第3話 社労士の女

その日、僕はアパートへ戻り、寝た。

めぐみの件を警察に届けようと思ったが、やめた。警察に届けても、無駄な気がした。日本では、年間数万人が行方不明になるということを聞いたことがあるが、警察がそれをいちいち捜査するとはとても思えなかったし、そもそも僕は警察を信用していなかった。

ベッドに入ると、カフカが横に寄り添ってくれた。カフカの存在が、僕の気持ちを和らげてくれた。


その日から3日間、めぐみは当然のごとく帰ってこなかった。めぐみの知り合いの連絡先も、考えてみると僕は誰もわからなかった。めぐみの両親はすでに亡くなっていたし、交友範囲もあまり広くなかった。それに、めぐみがいなくなったことを、あまり知られたくもなかった。

2日間は部屋にこもり、寝たり起きたりしていたが、三日目、僕は筑波山へと向かった。めぐみが筑波山へ行くのが好きで、年に二回は上りにいった。これ以上部屋の中にいるのも耐えられなかった。

まさかめぐみが筑波山にいるとも思えなかったが、僕はぶらぶら筑波山のロープウェー乗り場へと車を走らせた。

めぐみは、筑波山のロープウェーに乗るのが好きだった。ロープウェーからは、霞ケ浦や、太平洋、冬場はスカイツリーや富士山も見ることができた。そんなとき、「ほら、あれスカイツリー。こっちは富士山!」と言ってはしゃいでいた。しかし、今日は曇り空で、富士山もスカイツリーも見えなかった。

ロープウェーの中には、僕のほかに、老年のご夫婦が一組と、もう一人僕と同年代の女が一人向かいに座っていた。その女は、かなり丸い体をして、毛糸で編んだ黄色の帽子をかぶっていた。なぜかこちらを時々うかがうような目つきをしていた。

ロープウェーが頂上に着いた時、歩いている僕にその女が後ろから声をかけてきた。

「もしかして、中根君じゃない?」

振り向いて顔を見た。そういえば、その顔には見覚えがあった。

「あれ、ぞうさん?」

「象じゃなくて人間ですけど!」

それは、中学時代の同級生、惣野耐子という名前の女だった。最初はみんなから『そうちゃん』と呼ばれていたが、そのうちそうさんになり、そしてぞうさんと呼ばれるようになった。体形も、そのころから丸くて、そのあだ名にぴったりだったのだ。


「ふーん、それで、筑波山に上りに来たんだ。あんたって、あいかわらず、うかつだね」

筑波山の女体山の頂上のレストハウスに入って、今までのいきさつを話した後、惣野は苦虫をかみつぶしたような顔をして話し始めた。

「今までめぐみちゃんが出ていくようなそぶりは全然感じなかったんでしょう?でも結局は出て行った。それだけで十分うかつでしょうが」

「それはそうだけど」

「しかも、ほとんどさがそうとしてない」

「探す場所がないんだよ」

「それで、筑波山まできたんだ。筑波山にいるとおもったの?」

「そうじゃないけど、無駄に動き回ってもしょうがないでしょう!」

「こんな場所に来て、思い出に浸っているより、無駄に動き回っていたほうがまだましな気がする」

「あーそうですか。どうせうじうじした男だからね。それより、そっちはなんで一人でこんな場所に来てるんだよ?」

すると惣野は、窓の外の風景に目を移すと、ふうっと息を吐いた。

「実は、私今、社労士やってるんだ」

「え、シャロウシ?」

何やら聞きなれない言葉を耳にした僕は、こう聞き返したが、それを聞いた惣野が、目を開いてこちらを向いた。

「なにあんた、社労士知んないの?ほーんとに、世間に疎いんですね!社労士っていうのはね、社会保険労務士っていって、健康保険とか、厚生年金とか、労災保険とか、いわゆる社会保険の手続きなんかを、会社に代わってやってあげる、とーっても大事な仕事をしてる人なんです。それだけじゃないけどね」

「ふーん、でも、弁護士とか、税理士とかと同じく、士がついてるから、結構難しい試験を合格したんでしょう?」

「あったりまえじゃないの!合格率10%もない国家試験を合格しないとなれないんだっつうの」

「ぞうさんって、そんなにあたまよかったっけ?」

「そんなことどうでもいいんだよ。それより、その社労士の仕事で、なんだか息が詰まっちゃってね、それで、ちょっと高いところに上りたくなってここに来ちゃったんだ」

「ふーん、なにかあったの?」

するとまた、惣野は、窓の外の風景に目を向けた。

「私が顧問になってる会社の社長さんがね、さぼってばかりいる社員をうまくやめさせる方法を考えてくれって言ってきてるんだ。社労士になりたての頃は、働いてる人のためになる仕事だと思ってたけど、結局は、会社のいいように人を使うためにはどうすればいいかを考える仕事だって気づいちゃって、ちょっとメランコリーなわけよ」

