第1話 ブラック企業に三年目

「中根さん、まずタイムカードを先に押して。お金を数えるのは後だよ」

と、集金係の小平が言った。

今は夜の1時15分。地方のタクシー会社なので、夜通し営業しても乗る客はほとんどいない。だから最終電車で乗る客が終われば、それで営業は終了となる。

「コロナがまた多くなったんで、全然売りあげ上がんないや。今日も2万にもなんないよ」

「休みばっかし取ってるからじゃないの?」

と、小平からの皮肉が返ってくる。朝の6時半から夜の1時過ぎまで、休み時間は1時間半しかとっていない。休み時間を多くすれば、当然それだけ売り上げも上がらないからだ。

「明日またがんばるよ。でも、明日もこんな感じなんだろうな」

今日の分の水揚げと伝票を小平へ渡すと、僕は自分の軽自動車へ乗り込んだ。

タイムカードを押してから売上を数えろというのも、考えてみればおかしな話だ。タイムカードを押すというのは、そこで仕事が終わったということだから、仕事が終わった後に金を数えろというのは、金を数えるのは仕事じゃない、ということなんだろう。車を洗うのも、タイムカードの前にすると叱られる。全くおかしな話だが、そういう関係の法律の知識がない僕には、正面切って争うことはできなかった。「お前は犬なんだ」と言われて、ワンと吠えるしかない、そういう猫になったような、悲しい気分だった。


自宅のアパートへ戻ると、当然のごとく妻のめぐみは寝ていた。もちろん、昼間彼女はスーパーのレジのバイトをしているので、夜遅くまで起きているわけにはいかない。

『いつも苦労かけてごめんね』と、めぐみの顔をながめながらこころのなかでつぶやいた。

「あ、お帰りなさい。今日も遅くまでご苦労様」と、薄目を開けてめぐみは言った。

「起こしちゃってごめん。寝てて」

「うん」と言うと、まためぐみは目を閉じた。


めぐみとの出会いは、14年前にさかのぼる。そのころ僕はとある生活協同組合の配送職員だった。僕のいる配送センターへ、新卒のめぐみが配属されてきたのだ。

「本日からお世話になります。どうぞよろしくお願いします」

センターの入り口に入ってきた、4人ほどいる新人の中で、一人だけの女性の新人というのは、そこだけが輝いて見えるものだ。みんながその女性の新人に注目した。


センター長が説明する。

「今年は新人が8名入協しました。そのうち3名が女性で、そのうちの一名がこのセンターになりました。みなさん優しく教えてあげてください」

そのめぐみのトレーナーを、29歳の僕が任されたわけである。

最初、女性相手にどのように扱えばいいのかとまどったが、めぐみは特に気を使わなくても、ほかの男性職員と同様に、弱音を吐かずにがんばっていた。


やがて、仕事の帰りに一緒に食事に行くようになり、自然な流れで、休みの日にはデートをするようになった。

その後、当然のごとく付き合うようになり、2年後、当然のごとく結婚した。


僕たちには子供ができなかった。不妊治療を受けたほうがいいんじゃないの、と親たちは言ったりしたが、僕たちは自然のままに任せたほうがいいと思っていた。子供ができないなら、できないままでいい。もちろん、めぐみが子供を欲しがるのではないかと思ったが、彼女も僕と同じ考えだった。

「子供は欲しいけど、子供を作るのが目的になるのはいや」が彼女の口癖だった。


『誰にでもできる簡単な仕事』というのが生協の職員募集のキャッチフレーズだった。あまりがつがつ稼ぎたいという思いを持っていなかった僕は、東京の大学を卒業すると同時に、このキャッチフレーズに惹かれ、地元の生協へと入った。

しかし、生協の配送というのは、生活必需品を一日40か所以上に配送すると同時に。、新規組合員の獲得とか、共済の勧誘とか、おすすめ商品の獲得とか、とにかくノルマを毎日課された。しかも、一か所約5分でこなし、配送ミスをすればまた戻らなければならない。のんびりした僕にとってそれは、地獄の日々だった。「協同組合」という名前に騙されて、のんびりした世界を想像していた僕にとって、社会生活というのは我慢の連続に他ならなかった。

そんな中でのめぐみとの出会いは、まさに「地獄に仏」という言葉そのものだった。

 

