Head or Tail ~Akashic Tennis Players~

志々尾美里

第1話「テニスを辞めた理由」

 トスが上がる。

 放り上げられたボールが一瞬空で止まり、逆再生するように今度は落下していく。その時にはもう、身体の反応は始まっていた。意図しているのかどうかすら知覚できないのに、そこにはハッキリとした意志が感じられる。激しい打球音と共に鋭く放たれたボールは、サービスボックスのコーナーへ突き刺さる。そしてバウンドが最高点に達するより早く、ひじりのラケットがボールを捉え叩き返した。サーブのモーションを終えて次に備えようとしていた相手は反応すら出来ない。


<これが元世界ナンバー1、且つ、史上最高の『瞬跳の迎撃手ライジングリターナー』だ。そして――>


 聖は自分の打ったラケットをぼんやり見つめている。


<現在・過去・未来、遍く全ての事象と記憶を網羅した『虚空の記憶アカシックレコード』の加護を得た、オメェの力だ>



 駅のホームに着くと、素襖春菜すおうはるなはアイスココアを買ってベンチに腰掛けた。4月上旬とはいえ、夕方ともなれば冷込みは冬のそれと大差無い。それでも、大荷物を背負ってここまで来ていたから、少し汗ばんだ身体にアイスココアの冷たい甘さが丁度良かった。


 ふぅ、と一息つく。吐き出したのは、心に残った幽かな執着の欠片。


――これで、良かったんだ。


 自分に言い聞かせるように、春菜は心の中でつぶやく。

 自然と、幼い頃のひじりの顔を思い浮かべていた。



 3日前、春菜は晴れてプロテニス選手としてデビューした。プロライセンス制度が導入されて以降、16歳での合格は最年少記録となり、メディアは大喜びでそのニュースを喧伝した。


 幼少期に家族の気まぐれでテニスを始めた春菜は、すぐにその才覚を見出される事となった。彼女の才能を初めに見抜いたコーチは「この子はテニス界の宝となる」と両親に告げ、交流の深かった優秀なフランス人のコーチを充てがった。


 幼い春菜はまだ何が起きているのか分からず、知らぬ間に外国人の知り合いが出来たことが単純に嬉しくて思うがままにテニスを楽しんだ。優秀なコーチに導かれ、春菜の持つ天賦の才は慎重に育てられた。


 奇しくも、21世紀に入ってから行われた2度目の東京五輪オリンピックで日本勢が飛躍的な活躍を見せた事が追い風となり、日本国内では政府主導でスポーツ研究に力を注ぐ向きが支持された。才能ある子供たちへの関心は特に高く、春菜も世間の耳目を集める天才少女の1人だった。


 将来はテニス選手になりたい?

 お父さんのような陸上のメダリストを目指す気は?

 お母さんのような一流のバイオリニストはどうだろう?

 この子なら、きっとグランドスラムで優勝するに違いない


 注目が集まるに伴い、周囲の大人たちは好き勝手に春菜の将来を語り、決めつけた。彼らに悪意が無いことを幼いながらにも感じ取っていた春菜だったが、自身の気持ちを他所に加熱し膨張していく周囲の期待に戸惑いを覚えていた。或いはこの時すでに、春菜の持つ驚異的な才能が彼女の中に小さな孤独の種を植え付けていたのかもしれない。


 若槻わかつき一家が引っ越してきたのはそんな頃だった。

 1つ年下の少年、ひじりは、歳の離れた姉の瑠香るかに意地悪されてはしょっちゅう泣いている子だった。弱虫だけど優しくて、時々男らしさも見せる聖は意地悪な実の姉よりも春菜によく懐いた。姉の瑠香も本当は根の優しいしっかりもので、春菜のことを本当の妹のように可愛がってくれた。


 聖の両親と春菜の両親が友人同士だったこともあり、家を空けがちな春菜の両親に代わって春菜はしょっちゅう若槻一家と共に過ごした。底抜けに優しい隣人一家の存在は、春菜の中で芽吹きかけていた孤独の芽を摘んでくれたように思われた。


 春菜が聖たちと出会ってから少し経った頃、日本のテニス界に衝撃が走る。日本人の男女ペアが、最も格式高いとされるグランドスラムのウインブルドン大会で優勝を飾ったのだ。加えて、学生時代からの恋人同士だった2人は優勝セレモニーでプロポーズし、そのセンセーショナルな出来事が話題となり、日本のみならず世界中でテニスブームが巻き起こった。


