第10話


 封筒を誰にも見られないように瀬浦の下駄箱に入れた後、空いた席に水谷の姿を思いながら授業を受けていた。いつもは騒がしいはずの廊下も恐ろしいほどに静かな1日だった。あの封筒が効いたのだろうか。何も変わらない日常に一石を投じたような気になって少し誇らしかった。

 その放課後、真紀のいる病室に赴き封筒の事や朝会ったときに里奈から「今までありがとう」と言われたことを話した。

 話した後で嫌な予感が頭をよぎる。どうしてすぐに気がつかなかったんだろう。真紀も同じ予感が走ったようですぐに立ち上がろうとして大きくよろめいた。土田は真紀の体を支えると自分の着ていた上着を羽織わせて2人でこっそりと病院を抜け出し姉妹の住むアパートに向かった。

 部屋に上がっても里奈の姿は見当たらず机の上には里奈の字の置き手紙があった。

 そこにはこれから瀬浦たちに復讐を行うこと、すべて自分の責任であり自らもそこで死ぬこと、それから真紀への感謝の言葉が延々と書かれていた。

 警察に告発するのではなかったかと土田は疑問に思ったが事態は一刻を争った。

 2人は次に学校に向かい二手に分かれて里奈を探した。部活動も終わったあとで真っ暗な校舎に職員室だけが光っている。人影のない校内を走り回っていると旧校舎の方から煙が上がっているのが見えた。

 旧校舎は建物全体が橙色の炎に包まれ暗闇の中に浮かび上がっていた。バチバチと弾けるような音を立てて所々崩れ始めている。

 そういえば真紀はどこだろう。確かこっちの方に行っていたが校門で分かれてから一度も見ていない。

 まさか。

 旧校舎の前に立つ。入り口付近はまだそれほど燃え広がってはいない。まるで土田が入ってくるのを今か今かと待ち受けているかのようだ。そして一歩踏み入った自分を一瞬のうちに飲み込んでしまうのではないか。

 そんなことを考えながら立ち尽くしていると奥に人の影が見えた。真紀と里奈だ。真紀が里奈を担ぐような格好でこちらへ向かっている。里奈は無事なのだろうか。瀬浦たちはどうなったのだろう。疑問が渦巻く中で火はさらに勢いを増している。今は2人を建物から救出しないと。

 考えるより早く燃え盛る旧校舎に飛び込んだ。里奈を背負う真紀は何か言おうとしたようだったが呼吸が乱れていて声にならなかった。足もひどくふらついている。土田は里奈の体のもう半身を背負い3人4脚のような形で出口を目指した。

 出口に差し掛かったところで真紀は里奈の顔に手を当てていた。何をしているのだろうと思いながら一歩踏み出したところで建物が大きく揺れ始め、獣の咆哮に似た豪音が響いたかと思えば頭上が崩れ落ちてきた。

 その瞬間強い力で背中が押され、土田は建物の外へと放り出される。受け身を取れないまま唸る地面に転がって振り返った時には原型を留めない瓦礫の山が炎を高々と渦巻いていた。

 前を向くと何人もの大人たちが騒いでいたが何を言っているのかはっきりと聞き取れない。まるで薄膜の中にいるようだ。

 最後に背中を押したのは間違いなく真紀だったはずだ。なら真紀はどうなったのだろう。隣に倒れている人影が真紀なのか里奈なのか、視界がぼやけてよく見えない。

 土田は駆けつけてきた数人の先生に担がれると倒れ込むように気を失った。



 暗闇の中で自分の名前を呼ぶ声がする。

 目をこすり顔を上げると数学の北島先生が板書をとっていた。横で真紀がやっと起きたか、と笑う。その笑顔に見惚れていると真紀は授業中にも関わらず話しかけてきた。

「私ね、ずっと雅成くんのことが好きだったんだよ。あの日、私の命を救ってくれた日から。多分君は覚えていないんだろうけどさ」

 そう恥ずかしそうに言ってまた笑った。

 えっ、と思わず声が漏れた。

「土田、おい聞いてるのか」と先生に呼ばれ慌てて背筋を伸ばして前を向く。

「ほら、ちゃんと前向かないと」茶化すような口調で言う真紀に対して「君だって」と先生に見つからないように横を向くがそこに真紀の姿はなく机と椅子が一組ぽつりとあるばかりだった。

 先生はまだ土田の名前を呼んでいる。よく見ると黒板全体が歪み始めている。何が起こっているのかもわからずに渦の中に呑まれていく。土田はこれが夢だと悟った。

 目を開くと北島先生が土田の名前を呼びながら肩を揺すっていた。

「無事でよかった。とりあえず今は休め。後で何があったかきっちり聞かせてもらうからな」そう言って土田の肩を叩く。

 そのとき土田は中学を卒業しクラスメイトとの打ち上げを終えた日、引っ越す前日のことを思い出していた。

 その日、せっかく仲良くなれた友達と離れ離れになるのが嫌で家出したのだ。父はいつも仕事のことばかり考えて息子のことなんて全く考えていない。そもそもこの引っ越しだって父の仕事の都合によるものだった。しばらくの間どこか遠くへ行って父を困らせてやろうと駅で電車を待っていると目の前の母と娘が仲良さそうに手を繋いでいるのが目に入り母のことを思い出した。

 いつも自分を大切に思ってくれた母は病弱で家を出ることはあまりなかった。だから母と手を繋いでどこかへ出かけた記憶もあまりない。それでも学校行事には車椅子に乗ってでも見に来てくれた。自分のために精一杯尽くしてくれた。そして母が亡くなる前夜、母は父のいない病室で「お父さんは不器用なところがあるけど仲良くしてね。喧嘩なんかしたら許さないからね」と言って笑っていたことを思い出し、家出を思いとどまった。

 駅を通過する快速特急が近づいたとき突然さっきの母親が娘の手を引いてその電車に向かって走り出した。無理心中しようとしているのだとすぐにわかった。娘が後ろにいた自分に向かって手を伸ばしている。咄嗟に土田も手を伸ばしその手をがっしりと掴んだ。

 突然ブレーキがかけられた母親は驚いた顔をしながら振り返るも速度を落とすことができずに娘の手を離してしまい、そのまま電車の影に消えていった。

 今日までのすべてのできごとが誰かの犠牲の上に成り立っている。残された者はその犠牲を偲びながらも前を向いていかなければならない。

 そういうことなのだろうか、真紀。

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