僕とめぐみとは、僕が31歳の時に結婚した。めぐみは25歳だった。

めぐみはそのあとも1年間は生協で働いていたが、体がきついからといって、結局はやめてしまった。その4年後、僕は転職した。36歳の時だった。

別に生協が「ブラック企業」だと言いたいわけではないが、日々の業務はかなり詰まっていて、中間管理職の人たちは当然のごとくサービス残業をしていた。中には突然死した人もいて、おそらく過労死だろうという噂が立ったが、心臓発作ということで処理されたらしい。そのうちに経営的に苦しくなり、希望退職を募るようになって、僕はあとさきを考えずに手を挙げてしまった。めぐみには言いづらかったが「いやなところにいるより、ほかを探せばいいよ」と、さらりと言われた。


転職活動は、思ったより困難だった。

36歳という年齢が、思った以上に足かせだった。ハローワークに行くと、年齢の上限はほとんどの企業では書いてなかったのだが、実際書類を郵送してみると、結局は年齢によって足切りをしているらしく、たいていは「ご希望に添えませんでした」という言葉とともにことわりの手紙が送らせてきた。ある時テレビのバラエティー番組で、杉本大輔という、元国会議員のタレントが、ハローワークの求人票に年齢制限を入れないように働きかけたのは私だ、といったトークを誇らしげにしていたのを観たことがあった。こいつが元凶だったのだ。結局政治家というのは、現場がどういう状況になるのかを考えることなく、自分の成果をあとで誇れるためにのみ動くのだろう。高年齢の人が転職活動しやすいように、求人票に年齢制限を設けないように指導しました。さあこれで、年齢に関係なく転職活動ができますね。これもひとえに私の力があったからですよ…。

しかし、この年齢制限の撤廃によって、実際は、余計に転職活動に時間がかかるようになってしまったのだった。求人票に年齢制限がないからと思って応募書類を提出してみると、若い人材がほしい企業は、その年齢を見てただ断りの手紙を出すだけなのだ。そして、僕の転職活動は、その繰り返しによって時を削られ、気力をそがれていった。


そして約一年が過ぎようとしていた。失業手当もすでに切れていた僕は、とりあえずちゃんとした仕事が見つかるまでのつなぎとして、とある警備会社に就職した。


その警備会社は、セーフティーサービス株式会社といった。


セーフティーサービス株式会社は、地元のスーパー、「マルツク」で常務だった上堂という男が立ち上げた、「マルツク」を警備するための会社だった。

土浦市という地方都市の工業団地の一角の、二階建ての建物の二階に、その警備会社はあった。行ってみると、妙にだだっ広い空間に、いくつかの衝立で区切られている空間に、簡素な事務机が固まっておかれていて、そこに固定電話やパソコンがあり、5,6人の人々が電話対応やパソコン事務をしていた。警備の計画は配置運営などをここで行っているらしい。それにしても、いかにも、以前倉庫だった場所を、急ごしらえで事務所に作り替えた、といった感じだった。確か創業してから10年は経っているはずだったが、10年間こんなところでこの人たちは仕事をしていたのか、と、僕はちょっとあきれてしまった。夏場だったのでエアコンが作動していたが、エアコンだけでは間に合わずに窓が全開になっていた。

「私はね、」と、社長の上堂は話し始めた。「もともと茨城県の警察本部にいたんだよ。かつて天皇陛下が茨城をご訪問された時があって、その際の警備を私が任されたこともあったんだ。でもね、ある時私の兄の経営するスーパーマルツクで、一緒に経営に携わってほしいと言われてね、それでしばらく一緒にマルツクの経営を担当していた。数年のち、それまで外部に委託していた警備を、自前でできないかということで、私がこの警備会社を立ち上げたんだよ」

上堂といえば、地元では名の通った財閥だった。マルツクを創業したのは、上堂義勝といって、約40年ほど前に小さなスーパーを立ち上げ、その後次々と出店を繰り返し、やがてはスーパーだけでなく、ファミリーレストランやホームセンターなどの経営を始め、それらの社長に上堂一族の親族たちが就任していた。

「これが、入社に必要な書類だよ。これをそろえて、三日後に来てもらえるかな。」と、紙を渡された。そこには、住民票や、健康診断所、免許書のコピーなど、入社に必要な書類の数々がリストアップされていた。

