失われるなら、存在していたのだ。

 夢追い人は、今日も原稿用紙と顔を見合わせていた。何も聞く気にはならなかった。ただただ長く連なっただけの文章を見て、それで何を考えていたとしても、僕の為にも、彼の為にもならないだろう。そう思っていた。おそらく、半分くらいまでは読み進めていただろうか。どうであれ、僕は僕のすべき事をしなければならない。僕はそのような軽薄な言葉を並べていた。その度に消して、その度にまた連ねていた。気が狂っているのかもしれなかった。

 それなら、きちんと気が狂っていてほしいものだ。気が狂う事さえも中途半端で終わってしまうのなら、それにさえ本腰を入れていなかったという事になる。その通りだった。

「……成程、ここであれがこうなって……やっと繋がってきたな。ここまで長かった……だからあの描写がなされていたんだな。とするとあの台詞も……」

 僕ではない。僕は、あそこまで何かに熱中する事ができない。だからここまで、熱狂せず、冷静にもならず、淡々と続けてきたのだ。人生もそうだ。僕は、褒められるような行いは全くできていない。人並みに生きていく事を望んでいる、人並みに努力できないばかりの人だ。失われるだけの望みを抱えている人だ。

 そうだ。失われるなら、存在していた筈だ。存在させていたものが、そこにある筈だ。どこであっても構わない。知覚できるだけのものが、そこには残っていた筈なのだ。裏を返せば、失われるものが何もなければ、何も持ってはいなかったのだ。僕はこれまで様々なものを失ってきたような気がしていたが、実は何も失っていなかったのかもしれない。失った事に気づく程に、期待を寄せていなかったのかもしれない。僕は何か、大切なものを失っているような気がしてきた。悲しくなった。涙がこぼれてきた。いよいよもって不審者の様相ようそうだった。

 モニターに隠れて、僕の表情は見えていない。声も出していないので、泣いているという事もばれてはいないだろう。夢追い人は今も原稿用紙に意識を囚われている。黙っていれば、にさえならない。何にもならない……ここで一人、気持ち悪いだけだ。それだけだ。世の中は平穏一色なのだ。そうであってほしいと、期待を寄せているだけなのか。


 夢追い人は、きりが付かない原稿用紙にお手上げの様子だ。もう真夜中だった。そうだ。夕ご飯を食べていない。まともではなかった。明日はバイトの日であったような気もする。いや、それはもう今日の話だろうか。過ぎ去った時の流れを追うので精一杯だった。カップ麺を持ち出して、お湯を入れた。二人分だ。ちゃぶ台の上にそれらを置くと、彼もやっと空腹に気付いたようだった。

「お、悪いな」

「元はそっちのものだろ。勝手にされて、腹が立ったりしないのか」

「空腹で倒れるよりはいいよ。昨日も危うくそうなるところだった」

 なんて奴だ。こんなろくでもない人間の住んでいるところに、僕は潜り込んでしまったのか。しかし今更出ていく訳にもいかない。しかも、僕だってろくでもない人間なのだから……傍から見ればお似合いだろう。急に馬鹿馬鹿しい気分だ。そうだ。僕の方も、別に善良な常人ではないのだ。

「……なんか、お前朝ごはんに食べてそうだな」

「ははは、そりゃいいな。明日からそうしよう。君も、そんな冗談を言うんだな」

「僕だって生きている。これくらいの事は言うよ。後、もう今日だ」

「君はとことん几帳面だな。いや、別に構わないけどね……」

 煙草たばこでも吸い始めるような雰囲気だ。灰皿もないのにそう思った。急に場の空気を支配するような雰囲気があった。沈黙だった。カップ麺をすする音が部屋に響いていた。今になって、部屋に備え付けられた冷蔵庫が、コンセントから外れて機能を失っている事に気がついた。そのような事が気にかかる程に、妙な静かさがあった……そして結局のところ、一人でいる時と、さほど変わらなかった。

 そのうち、寝た。自分で持ってきていた布団を敷いて、後は何も話さなかった。大した事は話していないので、ここにわざわざ私生活を開陳かいちんするのはよしておこう。これまで、それと同じような事ばかりしてきているが、構いはしない。今更何も隠す事などない。その上で、わざわざ書き連ねるような事はしていなかったと、そういう訳だ。寝る前にだらだらと話し続けていたら、寝るに寝られず夜通し語らう事になってしまう。僕はそこまでの阿保ではない。

 そうやって、失われた会話が一つあった。それは確かだ。存在していた筈の会話が立ち消えていった事は確かだ。そんな事が、そこまで気にかかるものだろうか? 失ったものばかり気にかけてどうしようというのだ。今腕に抱えているものを気にかけるべきだろう。


 僕は、そんなものは一つも持っていない。だから、こんな事をしているのだろう。こんな事には何の価値もない。だから、価値を持たせようとしているのだろう。全くの無駄だ。無駄だった。何度もそう気づいた筈だ。どうして今も、まるでその事に気づいていないように……まるで気づく度に、別人に成り代わっているように……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る