近くのテーブルの人たちに思い切って声をかけてみた。

「虎が出るんですか?」

「虎は時折出るよ。でも今、話題にしているのは虎神様のことだよ」

「虎神様?」

「砂漠で怖いものの一つに虎がいるんだが、虎神様が近くにいると虎に襲われないという言い伝えがあるんだ」

「そうそう。砂漠の守り神様だ」

「それで最近、虎神様を見たという人が現れたんだ」


 店員さんや周りのお客さんが虎神様の話で盛り上がっているのをしばらく聞いていると、通りを女の子が歩いているのが目に入った。

 ミカより年下のように見える十歳位の女の子は僕の横を通り過ぎ、真っすぐに駆けて行った。何故か目が離せない。

 慌てて、お水の代金をテーブルに置き、その子を追うように足が勝手に動いてしまった。

「あれ?急にどうしたのお兄さ~ん」

 店員さんの声を背に走り出した。 

 既に女の子は視界からは消えてしまっていたが、全速力で追いかけるとすぐに見つけることができた。


「あのっ!そこの君」

 とりあえず呼び止めたが、なんと声をかけたら良いか次の言葉が出てこない。女の子はびくっと肩を震わせたが、止まって振り向いてくれた。

 小さな女の子を大声で呼び留めてしまったことで、不信に思われたのか周りにいる人達が足を止めてこちらを注視している。


 次にかける言葉を探していると、後方、右から来るなにかが視界に入った。

 咄嗟に、女の子を抱え上げて、近くにいる人に渡す。

「逃げてください!!」

「⁇えっ、わたっ」

 男性は突然のことで、返事もままならない状況だったが、顔を上げた瞬間、慌てて女の子を連れて走り出した。


 逃げだした男性の様子と、その視線の先が確認できると、周りの人たちも慌てて逃げ出し一斉に悲鳴が上がった。


 視界の隅から徐々に大きくなってきたのは白い虎だった。


 女の子を助けたいとか、虎をやっつけるとか、自分が逃げ遅れたとか、そういう考えを巡らせる暇は無かった。ただ、気づいたら腰のナイフを抜いて虎と対峙していた。

 虎を見つめながら、背負っていたザックから左肩を抜き、肩紐を八の字にして荷物が前にくるように背負いなおした。

 

 怖い……肌が粟立つ。


 少し距離を保った虎がグルグル言いながらこちらを睨んでいる。

 咄嗟にナイフを抜いてしまったが、あの毛皮を通せるとは思えない。

 先程の女の子も他の人も、ここからは逃げ出し、周りの家屋の扉はきっちり閉められているのを確認する。

 あとは自分が逃げることを全力で考えるだけだ。

 逃げ出すのに背中を見せられないことだけは本能的に分かった。

 

 対面にいる虎の澄んだ緑色の瞳はこちらを見透かしているかのように思えた。


『獣は真正面から挑んではだめよ、基本は遭遇しないこと。追い返すこと。岩でも木でもいいから障害物をなにか挟みながら逃げなさい』

 母さんや守衛団の人達からは、そう教わって訓練した。

 でも、本物の獣と対峙すのは初めてだ。足は震え、思ったようには体は動かない。

 じりじりと後ろに下がると広場に出た。石造りの泉に沿って、反時計回りに移動する。


『初撃!かわしなさい』


 母さんの声が脳内で響いた。

 虎の大きな影が僕の上に舞い踊る。

 辛うじて躱せたのはここまでだ。


 2撃目は爪がザックと肩を掠り、視界の端に血が飛んだ。

 

 虎は一旦距離を取ったので、見つめ合いながら、肩ひもが一つになった荷を背から降ろし、咄嗟に括りつけてあったランタンの油を振りまいた。

 油は当然目くらましにはならず、突進してきた虎に左腕を噛まれ、そのまま押し倒されて尻もちをついた。


 頭の中は意外と冷静で、喉を一噛みにやられなかったことに安堵した。

 視野は狭かったが、引き裂かれた荷物から飛び出した従弟お手製の虫眼鏡を見つけた。後ろ手に着いた右手のナイフを手放し、虫眼鏡を虎の鼻にかざし光を集めると秒でチリチリと煙を上がる。


 ランタンの油と合わさりボッっと火が出た。


 虎が高い声で鳴き、一旦、僕から離れると前足で鼻をさすってから再び唸り声をあげた。


 その間に立ち上がり、体制を立て直すことはできたが、恐らく次の一撃でやられるだろう。


 その時、虎の後方から光が飛び込んできた。

 そこまでは覚えている。

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