「はあ、でも、一回目の面接をしたばっかりですが、入社手続きを始めてよろしいんでしょうか?」

「なんだ、何か問題でもあるのかね?」

怪訝そうな顔をする社長に、何も言い返せなかった。

「いえ、特にありません」

「それでは、三日後にまだ来られるかね?」

「はい、わかりました」


そのようにして、セーフティーサービス株式会社への入社は決まった。

入社してからは、警備員への電話連絡、警備研修の準備と後かたづけ、そして、時間がある時に、地域を廻って、大きめな企業に対する営業活動に連れていかれた。

とあるとき、研修の前準備で、研修内容の紙を配っていた時だった。社長が部屋に入ってきて、配っていた紙を見るなり、

「なんだ貴様ら、違う紙を配ってるじゃないか、すぐに取り換えろ!」と怒鳴った。

「はい、わかりました」

一緒に紙を配っていた、課長の下条さんが頭を下げる。面接のときに見せていた、温厚そうな笑顔とは真逆の、人を見下ろすような社長の態度に、僕は驚かされた。しかも、『キサマ』という、戦争映画で、上官が部下に向かって怒鳴りつけるときのセリフでしか聞いたことのないセリフを言われたことに面食らった。

その時のような、社長の豹変する態度は、その後たびたび起こった。電話対応がなってないとか、警備の計画が遅いとかで、僕の周りの人たちは一日に一回は社長の、そのような「キサマは…」のお小言をもらっていたのだった。

そして2週間ほどしたあと、あなたも警備の経験をした方がいいからと、4日間ほど警備の研修を受けさせられた。そして、4日後、研修が終わったと同時に警備服を着せられ、その日の夜から、スーパーマーケットの警備の研修についた。

スーパーマーケットの警備は、午後8時から午前1時までだった。現場に着くと、先に、普段その場所で警備を担当している黒田さんという人が来ていた。

「どうも、ご苦労様です。本部の仕事を終わったあとなんですね、大変でしょう」

黒田さんは、僕よりやや年上に見えた。痩せていて、人がよさそうに見える。

「あの社長の下で働くのは大変ですよね。なんて言っても、人を虫けらか何かのようにしか見てないから」

と笑った。

「もっとも、中小企業の社長なんて、みんな似たり寄ったりですけどね。私が昼間働いている、焼き芋工場の社長も、いつも従業員を怒鳴り散らしてますから」

黒田さんは、朝の9時から17時まで地元の焼き芋工場で働き、その後、週に3日、この警備の仕事を行っているという。

「娘がまだ中学生なんで、焼き芋工場の給料だけじゃ足りないんですよね。当分、我慢して働くしかないです、ははは」


そのようにして、気が付くと、僕は、あっちの現場、こっちの現場と、人が足りなくなっている警備現場へと行かされるようになっていた。

そのようにして、2カ月が過ぎた。

そしてとある日、課長の下条さんから電話がかかってきた。

「今度は、万引き警備の研修を受けてほしいんだよね。明日、マルツク土浦店でよろしく」とのことだった。


そして、マルツク土浦店での、一日だけの研修ののち、今度は社長から電話かかかってきた。

「実はね、マルツク神栖店というところの、保安警備をしていた人が辞めちゃってね、明日からそこに行ってほしいんだよ。なあに、警備服着て店歩き回ればいいんで、万引き犯捕まえなくても問題ないから」


 そして、翌日から、僕はマルツク神栖店という、自宅から車で一時間半くらいかかる店に、保安警備員として出勤するようになった。後で事情を知ったところでは、何かのトラブルで、その店の保安警備を担当していた人が急に辞めてしまい、急遽穴埋めとして僕が駆り出されたということらしかった。

マルツク神栖店には、僕のほかに、店の全体の管理をしている、新綜合警備保障という大手の警備会社の警備員が、3名ほど常駐していた。そこは、マルツク以外にも、スポーツ用品店や、ゲームセンターなどが入るショッピングセンターだったので、警備体制もそれなりに必要だったのだ。

マルツク神栖店に行き始めてから1カ月くらいたって、なぜか、会議をするから来てくれと言われ、マルツクの事務所に僕は呼ばれた。

そこには、マルツクの店長や、新総合警備保障の警備員が5名ほどいて、なぜかその真ん中に私は座らされた。これじゃまるで、裁判の被告人尋問じゃないか、と僕は思った。

「ここのところ見ていると、中根さん、制服着て店を歩くだけで、万引き犯を捕まえてないですね」

と、新総合の警備員が始めた。

「以前の担当署は、週に一人は万引き犯を捕まえてたんですよ。中根さん、やる気あるんですか?」

そういわれた私は、なるほど、と思った。これは、私に対するつるし上げだっだんだ。本当は、僕は、万引き犯を捕まえるのを期待されていたのに、社長の言うことをうのみにして、のほほんと店の中を、警備服を着て歩いているだけだったのだ。道理で、最近、新総合警備の警備員たちが、僕にたいしてよそよそしい接し方をするようになったのかが分かった。

