第7話 宗教団体
少し考えてから、惣野に電話をした。一人で話し合いに向かうより、一緒に誰かがいてくれた方が力になりそうな気がしたし、今日の社長との話し合いを振り返って、惣野以外の人は考えられない気がした。
惣野は、最初は少し渋っていたが、お昼をおごるから、という話をすると、「じゃ、うなぎかステーキでいい?」ということになった。出費は痛いがしかたがない。
次の日、9時半に、電車で惣野がやってきた。緑色のワンピース姿で、頭に黄色いニットの帽子をかぶり、なんだか目立つ女の人がおりてきたな、と思ったらそれが惣野だった。
日曜日という割には、喫茶店「サロイヤ」の中はすいていた。客は、高校生かと思われるカップルが一組だけだった。
窓際のテーブル席を選んで席に着くと、惣野はニット帽を外した。僕は、目印のキャップを取り出すと、頭にかぶった。前面に「北海道」という文字が書かれていて、後頭部には鮭の絵が描いてある。それを見たカップルの女性の方が、笑いながら男に何か耳打ちをして、男がちらっと僕の方を流し目で見るのがわかった。
「何よその帽子。喫茶店でそんなのかぶることないでしょ」と惣野が言った。
「目印なんだから仕方がないだろ」
と言いながらも、この帽子を目印に選んだことを後悔した。頬が熱くなるのを感じた。惣野が一緒なのがわかっていれば、緑色のワンピースが十分目印になるはずだった。緑色のワンピースの肥った女と、「北海道」の文字と鮭の絵の描いてある帽子をかぶった男が並んで座っている姿を見た彼らは、何と思うのだろう。
女性店員が注文を取りに来た。マスクをしている上からでも、明らかに笑いをかみ殺しているのがわかった。
惣野に何も聞かず、速攻でホットコーヒーを二つ注文した。店員に何度も近寄られたくない。
「あんたってほんと、うかつだね。よりによってそんな目印を選ぶなんて」
「そう言わないでよ。とっさには他に思い付かなかったんだよ」
喫茶店にかかっているアナログ時計が、10時5分前を指していた。
その時、そのアナログ時計の脇に、なんとなく見慣れた絵がかかっているような気がした。そちらの絵の方に意識を移すと、それはあの、モネの睡蓮だった。東関ハイヤーの事務所にかかっていたのと同じ絵だ。ただ、こちらの方が少し小さい気がした。そこに、運命のようなものを感じないわけにはいかなかった。何かわからないが、大きな意志のようなものが、僕を導いている、その道しるべのようなものに、その絵は使われているのだ。その絵の中に僕は、何か、誰か隠れてはいないかと目を凝らした。しかし、その絵の中には誰もいなかった。湖面に浮かんでいるのは、ただ、鮮やかな睡蓮の花々だけだ。
ほどなく、喫茶店の扉を開けて、中年のカップルが入ってきた。男の方は50歳くらいで、背はあまり高くなく、やせ形で、髪は七三に分け、眼鏡をかけている。女の方は、40歳くらいで、男より10センチくらい背が低く、やはり痩せている。それもかなり痩せていて、頬がこけていた。僕は、漫画の「ポパイ」に出てくるオリーブという女性を思い出した。二人とも、紺色に近い正装をしていた。
店内に入ってきた彼らは、やや戸惑ったように周りを見渡すと、恐る恐るといった感じで僕らの方へ近寄ってきた。
「失礼ですが、中根さまではございませんか」
「はい、中根です。狐川さんですね」
僕は立ち上がってちょっとだけ頭を下げた。惣野は座ったままだった。
「熊野と申します。よろしくお願いします」と、隣の女性が頭を下げた。
「あの、失礼ですが、こちらの女性はどなたでしょうか?」
狐川が、惣野の方を見て聞いてきた。惣野は、そちらの方は見ずに、前を向いたままコーヒーを一口飲んだ。
「この人は、めぐみの友人で、惣野さんです。今日は、話を聞いて、急遽同席することになりました。お話をしておかなくて申し訳なかったですが、…」
「あんたら、めぐみちゃんをどこに連れてったのよ!」
僕が話を終わる前に、惣野が相手をにらんで言った。
「旦那さんに何も知らせずに、奥さんをどこかに連れてくなんて、拉致監禁に等しい行為よ。それで何の宗教だか知んないけど、あんたらのやってることは犯罪行為だかんね!」
「まあまあ、とにかく話を聞こうよ。とりあえずお座りください」
惣野の声に、離れたところに座っていたカップルも気づいてこちらを見た。僕は、帽子を取って椅子の隅に隠した。
狐川と熊野の二人は、向かい側に腰掛けると、やってきた店員にコーヒーを注文した。
「旦那様にお知らせしなかったのは大変申し訳ありませんでした。しかし、それがめぐみさんの御意向なので、我々はそれに従ったまでなんです。」
と、熊川が話し出した。
「めぐみさんは今、柏市の『未来会館』にいます。こちらは、私どもの宿泊施設となっておりまして、現在彼女は10日間のトレーニングの5日目となっております。この10日間のトレーニングというのは…」
