第3話 「アリアミス・テニス・センター①」

 朝六時

 陽が昇り始めた春の早朝、雪咲ゆきざきみやびは目を覚ました。昔から目覚ましを使わなくても決めた時間に起きるのが得意で、合宿などに行った際は皆の目覚まし代わりの役をこなすこともある。ベッドから起きると、それを合図にボーダーコリーのパスタも起きだして、ミヤビの足元にじゃれ付いてきた。


「おはよ、パスタ」


 雅はパスタを撫でまわしてから洗面所に向かい、身嗜みを整える。顔を洗い、歯を磨き、縛っていた髪を下ろして軽くブラシで梳く。その間パスタが「ごはんは? 散歩は?」と催促でもするように、ふわふわの毛を雅の足にこすりつけながら、忙しなくぐるぐると回っている。


 運動し易い服装に着替えると、雅はパスタと一緒に外へ出た。冷たく澄んだ空気に桜の香りが仄かに漂う、清々しい朝。肌寒さを頬で感じながらも、軽快な足取りで階段を下りていく。駅に向かうサラリーマン、ランニングをしている壮年の男性、仲良くおしゃべりしながらウォーキングする二人組の女性、新聞配達しているバイクの男。その様子を横目にしながら、今日も新しい一日が始まったと実感した。


 雅は早歩きと変わらない速度で軽くジョギングする。パスタもそれに倣って並走し、嬉しそうにふわふわの毛をなびかせる。身体の中に残っていた眠気が肺を通じて冷たく新鮮な空気と入れ替わっていく。五分ほど道なりに進むと、テニスコートが見えてきた。コートでは、まだ明るさも充分ではないというのに、それでも四、五十代ぐらいの男性たちが練習に励んでいた。ひと足先にパスタが駆けて行き、コートの横で元気よく吠えた。気付いた男性がラリーを止めてパスタの元へ歩み寄る。雅もそれについていく。


「おはようございます」

「おはよう、雅ちゃん」

 パスタを撫でまわしながら、男性が挨拶を返す。

 ラリーの相手をしていた人物も、手を振ってくれる。

「まだ、ちょっと暗くないですか?」

「なぁに、見える見える。これぐらいなんてことないさ」

「この前、わざわざ応援に来てくださってありがとうございました」

「いや〜、応援しに行った甲斐があったよ。さすがATCアリテニ女子ナンバーワン!」

 改めて褒められ、照れ笑いを浮かべる雅。

 こういう応援は選手冥利につきるな、と内心嬉しく思う。

「今日はお休みかい?」

「はい、お昼まで『ジュ・ド・ポーム』で手伝いですけど」

「練習終わったら朝飯食べに行くよ」

「お待ちしてま~す」


 テニスコートを通り抜けて行くと早朝の冷たい空気に乗って珈琲の芳ばしい香りが漂ってくる。緩やかな坂道をのぼっていくと、雅が自分の選手活動の合間に手伝いをしているカフェ『ジュ・ド・ポーム』が見えてきた。ログハウス風の外観をした建物で、どこか暖かみのある雰囲気を持っている。裏口から入ると、スタッフの女性が食材の入ったダンボールを忙しそうにチェックしているところだった。


「おはよう雅、着替えたら厨房の方お願い」

「おはようございます。分かりました。パスタ、上でご飯もらっといで」

 リードを外してやると、パスタは雅に挨拶するように彼女の顔をひと舐めし、通路を駆けて行った。雅は更衣室で手早く着替えを済ませると、そのまますぐ厨房へ入る。


「おはようございまーす」

 厨房では既に男性スタッフ達が忙しなくモーニングの準備に取り掛かっている。返事こそしてくれるが振り向くことはせず、各々の作業に集中している。雅は特に気を留めるでもなく周りを見渡し、手を洗いながら後回しにされている作業が無いか様子を伺う。すると近くでタイマーが鳴った。


「雅、タマゴ!」

「はーい」

 説明を聞かずとも、雅は迷わず流し台に置かれた寸胴の前に来た。中には氷と一緒に冷やされている無数の卵がある。慎重に氷水を半分くらい捨て、中から卵を取り出す。卵を握ると中の方はじんわりと温かい。念のため一つ取り出して、殻を剥く。つるんとした白身が顔を出したので、そのままパクっとかじる。ほどよい固さになった色鮮やかな黄身が顔を覗かせた。