 その試合をコーチの招待で現地観戦していた春菜は、帰国するなり聖をペアに指名した。選ばれた聖は最初こそ喜んでテニスを始めたものの、次第にその関係には暗雲が立ち込めることとなる。原因は、周囲の大人たちが春菜にかける期待と、何よりも、春菜自身が持つ圧倒的な才能だった。


 比較的聞き分けの良い子として見られていた春菜だったが、こと聖とペアを組むのだけは頑なに譲らなかった。だが、それが原因でトラブルに巻き込まれ、2人はペアを解消し、程なくして聖はテニスを辞めてしまった。



 昔のことを思い出しながら、春菜は足元のラケットバックをつま先で小突く。今でも、昨日のことのように思い出せる。聖と組んで出たジュニアの試合で、勝ち進めば対戦する予定だったらしい選手が、あっさりと一回戦負けした春菜たちを逆恨みして聖を殴りつけた。


――いい気になるな、素襖のペットのくせに

――強いからって恋人ごっこしてんじゃねぇよ


 喧嘩はすぐ止められた。迎えに来た瑠香は、慰めるどころか2人を叱責した。


――自覚が足りないんだよ、2人とも

――力を持つ者は、それに相応しい振る舞いをしなきゃならないんだ


 瑠香の言っていることが正しいと、頭では理解出来ていた。

 それでも、春菜にとって聖はテニスと同じぐらい大切な人だったから、自分がペアを組むなら聖以外、春菜には考えられなかった。しかし、自分が聖に拘るせいで、聖に惨めな思いをさせていたことに、春菜はこの時まで気付けなかった。


――ハル姉、いつも教えてくれるのに

――僕のせいで、いつも負けちゃうんだ


 自分が聖の重荷になっていることを思い知った春菜は、これ以上聖を苦しめたくなかったから、聖がほどなくしてテニスから離れてしまっても自分からは何も言うことが出来なかった。


 出ていない涙を振り切るように、何度か目をしばたかせる。

 情けない。もう、とっくの昔に覚悟は決めたと言うのに。


 何も聖とは今生の別れという訳ではない。年に数度は帰国する。ちょっと距離が離れるだけ。あの日以来、聖とはぎこちない状況が続いているけど、2人がもっと大人になれば「そんなこともあったね」と笑い飛ばせる日がきっと来る。時間が経てば、きっと。


 でもきっと、そうはならない・・・・・・・


 時間が解決してくれると必死に自分を言い聞かせて今日まで来たけど、そんな自分を嘲笑うかのように、悪い予感は春菜の中で渦巻いている。助けを求めるように、空を見上げたその時だった。


 自転車の甲高いブレーキ音が聞こえ、春菜は音のした方に視線を向ける。走っていた自転車を急停車させながら、勢いもそのままに飛び降りて階段を駆け上がっていく見慣れた後ろ姿が目に入る。


 聖だ。


 春菜は自分が今日出発であることは聖に話していない。バレた、というバツの悪さと同時に、期待で胸が膨らむのを感じる。この期に及んで、私は何を期待しているんだろう?


「ハル!」


 ホームに辿り着いた聖が、春菜を見つけて叫ぶ。


「呼び捨て? 聖、随分と偉くなったもんだね」


 今の自分の心のうちを悟られまいと、春菜は心を閉ざす。聖は肩で息をして額に汗をかいている。家から全速力で飛ばしてきたのだろう、必死に。自分に会うために。


「誰に聞いたの?」

「姉ちゃん。なんで教えてくれなかったの?」

「別に? ただ、言い出しにくかっただけ」


 聖の問い掛けは、春菜の閉ざした心の扉をノックする。決して本音を言うまいと、部屋の隅でうずくまって耳を塞ぐように視線を逸らす。自分の本音を聖にぶつけたところで、困らせるだけだ。


「……怒ってる?」

「誰が? 何について?」


 自分の冷たい物言いに戸惑う聖を見て、胸が痛む。馬鹿馬鹿しい、どうして私は、今になって意地を張っているんだろう。今度は自分の中の頑固さに腹が立って、負けるものかと大きく息を吐く。ちゃんと聖と向き合わなければ。そして、できるだけ心を落ち着かせて言った。


