かたつむりの夕べ。

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「やっと訪れたか。今日という日をどれだけ待ちわびた事か。さあ、我を殺せ! 世界の平和の為に、我を打ち倒してみせよ!」

「……その前に、聞きたい事があるんだ」

「なるほど、命乞いよりは価値がある言葉だな。何だ?」

「魔王はこれまで、ずっとこの世にいるんだよね。どうして世界は滅びていないの?」

「それが目的ではないからだ。我はこの世に平和をもたらそうとしている。その為には、我は倒されなければならないのだ。我を滅ぼす者が現れなければ、この世は平和にはならない」

「じゃあ、魔王はどんな悪い事をしたの? 人を殺してしまったの? 集落を一つでも滅ぼしたの? 例え何をしていても、魔王が全ての悪事を生み出す事なんてできないよ。本当は、魔王を倒しても、世界は平和になんてならないでしょ?」

「……なるほどな、君は中々に賢いようだ。いかにも、我を打ち倒したところで、この世に平和が訪れるとは限らない。しかしだ、人というのは、何かが滅びる事によって生き延びてきただろう。今まで、人は数多くの殺戮を生み出した。我が何をしても、この世などというものに平和は訪れないのやもしれぬ。それでもだ。我が彼等を滅ぼせば、それで全ては失われる。例え君がどのような言葉を投げかけようとも、世界平和の為には、我は滅ぼされなければならないのだ。全ての、悪辣の象徴として」


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 これまでの人生の中で僕は、蝸牛かたつむりを二回踏み潰した。小学生の頃だ。僕はささやかながら埋葬をして、手を合わせて冥福を祈った。罪悪感を少しでも減らそうとしていたから、そうしたのだ。その精神を見破られたからか、僕は今、絶え間なく停滞し続けている。

 しかし、これを蝸牛のせいにするほど、愚かな人間にはなりたくなかった。この停滞が自分のせいである事は百も承知だ。その考えが、自分を無邪気な愚かさから遠ざけていた。だから僕は人に迷惑を押し付ける事もできず、こうやって一人、悶々もんもんとするだけなのだ。そういう時は、決まって夕方だった。地平線に横たわる半円が黄金色の輝きを一帯に広げていた。僕は、その輝きに包まれて、静かに消えてしまいたかった。

 割れた殻と、柔らかに苦しみ喘ぐ軟体が、脳裏にこびりついていた。僕は何度もそれを見ていた。何度も見つめ返していた。ずっと前に埋葬した筈の蝸牛は、僕の視界に何度も現れていた。強烈に思い返していただけだというのに、何度も、何度も。しかし僕は、その悲しみの象徴よりも、自分の足の裏の感触の方が、その残酷さの方が余程おそろしかった。僕はあんな事はしたくなかった。犯人はそうやって、僕の心に何度も生まれては、言い訳がましく叫び、消えていくのだ。その度に、蝸牛は何度も踏み潰されるのだ。夕陽が沈み、雨が降った。そういう時は、決まってその事を思い出す。


 夕ご飯は、久しぶりにカップラーメンを食べた。引っ越しを済ませたあの日、一緒に食べたあの味だ。そういえば、約束を取り付けられたあの日の天気はどうだったろうか。雨は降っていなかったかもしれない。降っていてほしいとも思えなかった。例え降っていたとしても、そのように思い返す事はないだろう。雨は、苦手だ。今日も湿り気が一帯を覆っていた。あの日の蝸牛は、どこにもいない筈なのに。

「どうだ? おいしいか? いや、おいしくない訳ないもんな。お湯を足すだけの食べ物が不味くなる筈がない」

「……どうして僕だったんだ?」

「なんだよ、いきなり」

「ずっと思っていたんだ。他の誰でもよかった筈なのに、どうして僕だったのか。知り合いだったから? 弱々しくて、慰めてやりたかったからなのか? 他の誰でも、代わりになるだろうって……」

「なるほど、そうかもな。でも君は今そこにいるだろ。それで何も言う必要なんてないさ。確かに君である必要はなかったかもしれないが、それは平行世界を見て、あの世界の方が居心地がいいかもしれないと言っているのと同じだよ。自分から朝ご飯作り出して、炊飯器を買わせて、冷蔵庫まで動かしておいて、今更言ったって遅いぜ」

「確かに、そうだ。おかしいな」

「そうさ。おかしいさ」


 蝸牛の事は、話さないでおいた。




 朝になった。布団から起きて、まずはセットしておいた炊飯器の様子を見る。次に卵を溶いて、油を広げたフライパンの上に流し込み、ぐちゃぐちゃにしてしまう。卵に少し焦げ目が付いたら皿に移して、空いたフライパンでソーセージを焼く。そのうちお湯も温めて、お椀とインスタントの味噌汁を出しておく。夢追い人を起こす。生き生きとする朝だ。ここ最近は、毎日この生活だった。

 相変わらず、それなりのおいしさだった。同じ品目ばかり出していた。そういう生活を僕は望んでいたし、夢追い人もそのつもりらしかった。毎日おいしそうに食べるのだ。僕はともかく、彼はこのままでいいのだろうか。コンビニ弁当ばかりを食するよりはいいかもしれない。裏を返せば、それくらいの利点が朝ご飯の概要なのだ。それだけの事で、僕は彼の関心を買っているのだ。違うだろうか?

 あれから自分の作品は見せなくなった。見せられるだけの物語が、完成していなかった。このまま、世間の日陰に身を寄せている生活を続けたかった。彼も催促はしなかったが、僕は分かっている。彼は決して、僕に朝ご飯を作らせる為にここにいさせているのではない。彼は僕を責めない。僕を裏切るような事も、少なくとも今まで一度もしていない。だが僕はどうだろう。僕は、彼を責めずにいられるだろうか。彼を裏切らずに、真っ当に生きていけるのだろうか。今日は味噌汁の味が少し濃い。お湯が足りなかったようだ。彼は丁度よかったと言っていた。僕がお湯を入れたのだ。僕が、お湯を入れたのだ。他の誰でもなかった。むせた。それは味噌汁のせいではないと、僕は分かっていた。

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