「うん、おいし」

 残りを口の中に放り込み、モグモグと咀嚼しながら雅は手慣れた手つきでゆで卵の殻を剥いていく。温度管理をきちんとしているお陰で簡単に殻が剥ける。しばらく集中して卵の殻を剥いていると、身体の大きな男性スタッフがサンドイッチを乗せたステンレス皿を横に置いた。


「朝飯」

「やった。サンキュです」

「代わる。スープの火入れ頼む」

「しょーちです」

 冗談めかして敬礼のポーズをしてから、雅は男性スタッフと交代した。昨晩仕込んでおいたコーンスープを焦げ付かないようゆっくりかき混ぜながら温めるのだ。その間、雅は片手間に貰ったサンドイッチを口に運ぶ。


「はいよ、関東ナンバーワン女子高生。砂糖アリアリ特製コーヒーで御座います」

 細身の男性スタッフが、悪戯っぽい笑みを浮かべながら珈琲の入ったカップを差し出してくれる。厨房の中にあっても、香ばしい珈琲の香りが雅の鼻をくすぐった。


「あれ珍しい~? ありがとうございます」


 雅が手伝いに来るとき、大抵いつも彼が珈琲を淹れてくれるのだが、雅は敢えて冗談交じりにそう言った。細身の男性スタッフは自身もカップを片手に珈琲を啜っている。


「聞いたぜ、ご活躍だったらしいじゃん。1セットダウンからの逆転勝利」

「ちょ~キツかったですよ、2セット目も3-5、タイブレだったし」

「やるねぇ、さすが逆境に強い女」

「ンまぁ~ねっ」

 自信ありげに澄ましてみせ、すぐに笑い合う。

「次の試合は?」

「まず団体戦ですね。GWの終わりに。その後は結構あちこち色々と」

「ミックスは? 蓮司れんじと組んでるんだろ?」

「団体でその予定だったんですけど、シングルスが良いって駄々捏ねてます」

「雅ちゃんのこと大好きなクセに。カッコイイとこ見せてぇんだろうな」

「ホント、最近ナマイキですよ。ちょっと背が伸びたからって」

 話に花を咲かせていると、ホールの方から女性スタッフの声が聞こえた。

「ちょっとー、オープン十分前だよー! トイレ掃除やったー?!」

「やっべ」


 男性スタッフは慌ててトイレ掃除に向かった。雅はクスクスと笑って、火を止める。レードルでコーンスープを掬い、小指の先にちょんとつけて舐めてみる。温度も味も丁度いい。

「カンペキ」


 程なくして、カフェ『ジュ・ド・ポーム』は朝の営業を開始した。



 ここ千葉県木代きしろ市は、日本国内唯一の『スポーツ研究都市』に指定されている。過去行われた東京オリンピックで、メダルの総数こそ及ばなかったものの、日本は初めて金メダルの獲得枚数でアメリカを抜き1位となった。それ以降、日本ではスポーツ研究に力を入れる風潮が加速し、都内からほど近いここ木代市はその旗艦となる『スポーツ研究都市』の役割を担うようになっていった。


 カフェ『ジュ・ド・ポーム』は、そんな木代市内に設立された『アリアミス・テニス・センター(通称:アリテニ)』内に存在する。広大な敷地面積を有する『アリアミス・テニス・センター』はいわゆるスポーツ施設の枠を遥かに超え、小さな都市として機能している。テニスコートは当然のこと、その他のスポーツ施設、来賓客の宿泊施設、従業員向けの寮、個人住宅、関連協力企業の社屋や倉庫、果ては飲食店までが揃っている。これらはつまるところ、国内にいる有望なスポーツ選手たちとその家族がそのままここを拠点と出来るように考えられて設計されていた。


『ジュ・ド・ポーム』はその施設群の中の一つであり、元テニス選手や関係者のセカンドキャリアの受け皿としての役割も果たしている。また、雅のような現役選手が自ら活動資金を稼ぐ為のアルバイト先として、或いはテニス以外の社会性や職業訓練、人格育成の為の場としても活用されていた。



 十一時を過ぎると、モーニングの混雑もひと段落した。雅は食器の片付けや洗い物をテキパキとこなしていく。一番忙しいランチタイム前にシフトは終わる予定だが、今日はこれといった予定がないので、ついでに手伝っていこうかなとぼんやり考えていた。すると、入り口に取り付けられたベルが綺麗な音を奏でて、客の来店を報せた。


