ああ、また今日も生きてしまった。

 闘争心を持たない者に、牙を持つ事は叶わない。今日も牙の生えないまま、朝ごはんの咀嚼そしゃくに全力を注いでいる。その様なつもりで、もう何年も経ってしまった。両親は僕を野垂れ死んだとでも思っているのかもしれない。僕の方も、今更連絡を取るつもりにもなれなかった。きっと野垂れ死ぬだろう。それも二人だ。僕はいよいよ不幸の源だった。

 夢追い人は、僕が生きているだけでも素晴らしいと、しきりに伝える様になった。どうにも自殺志願者に見えているらしい。そんなつもりなら、わざわざ転がり込んでみせるものか。しかし生きてみせようと思っているのなら、後先を考えない行動を取るのはおかしい。時に僕はどの様に生命を保っているのか不思議に思っていた。何度か、もう既に死んでいて、これは全て幻覚に過ぎないとも考えた。その度に、夢追い人の存在を夢にまで見る事についても思いを馳せた。嫌だった。僕は仕方なく今いる場所を現実だと思って生きているらしかった。死んでいてほしいとも思えなかったので、生きていた。死んでいる方が良かったのかもしれない。それだけは、生きていなければ分からない事だ。

 何度か、死んでいた。そう思える程に堕落した日々を送っていた筈だ。一日文章と向き合うのを忘れ、それが二日、三日と増えていき……それが一週間にわたって続くと、我に帰って焦燥感を取り戻す。そして今度は一日中文章と向き合い続けて疲れ果てた後にまた……堕落に浸るのだ。つまり、寝込んでいた。アルバイトには行っていた。ただ、それ以外は寝たきりの老人と変わらない姿だった。夢追い人もそうだ。お互いに、生きる気力は既に使い果たしてしまっていた。そんな筈はなかった。しかし、今は否定するだけの気力さえも無いらしい。僕は、既に僕を捨ててしまっている。

 そうやって、今日も生きてしまっていた。死にたくはなかった。死にたいと思える程に、生きていなかった。だから既に死んでいるのだろうと思っていた。思っていなければ、いよいよただ心臓が動き続けているだけの、それだけの……。

「……なあ、今いいか?」

 夢追い人だ。何が今だ。今ならいつもある。いつも過ぎ去っている。皮肉のつもりなのだろうか。気づけば一拍置いていた。後もう少し過ぎていれば、何も話さないつもりだった。

「いつも寝込んでいるのに、今も何もないだろう」

「じゃあ言わせてもらう。今日から、残りの日々を本気で生きてみないか?」

「……本気っていうのは」

 夢追い人は僕の声に構わず口を開く。

「いいか? これから先、ずっとこんな療養生活を続けていたら、そのうち本当に病人になるぞ! いやもう既に病人だ! 見ろ、今の俺の姿を! 布団に入って、横になって、甲斐性もなけりゃ生きる気力もない! そんなのは病人だ! 世間が何と言おうと構わない……そのままじゃあ本当に病人のままだ!! いいのか!?」

 言われてみると、腹が煮えくり返る様だ。何という言いぐさだろうか。病人を何だと思っているのか。そんな道徳的な事に思いを馳せる余裕も無かった。怒りだけが、絶えず残っていた。燻っていた筈の感情だった。それに任せて夢追い人を怒鳴りつける代わりにするべき事が一つ、残っている。




――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

「ここにはもう、一人だけなのかと思っていた。いつからここに?」

「白々しいね。あんたがここに連れてきたんでしょう。忘れたの?」

「冗談さ。だが、今はもう二人だけだ。これから先、それでも生きていくつもりなのか?」

「……あんた、自分が命を助けた相手に死を願う趣味なんてあるんだ。道理でいけ好かないと思ったよ」

「皮肉を言える元気があるなら何とかなりそうだ。これからは、いくら嫌でも俺と二人で生きていかなけりゃならない。正直、俺は嫌だ」

「あら、どうして?」

「生きていこうとしているからだ。こんな、若草も芽吹かない様な所でだ。どうして俺を付きあわせようとする? 一人で勝手にしていればいい」

「じゃあ見捨てていればよかったのに。素直じゃないね、あんたも」

「そうだな……」

「何さ、言いたい事があるなら言いなさいよ」

「……昔、俺と一緒に旅立った者がいた。今よりも穏やかで、特に旅立つ理由も無い時代にだ。旅の途中、そいつは病に倒れた。聞けば旅を始める前から既に罹っていたらしい。俺にできる事は無かった。もっとも、不治の病だから、元々何かできるという事でもない。彼女は日々弱っていった。その時、俺は彼女との二人暮らしでな、他に頼りも無かった。やがて彼女が力尽きるまで、俺は側にいた。今でも覚えている。骨の形が浮かぶ体に、幾つも赤黒い発疹が出て、酷く痛むと言っていた。俺は泣き続けていた。泣きたいのは本人の方だろうにな。彼女は俺の泣き腫らした顔を見て、よく笑顔を浮かべていた。そうでなければ、やっていられなかったのだろうな」

「……あたしが悪かったよ。そんな話聞き出して……」

「……まだ終わっていないぞ。いや、もう分かり切った話か。まあなんだ、生きていれば、良い事もあるものだな。これからお互い、頑張っていこうや」

「言われなくても! あたしはここらで一人で十年生き延びたんだ。負けないよ!」

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――




 台詞の勢いに反して、僕は精魂尽き果てようとしていた。だが、妙に心地よかった。死する直前の、桃源郷を垣間見る瞬間ではない。生きる喜びの中に僕はいた。明日もここにいるのだ。どうしようもなくここにいるのだ。そうして明日もまた、生きてしまったと嘆くのだ。だが、死ねば骨身も残るまい。死ぬべき人になれるものでもない。そうやって明日も、辛うじて生きているのだろうと思った。それさえできていれば可能性は残る。死ねば嘆く事さえできはしない。嘆いていようと思った。

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