そしてまた。

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「何を言われようとも、私はやるぞ! 世界を滅亡させる支配者になってやる……」

「まったく、どんな寝言だよ。ほら帰るぞ。奢ってもらえる時だけ呑むような調子のいい奴に、世界も何もあるものかよ。あるのは欲だけじゃないか」

「……何が寝言だって、寝言だって言って、何のつもりだよこの野郎……愚痴に付き合ってもらったくせに、少しくらいこっちの愚痴を聞いてくれたっていいだろうが」

「そんな風に損得勘定をするんじゃないと言っているんだ。世の中はそう単純に解決できる計算じゃないんだから」

「うるさいな。だからそういう風にしてやろうってんだよ……そういう風に……平和になるみたいに……ってやるってんだよぉ」

「やるなら勝手にやれ。その時には、呂律が回るようにしておけよ。酔っ払い」

「なんだよ、ちくしょう。何でうまくいかないんだよぉ……あんなに綺麗だったのに……あの風景……どうして何も守れないで、騎士なんて名乗っているんだ私は」

「目指したからだろ、お前が。愚痴を言う前に守ってやれよ。お前がやるんだろ」

「……私が……」

「ほら、帰るぞ。お前がどれほど嫌でも、明日は訪れるんだ」

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 そのうち、大学は自然と卒業していた。親がそうしたように、追い出されたのかもしれなかった。不思議とあの時と比べて不安は少なかった。望みは年々と減り続けているというのに……生活は問題なく続いていくと、漠然とした感覚ばかりが心を支配していた。逃避にしては随分と呑気だった。それとも、始めから逃げてはいなかったのだろうか?

 そもそも何から逃げていたのだろうか。何を恐れていたのだろうか。逃避ばかり続けてきて、その目的まで置いてきてしまったようだ。いよいよもって、何の変哲もない一般人と成り果てていた。この安穏とした雰囲気の源は、どうも諦観らしい。死を選ばなかった事が不思議でたまらなかった。夢追い人がいなければ、新聞記事にもならない死に様だったろう。それもこれも、執筆に比べれば些細な事柄だった。しかしその事柄を必要ともしていた。矛盾だった。

 もはや、生きていたいとは思えなかった。しかし死にたくもなかった。生きていれば死んでしまえるとは言え、今であってほしくはなかった。しかし今に訪れるものであるとも分かっていた。だから、どうにか先延ばしにしようとしているだけなのだ。だがそれは、自分の意志による結果ではないのだろう。生きていたいとは思えなかった。どうして生きているのだろうか。夢追い人は作家になる為だと言ってくれた。僕には、そうは思えなかった。ではどうして書いているのだ? なぜ書いているというのか? 理由もないのに続けているのなら、その理由を探しているとでも言えばいいのだ。どうしてそれさえ分からないでいるのか? いや、分からないでいるという認識はおかしい。だからこれは、それを分かっていてなお、不明を保っているというわけだ。ただの愚か者に違いなかった。


 何もかも、終わりに近づいていくばかりだ。文章もそうだ。人生もそうだ。今食べている朝ご飯もそうに違いない。どうせ尻からひりだしてしまうだけのものに、どうにも気にかけている自分が馬鹿らしかった。今更、そんな風に厭世えんせいの風を気取ったところで、自己に執着している様を散々に見せつけてきたのだから、全くの無意味だった。だから顔では幸福を表現していた。内心は乾き切っていた。

 そしてまた、雨が降った。夕方だった。それ以外のどの時でもない記憶も共にあった。そうやってまた、踏みつけられて、潰れて、死んでいく……軟体の、柔らかい感触の、気持ちの悪い寂しさを、どうにか喉元から先に出ないように押し込めていた。顔には出ていなかった。そんな筈はなかった。出てほしくはない顔色だった。だから出てきていたのだろうか。夢追い人が丁度、その顔色を窺っていた。僕はこれを伝えないように様々な工夫を凝らしてみた。が、ものの五分で諦めた。

「……先に言っておくが、聞いて気持ちのいい話じゃない。吐く程でもないが、特に救いもない。ただ終わっていただけの話なんだ。……僕は、こんな雨降りの日に、夕方に、蝸牛かたつむりを……確かに、この足で、右足で、足の裏で……潰したんだ。潰していたんだ。そんなつもりは毛頭なかった。だから余計に唐突で、全身に伝わるような気持ちの悪さで……殻が割れて、そこにまだ動いている軟体があるんだ。僕はそれが恐ろしい。なのに何度も思い返すんだ。特にこんな雨降りの日なんかは……踏んだ感触と、それを埋葬する自分の姿と、もう一匹、踏み潰してその感覚と……もうどうしようもないんだ。どうにかなることじゃないんだ。僕には、これから先の日々を生きていく自信がない。そういう思い出があるからじゃない。そういう思い出が積み重なっている自分をどうにか保全していくような……行動を、作用を、どうにも生み出せそうにもない。最近はずっと擦り減っているだけなんだ。若さは失われて、老いが迫るばかりで、アルバイトだっていつまでも続けられる訳じゃない。体だって、これまでの食生活を続けていたら壊れていく一方だろう。僕は、踏み潰されてうごめくばかりの軟体と変わらない。むしろ軟体の方が……そうやって生まれてきたから……僕よりもその方が……余程強いんじゃないかって……」

 怒っていた。夢追い人の方だ。何かを言いあぐねていたが、何を言わんとしているのか、不思議と僕には分かっていた。いや、誤解だったのかもしれない。どうであれ、僕はすぐに謝罪をした。咄嗟に出てきた言葉は印象などない淡泊なものだった。だが、僕がどのような失態をしたのか、それだけは分かっていた。僕は夢追い人の機嫌を害して、その上で、これから何事もなかったかのように日々を過ごすつもりでいたのだ。あんな話をして、普段通りも何もあったものではなかった。その日、夢追い人はもう口を利かなかった。いずれ明日になり、快晴を見た。僕はまだ機嫌を取る方策を練っていた。もちろん、そんなものは思いつかなかったので、普段通りに過ごす他に成す術もなかった。夢追い人は変に上機嫌だった。話しかけられるまで、僕は黙っていた。

「なんだ? ああ、昨日の事か。いや、もういいんだ。君もそういうところがあるんだと思っていたんだ。あの時は怒っていた訳じゃない。ただ、何か発破をかけようと思って……何も思いつかなかっただけだ。話し出せば、きっと怒りを噴出させるだろうと思った。君は傷ついていると告白しただけなのにな。それはおかしいと思った。それだけさ。君は何もおかしなことを言った訳じゃないんだ。ただ、互いに動揺していただけだ。そういう時は、誰にでもあるものだ。そうやって弱さを抱えて生きていけばいい。逃げようったってそうはいかない。かと言って立ち向かう事もできない。それなら一緒にいるしかない。観念してしまえば、後は生きるだけだ」

 良い助言とは思えなかった。しかし、それ以外にできる事もなかった。僕はやはりそうやって微かに生きていくのだろうと思った。そしてまた、あの様に錯乱するのだろうと思った。やはり、生きていたいとは思えなかった。

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