第5話 対決

東関ハイヤー株式会社の本社は、土浦市のはずれにあった。東関グループの一員として、東関バス、東関観光、そして、東関ハイヤーと、別の建物が、別会社として建っており、その中に比較的小さい建物があって、「東関労働組合」という看板がかかっていた。

来客用駐車場に車を止めると、建物に向かって歩きながら、惣野が言った。

「何よ、労働組合があるじゃないの。あんたも労働組合員なの?」

「ま、一応ね。でも、組合費は引かれてるけど、ストとかデモとかは一回もやったことないよ。年に二回、春と秋に執行委員が営業所に来て、組合員の交流会が開かれましたとか、定期大会が開かれましたとかを説明するだけ」

「団体交渉は?春闘の時くらい、団体交渉するでしょう?」

「うん、 生協の時はやったけど、ここに来てから一度聞いてみたら『うちは団体交渉とかはやらないんですよ』って、鼻で笑われたから、もう聞くのやめたんだ」

「なるほど、典型的な御用組合ってわけね。わかった、とりあえず、労組の方から行きましょうか」

「え?」

話しかける隙もなく、スタスタと惣野は労組の建物に向かっていった。

労組の建物の脇には、なぜか犬がつながれていた。どこか薄汚れた、雑種の灰色の犬で、惣野を見ると、媚びるように、上目遣いに鼻を鳴らした。それを見た惣野は、「ちっ」と小さく舌を鳴らして、無視するように建物の中へ入っていった。


惣野に続いて建物の中に入っていくと、狭い廊下の両側ドアに『応接室』と『会議室』という文字があり、その奥に『執行委員控室』があった。惣野がドアをノックすると、一瞬間があった後、中から「どうぞ」の声があり、惣野はドアを開けた。

ドアの中には、二人の男がいた。それぞれ別の机に座っており、二人とも見た目は40前後といったところだ。一人は紺色のジャケットを羽織って、青いネクタイをしていて、もう一人はポロシャツを着ていた。その、ポロシャツを着た男が立ち上がった。

「どちら様でしょうか」

僕が答える隙を与えずに、惣野が答えた。

「東関ハイヤー株式会社石ヶ崎崎営業所の中根と申します。この度は、夫が会社よりクビを宣告されまして、あまりにも理不尽なので、社長様とお話をさせていただきたいと思い、はるばるやってまいりました。今から事務所へ伺う予定なんですが、その前に、労組の役員の方にも同席してご助力を賜りたいと思い、伺った次第です」

「はあ、そうでしたか。我々は何も聞いてないもんで…」

「え、何も聞いてない?労組員の退職についてなのに、まだ何も聞いてないんですか?」

惣野の眉間にしわが寄った。

「会社の人事については、我々が口出しすることではないですからねえ。でも、会社が理不尽な理由で退職を迫るということでしたら、それは問題ですので、我々としても対処させていただきます。いったい、どういった経緯からそうなったんでしょうか?」

僕が経緯を一通り説明した。事情があって、一睡もできないまま仕事をして、事故を起こしたこと。自分は休みにしてほしいといったが、受け入れられなかったこと。後日、電話でクビを宣告されたこと。しかし、妻のめぐみが失踪してしまったことは言えなかった。めぐみは、今、隣に立っていることになっている。

事情を聴いていたもう一人の、ネクタイを締めたほうの男が立ち上がって言った。

「執行委員長の小笠原と申します。事情はわかりました。それでは、私がご一緒させていただきます」

めぐみのふりをした惣野と、僕と、労組の委員長の小笠原の三人で、東関ハイヤー株式会社の建物に入り、入り口の横の配車室にいた男に声をかけると、男が内線で連絡を取った。

「二階の応接室でお待ちください」


二階に上がり、応接室に入った。

応接室は、テーブルが二つあって、その一つには、三人ほどが座れるソファーが向かい合わせに置いてあった。もう一つのテーブルには、折りたたみ椅子が三脚ずつ向かい合わせに置いてある。僕と惣野が同じソファーに座り、小笠原は折りたたみ椅子を取って、テーブルの横に置き、それに座った。

応接室の壁には、モネの『睡蓮』の絵が飾ってある。もちろん複製画だ。

ノックの音がして、事務の女性がお茶を持ってきた。三人の前と、向かい合わせの席に置くと、少し暑いようなので窓をお開けしますね、といって、南側の窓を半分だけ開けてから出て行った。9月も終わりに近かったが、まだ気温は高く、生暖かい風が入ってきた。

