第8話 手紙

「この手紙は、めぐみさんが、今日、私たちが保さんと会うということを聞いて、意を決して書いてくださった手紙です。どうぞ、読んでみてください。」

と、熊野は言った。

僕は無言でその封を開け、なるべく手が震えないように意識しながら紙を開いた。

そこには、めぐみ特有の、一文字一文字がゆっくり書かれていることがわかる、はっきりとした、やや丸い感じの文字が並んでいた。


『保さん、ごめんなさい。

こんなことになってしまってすみません。驚かせてしまいました。

ほんとうにすみません。

ずっと以前から、私は、保さんと結婚してよかったんだろうかと悩んでいました。

私の体の中には、何かしら訳の分からない不幸の源のようなものがあって、それが定期的に表に出てきては、私を苦しめました。それがもう、保さんと結婚するずっと以前からで、それによって私は、もうどうしようもなく生きる希望を失っていました。

それでも、何とか20代のころは、懸命になって生きようと努力しました。

でも、自分一人ではどうしようもなくて、誰か助けてくれないかと、周りをきょろきょろしていたら、とても素敵な人を見つけました。

保さん、あなたです。

あなたと結婚して以来、私は、ごく普通の女の人の人生を送ることができるようになったと思っていました。

もちろん、幸せでした。

保さんには、毎日、感謝してもしきれないくらいの幸せをもらっていました。

でも、それでも、わたしの中の、訳の分からないものは、なくなりませんでした。

配達の仕事をするという、私の、弱い体に鞭打つようなことをする決断は、ともすると、そんな私の体の中にある、私を不幸にしようとたくらんでいるものに対する、私なりの抵抗でした。

そして、保さん、あなたと一緒になれました。それは、私の人生の中で一番のうれしい出来事でした。これは、私の、今までの人生での努力に対する神様からの祝福に違いないと、ひそかにほくそえんでいたくらいです。

でも、私の中の、その邪悪なものは、なくなりませんでした。

とある日、(それは今から半年ほど前でしょうか)急に体が思うように動かなくなった日がありました。保さんが、朝早く仕事へ出かけてすぐ、私は急に目が覚めて、おなかのあたりが痛いのに気づき、これではまずい、と思い、立ち上がろうとしたら、体が動かなかったんです。どうしよう、どうしよう、と思い、保さん、保さん、と声を出しました。もちろん、保さんは仕事に出かけてしまっているので、返事はありません。その時の心細さは、今でも忘れることができません。

でも、その時気づいたんです。

いままで、そばに寄り添ってくれていた保さんのありがたさを。

その時まで、同じように体が急変したことが何回かありました。その時は、幸いに保さんがそばにいてくれました。

でも、その時は、いませんでした。その時の心細さったら。

でも、その時思ったんです。

私は、こうやって一人で死んでいくんだ。それが当たり前なんだ、と。

でも、今まではあなたがそばにいてくれました。だから、それがわからなかった。

そして、その時、突然分かったんです。


どれほど、あなたの存在が貴重なのかということを。


そして、感謝してもしきれない、そんな気持ちになりました。

そのとき、体がふっと楽になったんです。

そして、そのまま、病院に行きました。

病院の先生は、こう言いました。

「あなたの臓器が、だいぶ弱ってます。かわいそうですが、もう持たないでしょう。

持っても、三年が限度でしょう」と。

もちろんすごくショックでした。

でも、なんとなく、そんなことを言われそうな気もしてました。だって、私の体のことですから。以前から、『もう持たないよ』と、体が訴えているのがわかってましたから。

でも、やっぱり、このまま黙って死ぬのを待っているのはいやでした。

そのとき、通りがかりのところに貼ってあった、相談所の張り紙をみて、誰でもいいから相談したくなったんです。

私は、その相談所に携帯で電話し、今から行く予約を取って、電車に飛び乗りました。

柏市にあるその相談所は、駅から歩いて10分くらいのところにありました。

その相談所の方は、驚いたことに、私が病気で悩んでいることを一発で言い当ててしまいました。

そして、こう言われました。

「人は、いずれ必ず死ぬんです、遅かれ早かれ。要は、その時、納得して死ねるかどうかが大事。あなたの病気も、完治させることは無理。でも、人は、何らかの病気を誰でも抱えてる。たいていは表に出てこないだけのこと。だから、たいていの人は、自分はいつまでも生き続けるつもりで生きている。あなたは、死と向き合うことができた。それだけでもその病気に、むしろ感謝すべきです』