「すみません、ここに来る前、社長から、万引きを捕まえるのはしなくてもいいからと言われていたもんで」

と、うまい言い訳も考えられなかったので、ぼくはありのままを言うしかなかった。


その後、当然のように僕はその現場を外され、以前のようにあっちの現場、こっちの現場を回されるようになった。

人からの伝え聞いたところによると、神栖の現場は、その後、違う、保安警備の専門の人が行くようになり、万引き犯を捕まえて成果を上げているという。そして社長は、「中根が言わなくてもいいことを言うから、こっちの信用がなくなった」というようなことを言っていたらしい、


それを聞いた私は、その会社を辞めることを決めた。


セーフティーサービス株式会社を辞めてから、僕は途方に暮れてしまい、ほとんど就職活動をしなかった。めぐみは、何も言わずに、黙々とスーパーのレジ打ちのアルバイトに行き、帰ると、僕の作った夕食を食べて、寝た。スーパーのレジ打ちは、夜の9時までかかることもあるので、そのあとで夕食を作るわけにもいかない。時には、「今日は疲れてるから」といって、食べないで寝てしまうこともあった。仕事もしていない僕のことを、どう思っているのだろうか、ほとんど文句らしいことは言わなかった。


セーフティーティーサービス株式会社を辞めて、僕はほとほと就職するのが嫌になってしまった。もちろん、めぐみにそんなことを直接言うわけにはいかない。

「やっぱり、違う職を探すからには、それなりの資格を取った方がいい気がするんだ」という言い訳をして、僕はハローワークの職業訓練にかよった。

ハローワークの職業訓練は、三カ月だけだが、一か月10万円を支給してもらいながら通うことができた。

とりあえず、「労務管理コース」という、よくわからないが、とんな職業にも通用しそうなコースを選んでみた。

労務管理コースの職業訓練は、荒川沖という、自宅から車で約20分の所にあるビルで行われた。一日の内で5時間の授業があり、2時間はパソコンの授業、2時間は簿記の授業、そして1時間が労働法の授業だった。基本的にはどの授業も、入り口程度の知識を教えるもので、卒業時はパソコンの資格試験だけがあった。僕は、ワードとエクセルの資格をとって卒業した。

職業訓練が終わると、さすがに就職しないわけにもいかず、ハローワークで目に付いたいくつかの物件に応募し、とある派遣会社に就職が決まった。


土浦派遣株式会社という派遣会社を通して、僕は、JCつくばというケーブルテレビの、債権回収係をやることになった。派遣期間は3カ月で、その後も契約の更新があるという内容だった。

「僕は怒り方がきついよ」という、鎌田という上司について二日程地域を廻った。『怒り方がきつい』とは、最初何を言ってるのかわからなかったが、あとでそれはわかった。

三日目から、一人で地域をまわるようになった。仕事の内容としては、二か月間ケーブルテレビの代金が引き落とせなかったお宅を訪問して、お金を回収するか、支払いの約束をする、というものだった。


約二週間して、人間不信に陥った。

テレビの代金を支払えない人たちだから、お金がないのが当然なのはわかる。お金がないならないなりに、それなりの説明をしてもらえば、それなりの対応ができる。しかし、たいていの場合、家に人の気配がするのに出てこないか、出てきて、支払いの期日を約束しても、その日に訪問すると、8割方は留守だった。また、振り込んでおきます、といっても、約束の期日までに振り込む人は半分もいなかった。お金が支払われていなくても地上波は視聴することができるというのも、一つの原因ではあった。しかし、人によっては、毎回のように支払期日を約束して、それを破るのだった。人というのはそういうものなのだろうか。


4時半くらいになると事務所に帰って事務処理をした。回収したお金があれば、入金処理をして、ケーブルテレビの開通のための事務処理をパソコン上で行う。しかし、この事務処理が複雑だった。

とあるとき、この複雑な事務処理のやり方を鎌田に聞いた時のこと、めんどくさそうに僕のパソコンのところにやってきた鎌田は、「ほら、こうやってこうやってこうやるんだ!」といって、処理の実務を勝手に終えると、全然教える気もなく去っていった。なるほど、そういう人なのか、とわかった僕は、その後は隣の席の丸山という先輩に聞くことにした。

しかし、とあるとき、また開通処理をしなければならない時が来て、隣に丸山さんがいないので、仕方なく鎌田にまた聞くしかなかった。すると鎌田は、「こんなの一回で覚えろよ!」といて、また同じくこうやってこうやってこうやるんだを繰り返した。