「あんたたちの宗教というのは『未来の世界』という名前ね」
惣野が、話の途中で割って入った。
「お釈迦様が死んだ56億7千万年後の地球に現れて、この世を救うというのが弥勒菩薩という仏様で、その弥勒菩薩を本仏とあがめる宗教よね。最初は自己啓発セミナーの形をとっていたけど、会員が増えたんで、税金を払いたくないから宗教法人という形にした。教祖は大山天空という名前で、本名は大山良夫。23年前にこのグループを立ち上げて、その5年後に宗教法人化した。その後、幾度かの会員の脱会トラブルはあったものの、あまり表立ったニュースにはならずに今まで来ている。もっと派手なニュースになってる宗教団体の陰に隠れて、うまく立ち回ってきたわけね」
そう言って惣野は狐川をにらんだ。その顔は、やや、あの事故の時の自転車の女に近かった。僕は、惣野がそこまでこの団体を調べていたことに驚いた。と同時に、何も知らないまま臨んだ自分はやっぱり、うかつだな、と思わざるをえなかった。
「よくご存じですね。おお先生は、この国を愛のあふれた国にすることを目標にして、この宗教を立ち上げたんです。大先生の行いに、お金の計算などは入ってません。もちろん、税金を払いたくないなどということはありません。実際に、東日本大震災の際は、1千万円をご寄付されています」
「おおせんせい?」
「はい。私たちは、大山先生のことを、親しみを込めて大先生とお呼びしてます。正式な名称は『導師様』です。導くお師匠様という意味です。でも、大先生は堅苦しいことはお嫌いなので、みんな、大先生とお呼びしてお慕い申し上げております。大先生自身はご自身を『地蔵』と称して謙遜されてますが」
「そうなのね。そのおお先生が、イタコ芸をしたり、インチキヒーリングをしたりして、みんなをだましてるわけね」
と言うと、惣野はまた一口コーヒーを飲んだ。その時、狐川と熊野の分のコーヒーも運ばれてきた。それには手を触れずに、熊野という女性が口を開いた。
「イタコ芸というのは降霊術のことですね。それは先生の能力のほんの一端にすぎません。実際に、キリストやマホメット、釈迦といった三大宗教の教祖の霊魂と自由に交流できますし、それをご自身の体に降霊させることができます。お望みとあらば、あなたご自身の霊魂と交流することも可能です。先生は、物質界と霊界、霊界とは精神的な世界のことですが、この二つの世界を自由に行き来することができる能力を身に着けておられます。しかし、会員が増えた現在では、それがインチキな見世物芸でもあるかのようなとらえ方をするマスコミが増えましたので、最近は公には封印されているようです。ヒーリングというのも、この、物質界と霊界を自由に操れる先生の能力の一端を示すものです。精神的な憂鬱や、ストレスだけでなく、肉体的な苦痛や、病気なども、元をただせばすべて霊界での現象が原因になっています。それを取り除く、またはただすことによって、その人の苦痛を取り除き、癒しにつなげるというのがヒーリングです。一度も体験されたことのない方は、まるでトリックを使ってインチキを行って人をだましているかのような印象を持たれるでしょうが、一度体験されればそれが本当なのが身をもって理解できるでしょう」
「さすがは女性部長さんね。いつも説明してるから、滑らかね」
という惣野の顔には、徐々に、興味をひかれたような、なんだかおもしろいな、といった表情が現れてきた。
「そのオオせんせいは、たしかサバーバイの信奉者で、何回かインドに会いに行ってるわよね。サバーバイって人は、手から聖なる灰とか時計とかネックレスとかを出して見せて、人をだましてお金儲けをした人よね。そのサバーバイに、手品とか、人をだますテクニックを教わってきたのかしら」
「大先生は、人をだますなどということは絶対にありません」
熊野の顔が、今までのにこやかな表情から、一転して険しい表情に変わった。
「サバーバイについては、残念ながら詳しいことは私も知りません。大先生がサバーバイに会いに行ったのは、かなり前の、おそらく20年以上前のことでしょう。サバーバイさんは、社会的に素晴らしい事業をたくさん行いました。例えば、きれいな水が飲めない地域に水道をひいたり、大学を作って教育を推進したりしました。彼の教えの根本には、無償の愛という考えがあって、先生はその考えを学びに行ったんだと思います。大先生の行いには、決して損得勘定とか、インチキして人をだますとかいったことは全くありません。それは、惣野さんも体験してみればわかることです」
「ねえ、めぐみちゃんには、持病があったのよね」
急に惣野が、僕の方を向いて聞いてきた。