モネの絵の隣にある時計に目をやると、ちょうど一時を指していた。

その時、ノックの音がして、社長の大洗が入ってきた。僕たちは立ち上がり、お辞儀をしたが、惣野だけは立ったままだった。

「おや、小笠原君も一緒かね。ま、座ってください」

そういうと、社長は向かいの席に腰を下ろした。僕たち三人も腰を下ろし、社長の顔を見た。

大洗は、黒いスーツに赤いネクタイを締めていた。背はあまり高くなく、やや小太りの感じで、頭は癖っ毛を七三に分けていた。目は小さく一重で、花がだんご鼻、口元は厳しそうにへの字に結んでいた。

一拍を置いて、大洗が話し始めた。

「今回の件では、顧客の茨城エレクトロニクス様からたいへん厳しいお叱りを受けましてね、わが社の信頼を大きく失墜させることになりました。中根君も、今までまじめにやってきたのは知っていますが、会社の規則上、会社の信頼を大きく失墜させる行為をした場合、解雇事例に相当するということで、やむなく解雇ということになります」

これだけ言うと、大洗は、置いてあったお茶をすすった。

「しかし…」

「妻のめぐみです。はっきり言いまして、こんな無茶な解雇は聞いたことがありません。会社の規則とは、いったい何ですか?」と、僕がしゃべろうとするのを遮って惣野がそう訊いた。

「就業規則に書いてあるはずですよ。小笠原君、そうだよね」

と、大洗は、小笠原に顔を向けて、やや微笑んだようだった。

小笠原は、持ってきたバックから資料を取り出すと、それをめくりながら答えた。

「はい、東関ハイヤー株式会社就業規則第39条第5項、解雇事例といたしまして、『会社に多大な損害を与える行為をした場合』とあり、今回はこの事例に当たるかもしれません」

小笠原を見ていた惣野の眉間にしわが寄った。

「多大な損害を与えられたのはこっちです!三日間の出勤停止ののちに、解雇ですか。しかも無理やり出勤させられた後、軽微な事故を起こしただけで」

「軽微な事故とは何だね!人身事故なんだよ。しかも、乗客が乗っている最中で、下手をしたら乗客だってけがをしたかもしれないんだ。これは重大事故だよ」

「その重大事故とやらを起こさせたのは会社側ですよね。前日、一睡もしてなかったと報告した社員に、無理やり仕事をさせたんじゃないんですか。これは明らかに会社側の管理義務違反です」

大洗の顔つきが険しくなった。

「会社の管理義務を問う前に、ご自分の健康管理義務をもう一度認識してください。次の日が仕事なら、一睡もしないなんてことがないようにね」

「はああ?次の日が仕事なら、絶対に体調が悪くなってはダメだと言いたいんですか。じゃあ、急病になって仕事ができなくなったら、やっぱり解雇ですか?」

「そうは言ってないだろう。眠るくらいのことは、ちゃんとしてくださいと言ってるんだ、病気とは違うんだから。中根君、そもそもなんで前日一睡もしないなんてことになったのかね?」

大洗は僕のほうに向いた。めぐみが失踪しまして、とは言えない。めぐみはとなりにいることになっている。

「それが、コーヒーを飲みすぎたせいか、うつらうつらしているうちに…」

「眠れなかった理由はどうでもいいです。それより、体調不良を申し出た社員に、休みを与えなかったのが問題です。会社の人員体制とか、そもそも突発事項が起こった際に対応できないような管理体制なのが問題でしょう」

その時、大洗は目を閉じ、5秒くらいしてから目を開けた。

「小笠原君、君はどう思うかね。これは、会社の管理ミスか、それとも、中根君の責任か?」

と言われて、小笠原は目をきょろきょろさせ、さも困ったように天井や床に目を走らせた。その様は、さっき見た、薄汚い犬を思い起こさせた。

「えー、そうですね。労働組合といたしましては、理不尽な解雇に対しましては、断固反対いたします。今回の件も、中根さんが、睡眠不足を申請していたということで、その段階で業務につかせるのを見送るべきだったでしょう。しかしながら、代わりの人員が見当たらなかったという客観的な事実も存在していたわけで、そういう事情からは、業務につかせるのも致し方なかったというしかありません。そして、結果的に事故を起こしてしまったということから、これが重大な損害を会社に与えたかということですが、もちろん損害は与えましたが、それは中根さんだけのせいかというと、いざというときに代わりの人を用意していなかった会社の責任もあるわけで、そうなると、責任は五分五分で負うべきだと思いますが…」

