第15話 セミナーⅡ
入り口から、ゆっくりと入ってきたのは、羽織袴を着て、髪をオールバックにした、やや小太りの、60代くらいの男だった。頭の脇の部分を白くメッシュに染めている。眉毛が太くて、鼻は大きめでかぎ鼻だ。『美味しんぼ』という漫画に出てくる、海原雄山というキャラクターに、どことなく似ている。
その男は、演壇に登ると、前を向き、左右をゆっくりと見渡すと、顔の前で両手を合わせ、目を閉じた。
「ナームーナームーミロクブツ、ナームーナームーミロクブツ、ナームーナームーミロクブツ」
その男がそう唱えると、警備のために部屋の周りに立っている男たちも、両手を合わせて、その声に唱和した。
唱和が終わると、しばしの静寂が部屋を支配した。
やがておもむろに両手を下ろし、目を開けると、その男は、机の前に置いてある水を一口飲み、また左右を見渡すと、こう言った。
「皆さん、おめでとう。とうとう、この日がやってきましたね」
ここで少し間を取った後、その男は続けた。
「今の世の中は、苦しみに満ちている。世間には、疫病が蔓延している。もちろんコロナがそうだ。そのほかにも、エイズ、インフルエンザや新種の伝染病など、とどまるところを知らない。また、紛争が世界中で起こっている。中東やアフリカ、東南アジアなどは、難民であふれかえっている。それから天変地異。東日本大震災に限らず、日本のいたるところで、大きな地震がある。また、異常気象は世界中に、山火事や、大洪水や干ばつを引き起こしている。これが『末法の世界』というものです」
男の声は、静寂に包まれた教室にかすかな反響を起こしながら、僕の頭上を通り過ぎて行った。
「そういった中で、誰もが、出口のない苦しみを生きている。会社の人間関係で苦しんでいたり、家族や親類といがみ合っていたり、お金がなくて借金に追われていたり、なかなか治らない病気に苦しんでいたりする。今日、ここに来られた皆さんも、いずれかのお悩みをお持ちだ。いや、そういった、様々なお悩みを多数抱えている方もいらっしゃるでしょう」
男は、聴衆に言葉がしみ込むのを待つように、ここで一口水を飲んだ。
「芥川龍之介という作家が書いた『蜘蛛の糸』という小説を皆さんご存じでしょう。地獄に落ちた罪人に、お釈迦様が蜘蛛の糸を垂らして、その糸を伝って、罪人が地獄を抜け出せるようにした。皆さんは、この蜘蛛の糸をつかむような気持で、今日のセミナーに参加されたのでしょう」
と言って、男は僕の方を見た。まるで僕がその罪人であるかのように。
「もちろん、皆さんは罪人なんかじゃない。なのになんで、こんなに苦しまなければならないんだろう。生きながらにして、出口の見えない地獄に苦しんでいるのは、何がいけないのだろう。そういう思いを抱いているのではありませんか?」
その時、教室の外で、かすかに犬が遠吠えするのが聞こえた。まさかあの、東関ハイヤーの犬の声ではないだろうが。
「小説の中の罪人は、地獄から抜け出すことはできなかった。一緒に地獄から抜け出そうとする人たちをしりぞけて、自分だけ助かろうとしたからですね。でも、罪人の気持ちもわからないではない。細い蜘蛛の糸では、何十人も登ったら、そりゃあ切れちゃうと思うでしょうね。そういう結末を知っていながら糸を垂らしてみせたとしたら、お釈迦様ってずいぶん悪趣味ですね」
と言って、ちょっと笑い顔になったが、聞いている者たちは誰も笑わなかった。
「でも、弥勒様は違います。地獄から抜け出したいのなら、自ら手を差しだしてくださる。蜘蛛の糸を垂らしたりなんかしない。後は、その手を信じることができるかどうかだ。そして、不肖、この大山が、現代の地蔵として、皆さんと弥勒仏との橋渡しをさせていただく。今日、皆さんは、その橋に一歩足を踏み出したのです」
と言うと大山は、また会場を見渡すように、左右に首を振った。
僕は、右前にいる田口君を見た。腕組みをして、じっと話を聞いているようだったが、表情はわからなかった。
「弥勒様は、誰も置いて行きはしない。しっかりと手を握ってさえいれば、必ず救ってくださる。皆さんが、今の苦しみから救ってほしいと思えば、必ず救ってくださる。だから、もう何も思い悩むことなんてないんです。今日から、皆さんはもう、地獄の住人ではなくなるんです。しかし…」
と言うと、大山は、会場の横に飾ってある、あのピカソの絵を見た。
つられて僕も見てみると、一瞬、その絵の中の人たちが動いたかのような感じがあった、が、きっと思い違いだろう。
「私が渡した、その架け橋を、しっかり渡り切らなければなりません。弥勒様は、橋の向こう側にいらっしゃいます。この橋を渡り切るのは、ちょっと大変です。時々、橋を渡り切れずに、地獄に舞い戻ってしまう人がいます。そうならないためにも、皆さんは、今日の話を心に刻んで、一歩一歩着実に歩んでいただきたい」
そう言うと大山は、窓の外に目を向けた。外では、雨が降り出していた。
「これから、皆さんがその橋を渡るために大切な、3つのことをお話ししたいと思います。
一つめは、疑う心を持たないこと。二つめは、人の批判をしないこと。三つめは、他人に奉仕すること。
とかく、人は、自分以外のことを悪く言ったり、自分だけのために行動したりしてしまう。でも、これは地獄への道しるべのようなものです。
先ほどの『蜘蛛の糸』の罪人も、己だけが助かりたいがゆえに、また地獄へ舞い戻ってしまった。仏様は、そういった人へは手を差し伸べません。仏様を信じ、他人に奉仕する人にこそ、手を指しのべる、弥勒仏はそういう仏様です」
会場の外では、雨が強くなってきた。かすかに、会場の中にも雨音が聞こえてきた。
「皆さんは、己の境遇の厳しさに耐え切れず、助かりたい、苦しみから逃れたい、そう思ってここまでやってきた。それは当然のことです。
でも、その、己の苦しみから逃れたいという思いを断ち切ることができなければ、その苦しみから逃れることはできない。なんだか矛盾したことを言ってるように聞こえるかもしれません。
でも、それを理解することができなければ、今日、ここに来た意味はないんです。
苦しみを受け入れる。どんどん受け入れる。そんな気持ちを持てる人こそが、苦しみから解放されるんです。どうです、わかりますか?」
会場の中は、しんと静まり返っていた。誰もが、真剣に話を聞いているということだった。
「仏教では、自我を滅却することが、すなわち修行の目的なんです。心理学では、イド、と言いますが、この自我というのが厄介で、自分ではコントロールできない領域が、実はとても奥深く存在している。この自我というやつによって、われわれの心というのは、自分の意志とは違う方向に動いていってしまう。これすなわち、煩悩というものです。この煩悩を滅却するのが、仏教の教えなんです」
と言うと、また水を飲んで、会場をゆっくりと見渡した。
そして、さらに声を大きくして話を続けた。
「この、自我というもの、これこそが、煩悩の源です。自我を滅却して、他に奉仕する心こそが、真に苦しみから解き放たれ、栄光の未来の道を切り開く原動力となるのです。そのためのかけ橋が、この『未来セミナー』です。皆さん、ようこそ栄光の未来へのスタートラインへ!」
大山がここまで話し終えると、会場の周りに立っていた警備の者たちが、一斉に拍手をした。
「それで、あなたは煩悩を滅却することができたんですか?」
会場に、拍手の余韻が響いているさなかに、誰かが声を発した。
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