「ふーん、なんかわかんないけど、考えてみればおれだって会社のいいようにしか使われてこなかった気がする。今回の、事故を起こして3日間出勤停止にされたのも、元をただせば俺が全然寝てないから仕事を休ませてほしいというのを、無理やりに出勤させられたせいだし、そもそも会社に有給休暇すらないのもおかしいよね」

「え、有給休暇、ないの?」

「うん、普通の会社だったら、有給くらいあるよね」

「あっきれた。それって労基法違反だよ。完全なブラックだね」

「え、そうなの?それって、会社の裁量で決まるわけじゃないんだ」

「やっぱりあんた世間に疎いんだね。有給休暇は、労働基準法第39条に明記されていて、これを守らないと、六カ月以下の懲役または30万円以下の罰金が経営者に課せられるんだよ。ま、形だけだろうけど」

「へー、そうだったんだ。じゃあ、うちの会社は、人で言ったら法律違反の犯罪者みたいなもんだね」

「ま、ばれなきゃいいでしょ、て感じで万引きしている、窃盗犯と一緒だね」

「そういう犯罪組織で働いていたとは…」

「ご愁傷様」

そういうと惣野は、運ばれてきたチーズケーキをフォークでうまそうにほうばった。

「そういえば、今の会社だけじゃなくて、前の警備会社も、なんか変じゃないの、ていうところがけっこうあったよね。たとえば、現場が9時からの契約なのに、集合時間は8時になってて、その間の一時間は時給が出ないとかね」

「よくあることね。集合が8時なら、8時からの時給を出さなけりゃ労基法違反ね。それと、前に施設警備やってたって言ったでしょう、その時、休憩時間とか、仮眠時間とか、施設の外に出るのは許されないし、何か事件が起きたらすぐに対処させられたよね。それって、休憩時間の定義からははずれてるから、本来ならそこも時給を払わなくちゃいけないんだよ。でもきっと、休憩時間は時給が出てなかったよね」

「そうなんだ!そこも時給が出てたら、もらってた給料より相当高くなってたね」

「そう。でも、実際の警備会社は、ほぼみんなそんな感じでピンハネしてる。ほかの会社も似たり寄ったりだよ。そして、労基署は、そんな実態を知ってても、動こうとはしない」

「どうしてなんだろう?」

「労基署は、所詮お役所だから。内部告発とかがあって、動かないとまずい状況になって初めて動くわけ。私も、前の会社にいたときに、これはおかしいんじゃないかっていうことがあって、労基署に行ったことがあるんだ。でも、そこで対応してくれるのは、労働基準監督官じゃなくて、委託されて来ている近所の社労士さんなの。で、その社労士さんが対応するのは、なるべく労基署の仕事が増えないように、あまり難しくないことは自分で対処してもらうように、うまくその場で話をまとめて帰ってもらうためなんだよ」

「えー」

「しょせんお役所のひとつだから、めんどくさい仕事はなるべくしたくないのが人情、ってもんなんでしょうね。なかには世の中を良くしたくて入った人もいるだろうけど、お役所の中に数年いると、お役所の人たちの色に染まっちゃうってことなんでしょうね。」

「腐ったミカンが伝染するようなもんか。なんか、悲しい現実だね。日本が、30年も世界から取り残されたのは、なんとなくわかる気がする」

「でも、労基署の人たちだけを悪者にするのもかわいそうなんだよ。だって、世界の先進国の中で、労働人口に占める労働基準監督官の割合が、最下位くらいに少ないんだから」

「やっぱりかー!結局、それは、日本の政治が悪いから、労働基準監督官が少ない、だから、ブラック企業が多いってことになっちゃうんだねー」

「ま、そういうことかな。でも、政治が悪いってことは、そういう政治家を選んでる私たちが悪いってことになるから、結局、まわりまわって、みんなが悪いってことになっちゃうのかもね」

「うーん、そうなると、もう出口なし、八方ふさがり、ってことなのか」

と、僕が下を向いて、注文したホットコーヒーを一口すすったときに、携帯が鳴った。








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