「というと…」

「ちょっと待ってください!」

大洗と惣野の声が同時に出た。惣野がかまわず続けた。

「急病人が出たときに、その人が出勤しないことによって、その人の責任を問うことはできませんよね。でも、今回は、急病人に匹敵する人を出勤させて、結果事故を起こしてしまったんですよね。無理やり出勤させておきながら、事故の責任を問わせるのはおかしいでしょう!」

「だから」と、大洗は、半笑いになって続けた。

「睡眠不足は急病人とは違うでしょう。私だって、昔は、仕事が忙しい時は、一睡もしないで2日間働いた時がありましたよ。顧客からの依頼を受けた以上は、それをやり遂げるのが仕事ってもんだからね。ま、運転の仕事と、私が携わっていた仕事は違うけれども、それくらいの意識をもっていなければ、仕事はこなせないもんだと思っていたからね。もちろん、今の時代は違うから、それを押し付けるつもりなないが、結果、仕事で失敗した以上、責任を取るのは当たり前でしょう」

というと、また一口お茶を飲み、大洗は窓の外を眺めるように上を向いた。


大洗正義(まさよし)、67歳。彼の経歴は、東関自動車整備工場という、東関グループの子会社で15年ほど勤務したのち、5年ほど、東関労働組合の執行委員を務め、さらに5年執行委員長を務めあげて、そののち、東関ハイヤーの部長に抜擢され、2年後に常務取締役、そしてさらに2年ののちに社長にのし上り今年で5年目という、たたき上げの人物だった。東関自動車整備工場に就職する前は、自営で整備工場を営んでいたらしいが、経営が思わしくなく、思い切って自分の工場をたたんで就職したらしい。そういう苦労をした人物らしく、言葉の端々には、かつて自分が経験した苦労話が織り込まれた。また、労働組合の執行委員長を長く勤めていたので、今の労組の執行委員とも気心が知れていて、交渉ごとになると大洗社長に対抗できる執行委員はいなかった。そういった環境もあって、もはや会社に何も異議申し立てする従業員はいなくなった。もちろん、春闘などは、形式的な要求書の提出と、会社側から回答を受けるという儀式が執り行われるのみで、僕が入社して以来、組合員の要求にこたえる回答とか、賃上げがされたとかいうことはなく、「「要求は出したけど、今年は賃上げはできませんでした」という労組の説明を、暗い顔してみんなで聞く、というのが毎年の恒例になっていた。

執行委員長の小笠原という人物は、歳は40代前半、東関株式会社では鉄道の運転手として入社し、17年ほど経過したのち、10年目から執行委員に就任し、その後執行委員長として、専属の仕事についてから3年ほどが経っていた。僕が入社したと同じ時期に執行委員長になったということだ。

見た目は生真面目風で、紙は七三に分け、黒縁の眼鏡をしていた。労組の集まりの時は、『何かあったら私に連絡をしてください』と言って、名刺を渡してくれるくらいの気の利く人物だと思っていたのだが、その後の労組の集まりを見ていて、ああこの人物も、労組を、出世するための足掛かりにしてるんだな、という場面が何回かあり、もう労組に期待することはしない、と僕は思うようになってしまった。要するに、いかにも従業員のための労組を装いながら、その実は、未来の経営者を目指すための育成機関として利用されていて、従業員の不満をいかにして抑えるかという課題が課された組織なのだということが、3年間の経過でいやというほど知らされていたのである。そして、大洗社長は、以前は彼と同じ執行委員長の立場にいた、大先輩なのだ。


「猫がいなくなったんです」

一瞬間が開いたすきに、僕の口からこの言葉がでた。それは、僕の意志とはかかわりなく、口だけが勝手に動いたかのようだった。

「アパートから、猫がいなくなったんです。その日、私が帰ってみると、どこにも猫はいませんでした。一晩中近所を探してみましたが、見つかりませんでした。出かけるとき、ドアのカギは閉めましたし、窓は開いていませんでした。それなのに、突然消えてしまいました。それが不可解で、朝まで眠れませんでした」

僕を見つめる惣野の目が厳しくなるのがわかった。この人、何嘘ついちゃってるのよ、と、その目は云っていた。

「なるほど、猫がいなくなったんですね。それはかわいそうに。私も犬を飼っていたんで、そのお気持ちはわかります。犬が病気になって死にそうなとき、仕事を休んで見守ってやりたかったですよ。でも結局は休みませんでしたがね」

