過ぎ去る日々の一つ。
例えば、この前に寝た時から急に数ヶ月が経過していたとしても、誰も気づかないだろう。それこそ、その期間を過ごしている筈の自分でさえも。ひとりが、ふたりになったところで、生活に変化は訪れない。変化は能動的な者にこそ訪れるのだ。待ち望むだけの者には、決して訪れないものなのだ。もちろん、僕に訪れてなどいなかった。
昨日、やっと原稿用紙との格闘が済んだようだった。何か言葉を聞かされたような気がしたが、何も覚えてはいない。一つ、そのような自分にでも記憶できた言葉があった。
「君は、僕よりも夢を追うに値する人だ。それだけは間違いない」
僕は、夢追い人の方にこそ、その価値が付与されているべきだと思った。きっと、それは才能だ。僕はそんなものは欲しくはなかった。仮に、僕が才能を保有していたとしても、より才能を持ち合わせている人に気づくだけだ。そうなるくらいなら、
僕は、おそろしい。ここから出ていく事が、ここにいる事が、彼を遠ざける事が、彼に近づく事が……何もかも、僕を傷つけるだけだ。それなのに、僕は近づいていくのだ。そのように決断するのだ。僕はいよいよ変態染みていた。狂っていた。そうであってほしくて、そのような言葉を思い浮かべて、文を作ってその時、僕はやはりそうではないのだ。期待するばかりで、結局自分は何にもなれないままだ。僕は憧れを持ちながら、憧れが生じさせる恐怖に寄り添っていた。その恐怖の為に憧れを保っていた。憧れは、一生叶えられる事はないのだろう。かわいそうだ。
僕が、そうしているのに。
カップ麺が尽きると、今度は半額の弁当を買ってきた。栄養よりも、エンゲル係数が気にかかっていた。しかしそれは一番の懸念ではなかった。来年も同じ生活をしていられるだろうか。彼は保険に加入しているような人間には見えなかった。僕の方も、大学を卒業した後の保証はできない。就職活動をして、組織の中で毎日八時間の労働……規則正しい生活……身だしなみ……僕にできている事は何一つとしてなかった。そう、僕には真剣さが欠けているのだ。現代的な生存本能が、「まあいいか」という甘ったれた気持ちにすり替わっている。僕の人生は、死に近づくばかりの生になりつつある。今でさえそうであるのに、大学を卒業した後はどうなってしまうのだろうか。死んでしまうのかもしれない。それだけで死んでしまうのなら、今だって……。
そうやって、今も作家志望だ。それだけは間違いなかった。そんな事は、間違っていた方がいい。そんなに作家になりたいのなら、コンテストだろうとなんだろうと、作品を持ち出す先など幾らでもあるのだから、そうやって羞恥を世間に差し出すべきなのだ。そうではなくて、こうやってひとつどころで尻込みをするばかりなのだから、そんなのを生きていると呼称するくらいなら、死んでいる方がいい。それ程に確実な状態である方がマシだ。なのにどうして生きているのだ!
「なあ……少し休んだ方がいいんじゃないか。君は思い詰める癖がある。別にそこまで慌てなくても……」
「少し、後少しだけ、放っておいてくれ」
「……ああ、分かった。ちょっと買い物にでも出かけてくる」
僕は、自分で彼を遠ざける事さえできないでいる。子供だった。歳ばかり取ってしまった、それだけの子供だった。作家志望だった。どうしようもなく作家志望だった。死んでしまいたかった。それでいて、生きようとしていた。どうして毎日欠かさず栄養を得てしまうのだろう。何も口にしなければ、自然と生命活動は停止する筈だ。僕はそれさえも中途半端なのか。いや、それだけは中途半端でなければならない。どこかで自分が止めなければならない。僕は、死から自分をできる限り遠ざけなければならない。それだけは、自分がやらなければならないのだ。どっちだ。僕はどっちなんだ……。
「今日はちょっと豪華だぞ。かつ丼と牛丼。それとサラダまで」
「どうしてこんなに? 今日は何か特別な日だったか?」
「いや。でもいいだろ。別に毎日特別な日でもさ。子供の頃なんか、ずっとそうだった。いつからか、そうではなくなってしまったみたいでな。妙だと思った。大人というものになれたと思ったが、そうでもなさそうだしな。そもそも、大人なんていう人間は、本当はどこにもいないのかもしれないだろ? なら、いつでも子供になれる筈だと思った。それだけさ」
「ならやっぱり、今日は特別な日じゃないか」
「いや、これが特別なら、そうそう訪れるものじゃないって事だ。子供の頃はそうではなかった筈だ。なら、今だって普通の日だよ」
「どっちだよ」
「ありふれている特別さ。それはもう普通と変わらない。そうだろ?」
今日は、そんな日だった。
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