「いらっしゃいませ!」

 反射的にハキハキした気持ちのいい呼びかけをする雅。だが、視線の先に同じサングラスをかけた四人の男が続々と入ってくるのを見て、営業スマイルを浮かべていた雅の表情が引きつって固まった。


「おうネーちゃん、四人じゃ! 一番いい席頼むでぇ!」

 サングラスをかけた中で一番身体の細いアゴのしゃくれた男が、不慣れな関西弁で偉そうに言う。雅と同じ強化選手クラスに在籍している君塚政基きみづかまさきだ。無表情、というかウンザリした表情を浮かべて、雅は何も言わず顎をしゃくって着席を促す。


「ほな邪魔するでェ~!」

「ささ、アニキ、どうぞこちらへ!」

「ほ~、ええ店じゃのぉ」

「ここらでは一番の店でっせ!べっぴんもおりますさかいに!」


 バカバカしい茶番を繰り広げながらゾロゾロとソファ席に向かう四人組。一番大柄でお相撲さんのような雰囲気をしているのがマサキと同じ強化クラスの高鬼亮たかぎりょう。その風貌からはデカリョウと呼ばれている。続いてそのデカリョウをスケールダウンさせたような、フワフワした天パで小太りなのが沼沖文学ぬまおきぶんがくだ。強化クラス所属ではないが、マサキとデカリョウとは学校が同じで常につるんでいる。そして”アニキ”と呼ばれ偉そうな態度(とはいえ演技なのは明白だが)でオラついているのが、元アリテニOBの素ノ山田守治すのやまださねはるだ。


「おぉ、えらいベッピンな店員さんやなぁ! ねーちゃんこっちきて座りィや!」

 ヘタクソな関西弁で雅を呼ぶサネハル。

 雅は一応お冷を四つ用意して席に向かった。


「朝っぱらからなに? 三バカ+αでダブルデート?」

 冷やかな視線を四人に向けるが、四人とも同じサングラスをかけて無表情かつ無言のままじっと雅に視線を向けている。質問に答えず、沈黙を守っている彼らのそのあまりにバカバカしい絵面と様子に、根負けした雅は思わず吹き出してしまった。


「もう分かったよ! はいはい面白いです、降参よこーさん! 意味わかんない!」

「はい、勝ち~」

「やっぱサネハル先輩の言った通りッスね」

「シュルレアリスムを笑いに取り込む発想、やはり天才か」

「次の団体戦、全員これつけて挑みましょう」


 アリテニジュニア勢の中でも飛び抜けてお調子者バカなのがこの3名プラス1名だ。サネハルは既に卒業済みなのだが、大学でもテニスを続けている為しょっちゅうアリテニへ来ては気の合う連中を誘って練習したり、一般の大会に出場している。テニス選手としてというよりも、現在は趣味でテニスを楽しんでいる。バカな言動が目立つものの、大半が周りを和ませるためにわざとピエロ役を買って出ている面倒見の良い先輩なのだが、褒めるとすぐ調子に乗るので結局バカであるという周囲の評価に変わりはない。


「で、ご注文は?」

 おそらく特に何の用もなくやってきて、店に雅がいるからおちょくってやろうとでもなったに違いない。こいつらは何かあるとすぐ「面白い方」に持っていこうとする。サネハルは昔から「面白きことは良き事なり!」というポリシーで生きている。それについては概ね賛成している雅だが、もう少し周りの評価というものを意識して貰いたい。やや日本人離れした顔つきのサネハルは、決して見た目は悪くないのだから年相応に落ち着いたらモテると思う。しかしその行動の全てが片っ端から可能性を粉砕している。


「デラックス」

「モーニン」

「セット」

「四つ」

『プリーズ』

 コイツ等のやる事にいちいち構っていたらこっちまでバカになる。そう思いながら伝票にオーダーを書き込んだ雅は、ついでに別料金のデザートを四つ書き足してやった。


「オーダー、デラックス四,デザート四です~」

 なんだかどっと疲れを感じながらオーダーを通す雅。その様子を最初から見ていた女性スタッフは苦笑いだ。


「モテモテじゃ~ん」

「うれし~。最高~」


 セリフとは真逆の表情のまま呟く雅。ランチタイムの手伝いをしようというやる気はすっかり消え失せてしまうのであった。

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