「うん、先天的に体の免疫機能がうまく働かないという難病で、時々体調が悪くなることがあったよ」
と僕が言うと、惣野の顔が厳しくなって、狐川に向かって突き刺すような視線を向けた。
「まさか、その病気を治してやるとか言って勧誘したんじゃないでしょうね。医者には治せなくても、おお先生なら治してくださるとか言ったんじゃないでしょうね!」
そういわれた狐川は、視線を下に落とし、ゆっくりとコーヒーカップを持って一口飲んでから、またゆっくりと視線を惣野に戻して、こう言った。
「病気を治すというのは、医者の仕事であって、大先生がすることではありません。確かに、めぐみさんは持病のことで苦しんでました。彼女が入会するきっかけになったのも、その持病についての悩みでした。熊野さん、この間の事情を話してあげてください」
「はい、わかりました」
話を受けた熊野は、姿勢を正して座りなおすと、僕と惣野を交互に見比べてからこう話し始めた。
「実は、私たちの団体と結びつきのある女性が、柏市で、表向きは占いということになってますが、とある相談所を開設してます。そこに、めぐみさんが相談に現れました。めぐみさんは、持病のことについて、最近医者にかかったところ、『あと三年くらいしかもたない』と言われたそうです」
そこまで話して、熊野は僕の方を見た。彼女が何を言っているのか、一瞬僕にはわからなかった。僕の目の前の人たちが、一瞬、僕とは全く関係のない、外国人であるかのような感覚になった。目の前の女性が口をパクパクさせて音を発しているが、その音が何を意味しているのか理解できない。そして、空気が急に泥のように重くなった。喉の奥が張り付いて、その隙間からやっと空気を吸いこんだ。
「ちょ、ちょっと待ってください。あと三年って…、そうめぐみが言ったんですか?」
僕は、やっとのことで声を出すことができた。その音は、誰か他人の声のように響いた。
話の途中で腰を折られた熊野は、一拍を置いて答えた。
「はい、そうです。かかりつけの医者から、そう伝えらせたそうです。それは、お聞きになってなかったんですね」
「いま、初めて聞きました」
「そうですか、それは、申し訳ありませんでした」
といって、熊野は狐川の方を向いた。狐川が後をついだ。
「私たちは、めぐみさんの意志を尊重して、昨日まで、旦那様とは連絡を取ってませんでした。本来なら、家族の方のご理解があって初めてトレーニングを開始できるのですが、今回は一刻も早く始めたいというめぐみさんの意志があり、そのためにトラブルを避けたいということで、このような形で5日ほどたってしまいました。遅れてご連絡をしましたことを、改めてお詫び申し上げます」
「めぐみには、いつ会えますか?」
「それは、…まだ何とも言えません」
「え?」
「ちょっと待ってよ、めぐみちゃんを返してくれるための話し合いじゃないの?」
惣野が割り込んだ。惣野のコーヒーカップはすでに空だった。
「我々のトレーニングというのは、非常に精神的なものなので、その途中で雑音が入ると、すべては台無しになってしまいます。従いまして、10日間のトレーニングの、のこり5日間はお会いすることはできません。そして、そのトレーニングを終えた後、一定のレベルに達したと判断されたものは、大先生との一対一のイニシエーションとなります。その場で、大先生が、その後のことを決めます。従いまして、その時までは我々も、めぐみさんの処遇については何とも決めかねるのです」
「なるほどね、そうやって、世間と隔絶させて、洗脳していくってわけね。それで、そのイニシエーションって、具体的には何をするわけなの?」
と惣野が訊くと、狐川は、ちょっと困ったような顔をした。
「それは、大先生が判断してきめることです。何か決まった儀式のようなものがあるのではなく、相手に応じて、その時々に最良の施しをされるようです」
「それは、一対一でするわけね」
「そうです。大先生の精神を、会員の方の精神と同一化し、より大きな精神とすることによって、その人の全人格を改革するということです」
「じゃあ、それまでにめぐみちゃんを取り戻さなくちゃダメってことね」
惣野が、狐川の顔をじっと睨むと、狐川は熊野の方を向きこういった。
「熊野さん、あれを出してください」
「わかりました」
と言って、熊野は、バッグから取り出したものは、封筒だった。
「これは、めぐみさんからのお手紙です」
と言って、差し出されたものを、僕は、しばらく受け取ることができなかった。それを受け取ってしまえば、もうめぐみはこの人たちのものになったのだと認めたことになるような気がしたのだ。
しかし、いつまでもそうするわけにはいかず、僕はそれをうけとった。
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