェ自身の腕前がちょこっとずつ上がるってこった。コイツはまァ、言うなればアカレコ様に協力する報酬みてェなモンだと思え」
「リザスが報酬、じゃないんだ?」
「リザスは手段だからな。オメェに仕事させる為の仕事道具さ。
我ながら上手い例えだ、などと自画自賛しているアド。
聖はここまでの説明を、ひとしきり頭の中で整理してみる。
その手段として
それによって発生するメリットとデメリットが
撹拌事象は
「大体いいか? リザスの効果も
勝手に書き込まれたとはいえ、情報量が多くすぐに質問が思いつかない。全体像を把握するので精一杯だ。しかし、状況的に彼らが何かしら聖を陥れようとするなら、こんな回りくどい手段を取るとも思えない。このアドというヤツも口は悪いが、終始態度が一貫しているからか、ある種の誠実さというか、信用してもいいかなと思える雰囲気がある。悩んだところで自分に選択肢は無い。例えちょっとズルイことだとしても、聖は春菜を1人にしたくない。
「大丈夫」
力強くそう言い切る聖。
聖の瞳を見て、覚悟を読み取ったアドの顔から笑みが消える。
「
アドが謳い上げるように言い、リピカが続ける。
「
周囲に見えていた星の光が弱まり、闇が深まっていく。思わず声を出したが、自分の声が聞こえない。出せているはずなのに何一つ聞こえて来ない。静寂の耳鳴りさえも感じない。すると不意に、聖の内側で様々な記憶や映像が渦を巻くように目まぐるしく明滅を始めた。
音 夏 風 匂い 母 光 水 父 温度 味 姉 怖い 砂 学校 楽しい ラケット 痛い 涙 花火 くすぐったい 闇 波 血 ぬくもり 悔しい 独り
ハル姉
――じゃ、唱えろ――セイが私のペアね――とんでもない才能だよ――教えなくても分かる――あの子じゃ不釣り合いだ――微笑ましいね――ペットのクセに――ダメ、セイと一緒がいい――強くなりてェか?――誰でも知ってることだからよ――さっきのもう一度言って――
思い出せ――
全てはそこに
★
気が付くと、聖は部屋に一人で座っていた。壁には立てかけたラケットが静かに鎮座している。夢、であるはずがない。だが、眠りから覚めたようなぼんやりとした感覚があってイマイチ現実感が湧いてこない。
「なぁ」
確かめるように、聖はラケットに声を掛けてみる。だが、不思議なことにラケットはうんともすんとも言わない。おかしいなと思いラケットを掴もうとした瞬間、声が聞こえた。
<あ、そうそう、ちゃんとお前のプライバシーは守られてっから。安心しろ>
さっきまでと調子の変わらないアドの声だ。やはり夢などではない。だが、プライバシー?
<安心して
何のことを言ってるのかしばらく理解出来なかった聖だが、言わんとしていることをの意味を察した時、ラケットを叩き折ってやろうかと思った。湧き上がる破壊衝動を辛うじて抑えながら、ラケットを布ケースへ入れてクローゼットに放り込み、その日は床に就いた。
★
久しぶりに人間と会話をしたせいか、はしゃぎ過ぎた自覚はある。
あの恐がりのガキが成長して自分の意志で扉を開こうとした事に対し、
思っていた以上に驚きと喜びが大きかったのかもしれない。
或いはそれとも、逆だったのかもしれない。
未来の可能性の撹拌。
これが目的であることに何の嘘もない。
だがそれは、あくまで表の目的だ。
他にもう一つ、いうなれば裏の目的がある。
しかしそれはアイツに課すものではない。
それは他ならぬこのオレに課された宿業だ。
例えるなら、アイツが種を蒔き可能性を育てる役割ならば、
オレがするのは草むしり、いやむしろ、害虫駆除だろう。
輝かしく明るい、幸福な世界。暗く荒んだ、陰惨な世界。
喜びと悲しみ。栄光と挫折。希望と絶望。生と死。
光と闇は表裏一体。どこにいようと、それは変わらぬ真理。
神はサイコロを振らない。だが、運命のコインは投げられた。
全ては既に、
続く
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