第2話 失踪
朝出勤したとき、僕の出した休暇申請書をみて、所長の大河原は露骨に嫌な顔をした。
「その日は出勤が少ないんだけどなー」
「でも、その日はどうしても予定があって」
という僕の言葉でも納得できない様子だった。
「予定って何よ?」
「実は、妻の父親の一回忌なんです」
「じゃあそう書きなよ。理由もなく休むなんてできないからね」
「はあ、わかりました」
それは嘘だった。本当は、めぐみの誕生日だったのだ。めぐみの両親はすでに数年前に亡くなっていた。めぐみは一人っ子だったので、それを機にめぐみの親類との付き合いはなくなっていた。大河原は普段は温厚なのだが、こういう時は、あとあとの部長や社長に報告したときの反応を考えると、どうしても嫌味な対応を取らざるを得ないのだろう。簡単に休暇ばかり取らせるな、現場が回らなくなってしまうだろうが、と言われるのがおちだ。
「ま、有給休暇じゃないのはかわいそうだけどな」と言って、大河原は受領してくれた。
東関ハイヤー株式会社には、有給休暇がなかった。だから、どうしても休みたいときは、その日は無給になった。
以前から、職場のみんなが時々疑問に思って大河原に聞くことがあったが、「ほかの会社も同じだから」とだけ返ってきた。
常磐線の石ヶ崎駅には、東関ハイヤーのほか、上郷タクシーと丸山タクシーという三社が乗り入れていたが、どこも有給休暇はなかったのだ。しかし、丸山タクシーでは、従業員の誰かが騒いで、それが契機となって有給をとれるようになったらしい。それ以降は、所長の大河原も「ほかの会社も同じだから」とは言わなくなった。
アパートのドアを開けると、カフカが飛び出してきた。カフカはいつも玄関でおとなしくしているので、そんな日は珍しかった。
「どうしたんだい、カフカ!」
さらに外へ行こうとするカフカを捕まえると、僕は中へ入ってドアを閉めた。捕まえられたカフカは、おろしてほしそうに体をもがいた。
アパートの中へ入ると、寝ているはずのめぐみの姿がなかった。
「めぐみ、めぐみ!」
なぜだか胸騒ぎがして、トイレやクローゼットなどをのぞいてみたが、どこにもいなかった。
携帯電話にかけてみたが、つながらない。留守番電話にもならない。めぐみに何かあったらしい。一通り探し回った後で、ベッドに座り込むと、カフカが僕の膝に載ってきた。僕はカフカをなでながら、涙が出そうになった。とりあえずメールで「どうしたの、どこにいるの?」と入れてみたが、当然のごとく返事はなかった。
その時、カフカが僕の顔を見て「なあ」と一声鳴いた。カフカが鳴くのは珍しかった。とてもおとなしい猫なのだ。
カフカは、全身が真っ黒の雌猫だった。1年くらい前に、めぐみが、捨て猫を拾ってきてしまったのだ。めぐみが勤めているスーパーの裏の駐車時で、駐輪場から自転車で帰ろうとすると、どこからともなく現れて、めぐみのあとをついてきたのだという。そのままほおっておくと車にひかれる恐れがある。アパートは、おそらく猫は飼えないと思われたが、だれかもらってくれる人が現れるまで飼おうといって、そのまま1年が経ってしまっていた。子供のいない僕たちにとっては、それは神様が恵んでくれた子供のように思えた。
カフカという名前は、めぐみがシシドカフカという歌手が好きだったところからきている。シシドカフカは、いつも黒い服を着ていて、チェコ語でカラスのことをカフカということからカフカという名前を付けたらしいのだ。そして、真っ黒な猫を見ためぐみは、考えることもなく、この猫をカフカと呼んだ。
カフカは、このアパートが猫を飼えないのをまるで知っているかのように、ほとんど鳴くことがなかった。たまに、餌を与えるのを忘れたり、トイレの砂を換えてほしい時などに、「なあ」と鳴いた。「にゃー」ではなく「なあ」と鳴くところも、めぐみのお気に入りだった。
その日、僕はまんじりともせずに、カフカとともに一夜を過ごした。
携帯電話は、静かなままだった。まるで僕の代わりに眠っているかのように。