最初、他人事だと思って適当なことを言ってるのかな、と思いましたが、聞いているうちに、だんだん心にしみてきました。そして、相談してよかったと思えるようになりました。

最後に、「あなた自身を変えたいなら、ここに行くといいわ」といって、未来グループのセミナーを教えていただきました。

ちょっと怖かったんですが、その一週間後、未来セミナーに出席しました。場所は、柏市公会堂というところでした。

その場で、大山先生のご講和を拝聴しました。

そして、心を打たれました。

その後、グループに分かれて演習を行いました。そこでは、心の持ちようが、物質的なものにも影響を与えるということを学びました。普段からの心の持ちようはとても大切なんですね。

最終的に私は、「未来の世界」に、入信する、ということになりました。

「未来の世界」というのは、宗教団体という形をとってはいますが、キリスト教も仏教もイスラム教も、儒教もすべて否定しません。いわば、道徳を重んじる団体、とでもいうのでしょうか。ですから、今までの家族の宗教を否定するわけではなく、それらの宗教の根本的なところ、例えば他人に優しくしましょうとか、家族を大切にしましょうとか、そういうことを徹底しましょうね、という団体なんです。だから、特別な、何かカルトみたいなものじゃないので、そのへんは安心してください。

でも、保さんに相談すれば、きっと反対されるのは目に見えてました。だから、悩んだ末に、何も言わずに、まずトレーニングに参加する、ということにしました。一人で決めてしまって本当にすみません。

このようなことになって、きっと怒っているでしょうね。当然ですよね。もう愛想突かされたかもしれませんね。

もし、もう愛想をつかした、というのなら、そうお伝えください。私は、心の準備はできてます。でも、もう少し待ってくださるなら、きっと、そのうちお会いできるようになると思います。先のことについては、まだわからないのです。大先生にお会いするまでは、まだわかりません』

手紙は、そこで終わっていた。読んでいる最中に、手紙に水滴が何滴か落ちてきたが、それが自分の涙であることに気づくのに少し時間がかかった。終わり方が唐突だったので、続きが書いてないかと裏面を見た。手紙の裏側には、『瀬をはやみ 岩にせかるる谷川の…』と書いてあったが、最後まで読もうとしたとき、隣の惣野にひったくられた。

その手紙に目をざっと通した惣野は、狐川にこう聞いた。

「ねえ、この相談所の人って、あんたらの団体とはどういう関係なの?」

狐川は一瞬戸惑ったような表情を見せたが、付けていたマスクを外してコーヒーを一杯飲むと、改めて惣野の顔を見てこう言った。

「その方は、会では『指導士』という立場で、大先生の、いわば相談役です。大先生がこの団体を立ち上げる前から、直接この方に相談をされていたということで、古くからの、いわば家族的な立場のお方です」

「ふーん、そうなんだ。じゃ、一番偉いのはその人ね。ちなみにその人は、何て名前なの?」

「そのお方の名前は、葉山みどりといいます。今、一番偉いと言われましたが、その方は、我々の団体には所属してません。彼女は、飽くまで相談役なので、この会では部外者、ということになります」

「わかったわ、それじゃ、その人の住所を教えて頂戴」

狐川は、バッグからメモ帳を取り出すと、その人の住所を惣野に教えた。

熊野がそのあとで口を開いた。

「来週の日曜日、柏市公会堂において、セミナーを開きます。つきましては、旦那様もご出席されてはいかがでしょうか」

「そこでめぐみに会えるのでしょうか?」

と僕が訊くと、

「残念ながら、それはまだ何とも言えないんです」

と熊野が答えた。

その後、数秒間の沈黙が流れた。

「いいわ、とりあえず、そのセミナーに参加するということで、参加登録しておいてちょうだい。私もなんだか、そのセミナーに興味がわいてきたわ。わざわざここまで来てくれてありがとうね」

と言うと、惣野が立ち上がった。そして、狐川に向かってこういった。

「おお先生は、いつめぐみちゃんに会うのかしら」

立ち上がった惣野に向かって、狐川が言った。

「大先生は、今九州へ出張中です。帰ってくるのが土曜日ですから、めぐみさんとイニシエーションを行えるのは、早くて日曜日のセミナーが終わった後でしょう」

「そう、わかったわ。ここはあなた方が払っておいてね」

と言うと、僕の手を取って喫茶店の外へとそそくさと出てしまった。

後に残された二人は、『ナムナムミロクブツ』とつぶやくように唱えていた。















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