第6話 固定残業代

「ホントにこれでいいの?」

帰りの車の中で、惣野が訊いた。案の定、外は雨になっていた。

「解雇なんてことになったら、ほんとに就職活動大変だよ。私の担当する会社でも、以前の会社を解雇された人を、知らないで雇っちゃったってことで、トラブルになったこともあったくらいなんだから。そういうところは日本の会社はほーんと厳しいんだよ」

「大丈夫。タクシー会社だったら、どんな人間でも、履歴書無しでも雇ってくれるよ。今の会社だって、履歴書出そうとしたら、履歴書はいらないって言われたくらいだから。もうこうなったら、どうにでもなれだ」

「へー、履歴書いらないなんて、そんな適当な会社もあるんだねー。東関グループっていうと、もっとちゃんとしてると思ったけど」

「でも、やめるとなると、思い返してみればひどい会社だったよ。有給休暇がないだけじゃなくて、事故を起こせばお金を取られるし、残業代も深夜労働手当も、出てるか出てないかわからないような仕組みになってるし」

「事故っていうと、たとえば人ひいちゃったっとか?」

「それだけじゃなくて、例えばバンパーを縁石でこすって修理しただけでも一回に3万円を給与天引きされるんだよ」

「え、給与天引き?まじですか!それって完全に違法だよ。給料は、原則的に全額を本人に支払わなくちゃなんないし、天引きするには本人の了解が必要になるんだよ。それも、税金とか、積み立てとか、労組費とか限定された項目のみできるだけで、車の修理費用を天引きするなんて、ありえないから」

「でも、いちど所長の大河原に聞いてみたら、『何言ってんだよ、これは労使協定で決まってるんだよ』って言われたよ」

「労使協定…やっぱりあのダメ労組のしわざか」

とうと、惣野はポケットを探りだした。そして中から飴を取り出すと、袋を開けて口の中に放り投げた。そして、もう一つ取り出し「ほら、口開けて」というので僕が口を開けると、それを僕の口の中に放り投げた。その飴は、コーヒー飴だった。コーヒーなのに、やたら甘かった。

「それと、残業代とか、深夜手当とか、出てないってこと?」

「表面上は出てることになってるんだよ。例えば、売り上げが50万だったら、半分が給料になるから、歩率は50%なんだけど、その50%うちの5%が残業代と深夜手当、そしてその他もろもろの手当の分です、ていう説明なんだ」

「なるほど、固定残業代の形をとってるわけだ。でも、5%の内の何パーセントが残業代で、何パーセントが深夜手当なのかはわかるのかな?」

「そういう説明は全然ないよ。就業手当読んでみても、ほかに説明はなにもなかった」

「てことは、固定残業代がいくらあって、それは何時間分の手当で、その時間を超えた分に関しては改めて支給する、みたいな記述はないわけね」

「そんなのはどこにもないね」

そこまで聞いた惣野は、失笑するしかなかった。あやうく口の中のコーヒー飴を吹き出しそうになった。

「完全ないかさまだね。固定残業代は、その金額と、それが何時間分の残業代なのかが明記されてる必要があって、それがないと、その金額だけで実際の残業時間分の時給が賄えているのかがわからないから、固定残業代としては成立しないことになるんだよね。だって、例えば月給20万のところがあるとして、会社としては残業代を支払いたくないから、20万の内の5万円が固定残業代を含んでます、っていう説明にして、それで何十時間余分に働かせても同じ給料で済むんだったら、すべての会社はそうするでしょう。実際にそれに近い会社があって、従業員が裁判起こして、裁判に負けて高い付加金払わされてる会社もあるけどね」

「そうなんだ。でも同じ駅に入ってるほかのタクシー会社も、全部同じ仕組みらしいよ。それに、以前働いてた警備会社も、同じような給料だったよ。時給950円の内の50円が、残業代と深夜手当の分です、っていう説明だったし」

「そういうインチキで成り立ってるのが茨城の会社のみすぼらしいところなんだよ。いまだに東京とは、最低賃金で時給100円くらいの差があるのは、そういう意識の低いところも影響してると思うよ。同じような賃金体系の会社で、裁判してたくさん残業代ぶんどってるタクシーの運転手もいるから、中根君も裁判おこしてみれば?」

「それも面白そうだけど、今は、めぐみを探すのに集中しなくちゃ」

「それもそうだね。しっかり探しなさいよ」

「はい、わかりました」

ちょうど区切りになったところで、石岡市の惣野の家に着いた。惣野の家は、土浦市から行くとすると僕のいる石ヶ崎市からは反対方向になる。

「じゃ、何か進展があったらおしえなさいよ」

「わかった。今日はありがとね」

というと、僕は、軽自動車を上り方面へ走らせた。


国道六号線を、小雨が降りしきる中を上り方面へ向かって軽自動車を走らせながら、僕はめぐみのことを考えていた。今にして思えば、あんなにいい子が、こんなどうしようもない男と一緒に暮らすことを選んだことの方が奇跡のような気がしてきた。それまでの僕は、好きな子がいても、意気地がなくて告白できないままだったり、友達から紹介されて付き合った子も、三カ月と持たずに自然消滅してしまったりしていた。だから、めぐみのほうからアプローチされた時は、夢なら冷めないでくれと、本気で思ったものだった。