そして次の日、所長の大河原に事情を話した。
「駄目だよ今日は、茨エレの送り迎えがあるんだから、急に言われても替われる人いないから出てもらわなくちゃ!」
「でも、一晩眠ってないんですけど。事故起こしちゃうかもしれないんで」
「送り迎えだけやればいいから。その間眠ってればいいじゃん!それともお前が誰かに頼めるか?」
茨城エレクトロニクスという企業の送り迎えの業務は、僕とあと2人の人が変わりばんこでやっている業務で、僕のほかの2人は今日は休みなのだった。
仕方ないので、僕は一睡もできないまま仕事に行った。朝のお迎えの仕事の後に、めぐみの件は警察に届けよう。
「寝てないんですけど、大丈夫でしょうか?」
「大丈夫もくそもあっか!居眠りすんなよ!」
所長の大河原は、それだけだった。
茨エレの送り迎えは、10人乗りのトヨタハイエースで行われた。土浦駅の一つ手前の荒磯駅から福山工業団地まで約10キロ、定員5名を輸送するのだった。10人乗りなのに定員5名というのは、コロナのために密集を避けたためだ。
荒磯駅を出発する8時半になるまで、茨エレの従業員が一人ずつ乗り込んでくる。その間、僕は眠気をこらえるのに必死だった。コーヒーを飲んでも眠気は収まらない。おまけに、めぐみのことが頭から離れなかった。今頃めぐみはどこにいるのだろう?
8時半になり、車を出発させた。大通りからいったん狭い路地に入り、また大通りへと出る。その一時停止の場所で、僕はまためぐみのことを考えてしまった。僕の車は、一時停止の停止線を少し出たところで止まった。
その時だった。左から、自転車のブレーキ音が聞こえ、僕の運転する車の前方左側に接触して、転倒した。30代くらいの女だった。車内には小さなどよめきが起こった。僕は慌てて車から降り、女を助け起こそうとすると、その女はこちらをにらんだままゆっくりと起き上がった。
「急にでてくんな!」
顔をゆがませてこちらをにらんだその女の顔は、般若に似ていた。
その後、警察を呼んで現場検証したり、代替輸送の車を頼んで乗客を輸送したりするのに一時間以上を要した。その日のうちに社長から呼び出しを食らい、以後3日間の出勤停止と、事故を起こした罰として3万円の給与天引きを言い渡された。売上が3日間ゼロになると同時に、3万円を引かれてしまうので、給料はおそらくいつもより8万前後減ってしまう。
「急遽、休みだった天野に出てきてもらって帰りの便は頼むことにした。茨エレからは、業務に支障をきたしたとお叱りの電話をいただいたよ。もうお前にはこの業務は任せらえないから、ほかの誰かに頼むしかないな。全く、人が足りないのに困ったよ」
相手の女性は手のひらを軽く擦りむいたらしいということで、それでも人身事故扱いになってしまった。会社としては、人身事故を起こしたということで、陸運局からの指導も入るため、当然社長は機嫌がいいはずはない。
「今後の処遇についてはまた連絡するから、謹慎してなさい」
と社長は言って、その場は終わった。
大河原が社長にどういう風に報告したかは知らないが、すべては僕のせいにされているようだった。僕は、めぐみの件もあり、反論する元気もなく、無言のまま処分を受け入れるしかなかった。
営業所に戻ると、大河原がいた。大河原は激怒していた。居眠りすんなと言ったろう、三日も出勤停止で、どうやって営業所回すんだよ、もうやめるつもりか?
大河原のお小言を聞いた後、めぐみが勤めているはずのスーパーへと向かった。
スーパーは、営業所から2キロほど離れたところにあった。スーパーの従業員に聞いて事務所に向かうと、そこには店長さんがいた。
店長さんに事情を話すと、店長さんから帰ってきた返事は、めぐみは一週間ばかり前に店をやめていたということだった。なんでも、夫の転勤で引っ越すのが理由とのことらしい。ということは、計画的にめぐみは姿を消したのだ。僕の目の前の景色が、急に暗くなった。
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