第三話 役割分担(一)

 倉山幸利くらやまゆきとしは、日曜日の夕方、とある雑居ビルの前を行ったり来たりしていた。


 三十前に異例の管理職への出世を遂げてからというもの、幸利の仕事の忙しさには拍車がかかっていた。


 だが、忙しさにかまけて肥満になりがちな同僚たちを尻目に、幸利は日曜日のジム通いを欠かさない。


 その日も幸利はパーソナルジムの帰りだった。一般のスポーツジムとは異なり、パーソナルジムではトレーナーが個人客のニーズやスケジュールに合わせたプログラムを組むなどし、効率よくモチベーションの維持もしやすい。


 妻の美里みりは、幸利が健康維持のために日曜日のジム通いをしたいと言うと、笑って許した。おかげでスタイルは大学時代に体育会系の部活で鍛えた頃とそう変わっていないという自負が幸利にはあった。


 だが、そんな幸利を不安にさせているのはその美里だ。


 このところ美里は、幸利が家を空けている日曜日、近所のママ友に子どもたちを預けてどこかに行くことがあるようなのだ。


 たまたま日曜日の予定が突然キャンセルされて幸利が急きょ帰宅したとき、妻と子どもたちが家にいなかったことがあった。


 携帯端末は家に置きっぱなし。夕方に子どもたちと返ってきた美里は、いったい何をそんなに騒いでいるの、と気にも留めない。ケンカになり、幸利が無理やり聞き出したのは、ネットカフェという答え。子どもたちはママ友に預け、誰にも邪魔されたくないから携帯端末は家に置いておき、ネットカフェに入り浸っているのだ、と。


 そのとき、幸利はそんなことで怒って済まなかったと謝ったが、後で考えてみて、なぜ携帯端末を家に置いておくのか、おかしいと思うようになった。


 ある日曜日の朝、携帯端末を家に置いて子どもに何かあったらおまえが駆け付けなくてどうするんだ、そう幸利が詰め寄ると、美里は、あろうことか、わたしが駆け付けなかったら誰が駆け付けるのかしら、と言った。


 それで、幸利はその週の日曜日の予定をキャンセルして美里を尾行した。幸利はいつものようにジムに行く、フリをした。ジムにはふだん、バスと電車を乗り継いで行っている。一台しかない自家用車は妻と子どもたちの移動用に家に置いていた。


 幸利はこっそりとタクシーを呼び、近所のうちが呼んだように見えるように、家の前からかなり離れた角の家の前に停車させた。車内から自分の家の玄関を監視する。タクシーの運転手には急な仕事の連絡が入ったからと言って発車させずに待たせた。


 まるで幸利が出かけるのを見計らったように、ほんのしばらくすると美里は出てきた。化粧や格好がいつもより派手ということもない。美里は、子どもたちを自家用車に乗せると、発車した。


 タクシーに尾行するように幸利は言った。仕事だ、と幸利が言うと、運転手はとくにそれ以上訝しがることもなかった。


 美里は幸利の知らない家やマンションを計四件回った。子どもたちはその度に預けられ、ついに車には美里だけとなった。そして、美里は少し街から離れた郊外の大きなネットカフェに入った。


 幸利は尾行がバレないようにそのネットカフェには入らず、美里の車を停めた場所だけ確認すると、タクシーにはそのまま繁華街に向かうように言った。


 数時間後に同じネットカフェに寄ると、妻の車はまだ同じところに駐車されてたままだった。


 それから、幸利はジムからいつも帰ってくる時間に帰宅した。


 美里はいつものように幸利を出迎えた。幸利は、ネットカフェが出会い系の待ち合わせ場所として使われることがあると知っていた。


 三人目の子どもが生まれたくらいの頃だっただろうか、どことなく美里が他人行儀になったように幸利は感じ始めていた。


 浮気に違いない、幸利はそう思うようになった。


 素行調査を依頼しよう、そう思って幸利はインターネットで検索するなどして調べたが、どこも高いことがわかった。日割りで費用が発生する上に、成功報酬というわけでもない。どいうやら少なく見積もっても何十万円もかかるようだった。


 いくら幸利が高収入のサラリーマンといえどもシングルインカム。家計をあまり圧迫するわけにはいかない。美里には秘密にしておかなければならないのだから。


 かといって、幸利が自分でつけ回すのにも限界がある。なにより貴重な日曜日をそんなことに使いたくないという思いが幸利にはあった。


 鬱々としているそんなとき、幸利は、帰宅途中の駅前で、真っ黒なスーツにはちきれんばかりの胸を詰め込んだ妙齢の女性がビラを配っているところに出くわした。


 スーパーロングの漆黒の髪に清楚なメイク。これといって特徴はないが、誰からも好かれそうな優しい顔立ち。背は高くスレンダーだが、胸はやたらとデカい。露出などほとんどないのに、その大きすぎる胸はむしろ露出しているときよりも存在感を醸し出していた。そして、彼女は大きなメガネをかけていた。そのせいで、ふつうのスーツがなぜかコスプレのように見えてしまう。


 裏通りや繁華街ならともかく、駅前で風俗店のビラを堂々と配っているのはヘンだな、と思いつつ、その女性に引き付けられるように幸利は近づいていった。


 幸利がビラを受け取ったとき、その女性は幸利に向かって微笑みを浮かべた。幸利はまるで自分を誘っているような気がした。


 幸利はそのビラを眺めた。


「無料素行調査いたします。動画作成に匿名で協力していただければ、依頼人の負担はゼロです! 辻浦真宮子つじうらまみこ探偵事務所」


 そのビラには幸利の目の前の女性がまるで選挙ポスターのようなポーズで微笑んでいた。

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