「怒ってない、怒ってないよ。セイを嫌いになったわけでもない」


 なるべく素直にと思ったら、自然と子供の頃の呼び方を口にしていた。


「覚えてる? 私、ウインブルドンで試合を観たの」


 コーチに招待され訪れた、テニスの聖地。

 日本人で初めて快挙を成し遂げた2人は、そこで永遠の愛を誓った。


「あの2人を見てね、思ったの。私もいつか、大切な人と一緒に、あのコートに立ちたいなって」


 気付けば、春菜の瞳から大粒の涙が零れる。

 言葉よりも先に、気持ちなみだが溢れてしまう。

 思い出したくない場面が、春菜の中で走馬灯のように駆け巡る。


「私がテニスしてるとね、色んな人が喜んでくれた。だから期待に応えようって頑張ってきたつもり。私のせいでプロを諦めた子がいても、その子の分まで自分が頑張ろうって、無理やり思ったりもして。でも」


 泣き崩れそうになる春菜を、そっと聖が抱きすくめる。

 春菜は甘えるように身を任せ、聖の胸に顔を埋めた。


「やれることを精一杯やろうって思った。でも、だからせめて、自分の大切な人とテニスをするのは認めて欲しかった」


 現在、春菜はその才能を完全に開花させ、日本では唯一無二の存在となっている。それは決して大袈裟な表現ではない。春菜は2年前、中学2年生で当時の日本男子No.1を倒す・・・・・・・・・までに成長していた。


 スポーツの世界において、女性が男性を圧倒する・・・・・・・・・・ことなど有り得ない・・・・・・・・・


 その常識さえ覆す、底知れぬ才能を持つ春菜。片や未来を嘱望される天才少女、片やどこにでもいる普通の少年。2人の仲を祝福する者は、誰一人としていなかった。


「なんで、なんでテニスやめちゃったの? 私のせい? テニス嫌いになった?」


 子供が駄々をこねる様に、春菜は一番聞きたかったことを口にした。一番聞きたくて、でも一番聞きたくない、聖がテニスをやめたその理由。聞かなくても、その答えは分かりきっている。自分が聖とペアを組むことに固執するあまり、周囲から反感を買い、挙句の果てに見知らぬ選手から逆恨みされて聖は殴られた。ただの子供じみた自分勝手な憧れに聖を巻き込んで、そのせいで聖を傷付けた。


――そうだ、お前のせいでテニスが嫌いになったんだ


 そう言われるのが何よりも恐ろしくて、長い間ずっと聖と正面から向き合うことができず、今日まで来てしまった。許しを乞うように春菜は聖の瞳を見る。自分のこんな姿を見せたら、きっと聖は戸惑ってしまう。困らせるだけで何にもならない。分かっているのに、こんな風にしか振る舞えない自分が嫌だった。


「違う」

 その言葉に虚を突かれ、春菜は思わず目を見開く。

 聖の瞳は、春菜が見たことの無い力強さで満ちていた。

「テニスを辞めたのはハル姉のせいじゃない。それは違う」

 自分がこんな醜態を晒しているから、気を遣ってそう言ってくれていると思った春菜だったが、聖のその表情と声色はその考えが間違いであることを告げている。

「じゃあ、どうして?」

 涙に濡れた瞳で春菜は聖を見つめる。すると聖は困ったような顔をして言った。

「劣等感が無かったといえば嘘になる。でも、それが理由じゃない。本当の理由については、上手く説明できなくて……。でもハル姉のせいじゃないっていうのは誓って嘘じゃない。それに、テニスを嫌いになったわけでもない」


 聖は春菜の流した涙を優しく指で拭う。この子は、いつの間にこんな頼もしくなったんだろう。


「辞めた理由は、いつか改めて言うよ。今日はどうしても伝えたいことがあって」

 聖は優しく春菜の手を握る。少し間を置いて、優しく言った。

「プロになっても、ミックスには出ないで欲しい」

 その言葉を聞いて、春菜はきょとんとしてしまう。

「どういう……こと?」

 そして聖の瞳に、決意の火が灯るのを春菜は見た。

「ハル姉のペアには、僕がなる」


 その言葉に、息を呑む。泣き虫で、優しくて、強がりなんか言えないと思っていた聖。その聖が、春菜に力強く告げる。


「今まで、一人にさせてごめん。今さらかもしれないけど、決心がついた。僕も、大切な人とテニスがしたい。ハル姉と一緒に。だから、僕もプロになる。プロになって、ハル姉のこと迎えに行く。誰も文句言えないぐらい強くなって。今度こそ」