その数日後、最後定時の6時を過ぎようとしても、僕は事務処理を終えられなかった。周りの人たちはもう皆帰っていて、僕と鎌田だけが残っていた。2分くらい過ぎたところで、鎌田が怒り出した。

「おい、いつまでかかってるんだ!子供じゃねえんだから時間になったら終わるようにしろよ!」

「はい、すぐ終わります。すみません」と言いながらも、時間をちょっとすぎただけで激怒する鎌田に、意味が分からなかった。

家に帰ってから焼酎を飲むのが楽しみ、と以前鎌田は語っていたが、焼酎を飲む時間が遅れるというだけの理由でこんなに怒り狂う人間がいることが驚きだった。


その数日後、僕は課長から呼び出され、別室へ連れ出された。

「中根くん、きみ、事務処理を教えても一回で覚えられないんだってね。」

課長の眉間にはしわが寄っていた。

「鎌田君が言ってたよ。事務処理も覚えられないんじゃ仕事にならないって。これからは一回で覚えるように、いいね。」

『それは鎌田が教える気がないからではないですか』と、僕は心の中で叫びながらも、

「はい、わかりました」

と答えるしかなかった。


その三日後、僕は部長に、退職を願い出た。

退職といっても、派遣会社を通しての就職だったので、実際には三カ月の契約を更新しないまま打ち切るということだった。

「また鎌谷に辞めさせられたか」と部長がつぶやいた。「来た人はすぐに辞めちゃうな。」


それから一カ月我慢して仕事を続け、そしてまた僕は職を失った。


それから約三か月後に、とある警備会社に就職した。

ハローワークやネットの就職情報で職を探していたが、すでに39歳になろうとしていたぼくに、有利な条件の職場はほとんどなかった。まして、経験といえば生協の配送と警備と債権回収、それらはやりたい職業とは程遠かった。贅沢といえばそれまでだが、いやいややってみて、結局すぐやめてしまう、その繰り返しになるのが怖かった。というか、すでにその繰り返しの沼にはまっていた。

会計事務所の補佐、外国からの労働者の補助をする業務、ガス会社の営業、損害保険の手続き事務など、目につく仕事に応募してみたが、ダメだった。またまたブランクを作るわけにもいかず、というか、すでにブランクを作りまくっていたので、これ以上作るわけにもいかずに、また警備会社に就職した。

今度の警備会社は、守衛の業務を主にしているところだった。一日24時間働いて、次の日は明け番というシフトになっていた。守衛なので、以前の交通警備のように一日中立ったままというわけではない、そのため、体も楽だろうという思惑から就職してみたのだ。

朝8時から翌朝8時までの24時間拘束で、夜は交代で4時間の仮眠が取れた。そのほかに4時間の休憩時間があり、計8時間は労働時間じゃなかったため、1回あたり16時間労働ということになる。最低賃金と同じ時給だったので、一日約15000円、ひと月14回の出勤で約21万だった。ボーナスはない。40になろうとしている人間でも、警備業で働くと、それくらいの給料で働いているということになる。そして、それは決して安い方ではなかった。もっと安い給料で働いている警備員はたくさんいるのだ。


守衛の業務は、比較的楽だった。以前の警備会社の仕事のように、一日中駐車場で立ってるとか、スーパーの店内を一日中歩いているといったものではなく、研究所の入り口で座って、出入りしている人を監視しているか、施設を巡回していればよかった。

しかし、月に一二回ほど、県内にあるサーキットや博物館の駐車場を警備するという臨時警備をやらされることがあった。特にサーキットの駐車場の警備は、朝5時に集合させられるため、朝の3時に起きていかねばならなかった。にもかかわらず、時給は仕事開始の6時からの計算だったのが解せなかった。

この仕事も、そろそろ2年が経とうとしていた。手取りで16,7万では、貯金などまともにできるわけがなかった。僕も、もうすでに40になっていた。


40歳で貯金ほとんどゼロ。それが現実だった。めぐみとは財布を分けているので、

めぐみがいくらためているか正確にはわからない。それでも、レジ打ちのパートをしてためられるお金は高が知れている。子供がいないのは不幸中の幸いだが、それでも今のままではいけないと思っていた。

様々な職業に応募して、結局断られるのは、経験がないから、ということらしかった。経験といえば、運転と、警備と、接客対応くらいか。

そして、それなら、タクシーの運転手くらいしかないか、と思った。そう、今よりは収入も上がるだろう。めぐみに言ってみると、「あなたが思うようにすればいい」とのことだった。


そして、東関ハイヤー株式会社に入社した。ここでの勤務も、そろそろ三年目になろうとしていた。




















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