ただ一つ、気になることがあった。めぐみには、持病があったのだ。


めぐみの持病は、「原発性免疫不全症候群」の内のひとつと、医者の説明にはあった。免疫不全ということは、外部からばい菌などが侵入したときに、それと戦う免疫が有効に働かないということだ。だから、めぐみは、あまり活動的にはなれなかった。スポーツをしたり、旅行に行ったりすることを、あまり好まなかった。そして、時々、具合が悪くなった。職場も、休みがちだった。もちろん、そういうめぐみを知っていた僕は、できるだけめぐみをサポートしようと努力した。そしてそれは、おそらく生まれたときからめぐみの体に備わっていた特徴だったのだろう。そんなめぐみが、今までよく、生協の配達をこなしてきたものだと、むしろ感心したほどだった。

でも、めぐみの体は、おそらく悲鳴をあげていたのだろう。

めぐみは、生協をやめ。スーパーのレジに仕事を変わったときも、できるだけ短時間にしたいといったことがある。もちろん、僕が生協を辞めるということを想定していなかったからだろう。そして、レジ打ちの仕事を始めてからも、月に一回くらい、体がしんどいから休みたい、と言ってやすんだ。そんなめぐみにたいして、なるべく気遣ってやりたかったのだが、その時の僕は、自分の仕事がつらいという思いだけで、めぐみのことを考えてあげられなかったのではないか、という思いが強烈にこみあげてきた。そして、涙があふれてきた。


涙と雨でよく見えない道を走っているうちに、自宅へと着いた。アパートの鍵を開けるとカフカが玄関に出迎えてくれた。

「なあ」と、カフカが鳴いた。

「ごめんな、めぐみは、今日も見つからなかったよ」


シャワーを浴びて、ベッドに座ると、カフカが横に飛び乗ってきた。ぼくが、カフカを抱き上げると、その時携帯のベルが鳴った。

番号を見ると、知らない人からだった。出るかどうか迷ったが、結局は出ることにした。

「はい、中根です」

「中根さんですね。こちらは狐川信也と申します」

「え、キツネ?」

「はい、そのきつねに、川と書いて狐川と申します」

狐川という名前の人がいるとは思わなかった僕は、漢字を当てはめるのに10秒くらいかかった。そういう名前の人から、突然携帯に電話かかかるということも想定外だ。どうも、どんどん訳の分からない世界に入り込んでいく感じがした。

「突然のお電話で大変恐縮です。実は、奥さんのめぐみさんの件でお話がございまして」

「え、めぐみの?」

思わず僕は立ち上がった。驚いたカフカは、ベッドを飛び降りて部屋を出て行ってしまった。

「はい。旦那様のもとを離れてから、しばらくこちらでトレーニングをしております」

「え、トレーニングって…」

トレーニングとは一体何なんだ。めぐみは、失踪して、トレーニングをしている?

「旦那様が驚かれるのも無理はありません。めぐみさんに聞いたところ、旦那様には一切話をしていないとのことで、私どもも気にかけていました。実は、この話もめぐみさんには内緒でしています。私どもは、自己開発セミナー『未来グループ』を主宰しているものです。めぐみさんは、ここ最近このセミナーに参加され、大変興味を持たれまして、今回、このトレーニングに参加されることとなりました。最終的には、出家を希望されています。とはいっても、旦那様には何のことかわからないでしょうね」

「もちろんです。めぐみはだいじょうぶなんでしょうね?そもそも、あなた方のグループとは、いったい何が目的なんですか?」自己開発セミナー?トレーニング?出家??

少し間があって、何やら話し合う声が聞こえた。隣に誰かいるらしい。

「私どもを怪しまれるのは当然です。私どもは、めぐみさんを誘拐したとか、監禁したとかいうことは一切ありませんのでご心配なく。突然このようなお電話を差し上げてしまい、申し訳ございません。もし、近いうちにお会いできれば、その場でご説明申し上げたほうが誤解が解けるかと思います」

「それより、めぐみと直接話すことはできないんですか」

「申し訳ありませんが、残念ながら今はできません」

「そうですか、それでは、明日どこかで会いましょう」

電話の向こうで、また話し合う声が聞こえた。数人が話し合っているようだった。

「わかりました。それでは、私どもがそちらへ参ります」

「そうですか。それでは、石ヶ崎駅の目の前に、サロイヤという喫茶店があります。そこでいいですか」

「わかりました。それでは、わたくし狐川がまいります。それからもう一人、熊野という女性も連れて行きます。この女性は、めぐみさんの担当をしているもので、この地区の女性部のリーダーをしています。午前10時でよろしいでしょうか」

「いいでしょう」

「何か目印はありますか?」

「帽子をかぶってます」僕は、以前北海道旅行の時にお土産で買った、鮭の絵の描いてあるキャップを思い出したので、とっさにこう言ってしまった。

「それでは、そういうことで。ナムナムミロクブツ」

そう言うと、電話は切れた。


ナムナムミロクブツ?



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