 聖は一度言葉を切って、真っ直ぐ春菜を見つめて宣言する。


「オレが、春菜に相応しいペアになる」


 春菜の頭の中で、色々な言葉が駆け巡る。だがそのどれ一つとして言葉にはならず、気が付くと春菜は聖にしがみ付いて泣いた。子供みたいに泣きじゃくって、今までわだかまっていた気持ちを涙と共に出し尽くした。しばらくすると、嘘みたいに気持ちが楽になった。


 アナウンスが流れると程なくして電車が到着した。春菜の表情にもう迷いはなかった。私は、自分のやるべきことをやって、あとは待てばいい。聖は必ず来る。知らぬ間に頼もしくなった大切な人は、幼い頃の面影の残る笑顔で見送ろうとする。そんな顔を見てふと、久しぶりにいたずら心が顔を出した。


「ねぇさっきの、もう一回、言って」

「さっきの?」

「私のペアには、誰がなってくれるの?」

「ああ」

 聖は小さく咳払いして、言った。

「ハル姉のペアには、僕がなるよ」

 小首を傾げてセリフを吟味する春菜。そして意地悪そうな笑みを浮かべる。

「ちょっと違うけど……ま、そっちの方がセイらしくていいか」

 何か間違えたっけ、と聖が問う前に、春菜は続けた。

「あんまり待たせると、浮気するからね。早く迎えに来てよ」

「だ、大丈夫だよ。身体も陸上部で鍛えたし」

「そう? じゃあ、私がウインブルドンで優勝する前にお願いね」

「え、それだと、僕がハル姉を応援出来ないじゃん。負けろって思って良いの?」

「ん? 負けて欲しいの?」

 聞き返され、聖はずるいと思った。

「そんなわけないだろ。ちゃんと応援する」

 てっきり、そんなのずるいよと泣き言を言うかと思ったのに。

 春菜はにっこり笑って「よろしい」と言った。


 春菜を乗せた電車がホームを去ったあとも、聖はホームに居た。これでもう、引き返すことは出来ない。全身全霊をかけて、春菜を迎えに行く。凡人の自分が、テニス界の宝と呼ばれる素襖春菜のペアに相応しい実力を身に付ける。それがもし自分以外の誰かが言ったのであれば、鼻で笑うだろう。しかし、目指すのは他の誰でもない、自分なのだ。あの時・・・は恐ろしくて逃げてしまった。


 今度は逃げない。逃げるわけにはいかない。


「待ってろよ」


 呟いて、聖は駆け出した。



 聖が自宅に着く頃には、すっかり陽は落ちていた。なごり雪のような冬の冷さが夕闇と一緒に外の空気を凍てつかせていく。聖は家の裏手に回り小さな倉庫に向かう。5年前のあの日から、聖は親が何と言おうとここへは頑なに近寄らなかった。暗闇の中、その倉庫は昇ったばかりの月明かりに照らされて不気味に輝いてみえる。


 聖がテニスを辞めてしまった理由は2つある。

 1つは、春菜との実力差。そのせいで春菜に迷惑をかけたし、トラブルになった。言い換えれば、聖が弱かったせいだ。そしてもう一つが、この倉庫の中にあった・・・・・・・・・・


 苦い記憶を思い出しながら、鍵を開けて扉に手をかける。滅多に開けられることのないその扉はまるで蔑ろにされている事を抗議するかのように、不快な音を立ててゆっくり開く。入り込んだ幽かな月明かりが、まるで導くように目的のモノを照らし出す。


 恐る恐る手を伸ばし、縛られた紐を解く。まるで封印された呪いの剣でも取り出すような恐々とした手つきで、聖はそのラケットを袋から取り出した。真っ黒なフレームに、エメラルドグリーンのラインが入った簡素なデザイン。あるはずのメーカーロゴは無く、およそ特徴らしいものはライン以外にはない。ストリングスが張られていない為、底を切り抜いたフライパンのようにも見える。気のせいか、エメラルドグリーンのラインが光って見えた。


<久しぶりだな>


 突然、聖に向かって声が掛けられる。この場には、聖以外、誰もいない・・・・・。もしかしたら悪い夢だったのではという聖の淡い期待はあっけなく裏切られ、眠っていた恐怖心がざわざわと呼び覚まされる。そうだ、テニスを辞めた本当の理由。


<大体5年か? ちったァ、デカくなったじゃねェか。えェ?>


 そうだ。


 僕はこの喋るラケット・・・・・・が恐くて、テニスから逃げたんだ。



続く

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