というと、大洗はお茶を一口すすった。

「私の場合、結局は最後をみとってはやれなかったんですが、あなた方の猫の場合は、死んだのではなくて失踪したわけですから、それは全力で探してあげるべきでしょう。一睡もできなくなったのも、それはわからなくもない。人にはいろんな事情がありますからね。結果として体調不良になり、そして結果として事故を起こし、会社に損害を与えた。それは、管理者として、所長の大河原の責任もありますから、大河原にもある程度の責任を取ってもらいます。ただ、規定は規定なので、解雇については取り消すわけにもいかないですね」

「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当と認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする。労働契約法第16条にこうあります。社長さんはご存じですよね」

と惣野が大洗に言った。

「ずいぶんお詳しいんですね。私は法律に疎いので知りませんでした」

「はああ?社長さんなのに、こんな、労働契約に関する基本的なこともご存じないんですか。今回の件は、客観的に合理的な理由を欠いてますし、社会通念上相当とは当然認められませんよ、そうですよね、委員長?」

「え、まあ、猫の失踪が今回の事故の件に関係しているとは、客観的に合理的な理由とは言えないと…」

「そんな話してないですよ!何言ってんですか、労組の委員長なのに、話の内容も分からないんですか!ほんと、ダメな労組ですね!」

「なんだと、失礼じゃないか!」

「ダメな労組はもう黙っててください。いいですか、従業員が体調不良を訴えても、聞き入れてもらえず、休みを取らせてもらえなかった。これが今回の事故の大きな原因です。そのまま仕事をさせれば、事故を起こす確率は大幅に高まるのは、誰の目にも明らかです。体調不良になるのは、いつでもだれにでも起こりえることであって、それを理由に会社に損害を与えた責任を取らせることはできません。にもかかわらず、それを理由に解雇を迫るというやり方は、社会通念上相当とは認められないのは明らかです。そのくらいの判断は、一般常識じゃありませんか」

と言って、惣野は大洗をにらみつけた。一同の目が大洗社長に集まった。

大洗は、ちょっと目を細め、左上にあるモネの睡蓮の絵を見た。それにつられて、僕もその絵に目を移した。

その時、僕は、その絵の中に、なんだか人影を見たと思った。そう、それは、めぐみの姿だ。そこにめぐみはいた。

モネの睡蓮というのは、池の中から水面に浮かんできた睡蓮の葉や花が、池の水面に映った美しい姿を描いているのだが、その、池の水面に映った葉や花の中に混じって、人間の姿らしきものが見えた。それが、赤い服を着ためぐみの姿だった。めぐみは、明らかに僕の方に向いて、何かを訴えるかのようにゆらゆらと揺れていた。

「あ、」

と、お思わず僕は口にした。みんなの視線が僕に集中した。

僕は、お茶を一口飲んでから、もう一度絵を見てみた。すでにめぐみの姿は消えていた。

「え、今回の事故の件につきましては、私に全くの責任がないとはいえません。でも、やはり、解雇という選択を会社がとられたということにつきましては、とても残念です。先ほどから妻が主張している通り、責任は会社側にあります。しかし、今回の件でよくわかりました。この会社は、従業員の方を見ていない。労働組合も会社の方しか見ていない。となると、もういる価値はありません。解雇なら、失業保険もすぐに降りるでしょうから、それでいいでしょう」

僕を見た惣野の顔が厳しかった。

「ちょっと、何を言ってるの。解雇ってことになると、次に就職するときにそれが障害になって、まともなところには就職できなくなっちゃうわよ。もう人生おわりよ!」

「この会社に就職した段階でもうすでに終わってるよ」

「先ほどからうかがってますと…」

委員長の小笠原が、苦虫をかみつぶしたような顔をして割って入った。あるいは、本当に苦虫が口の中に入っているのかもしれない。

「私ども労働組合の悪口を言われているようですが、それは心外です。私は、どうにかこの解雇を取りやめにできないかと考えてご同行いたしました。そして、その方策もあると考えてます。でも、ご本人がその気がないのであれば、もう必要はないということなんですね」

小笠原が言い終わらないうちに、外で犬が遠吠えする声が聞こえた。おそらく、あの汚い犬だろう。

「だいじょうぶです。あなたは、頑張って会社のために従業員を抑える役割を果たして、将来の役員の地位を見事ゲットしてください」

と、僕が皮肉をあからさまに言うと、何を、という顔をして立ち上がるそぶりを見せたが、それを遮って惣野が言った。

「ああ疲れた。なーんだ、そんなら、わざわざ私が奥さんのまねして損しちゃった!じゃ、行きましょうか」

惣野は、僕の手を引っ張るようにして立ち上がった。ぽかんとする大洗と小笠原を残して、無言で僕らは建物を後にした。労組の建物の脇では、あのつながれた犬が、鼻をくんくんならせながら僕らを見送っていた。












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