第3話


 席替え後も水谷は、なんの本を読んでいるのか、とか、何部に入っているのかなどと声をかけてきたが土田は不器用な返答しかできなかった。水谷もそんな土田をつまらないと思ったのかそれ以上首を突っ込むことはなかった。

 土田は会話すら続けられない自分が嫌いだったがどうすることもできず、いっそのこと嫌われて話しかけられないことを望んだ。

 

 放課後いつものように帰路についていると前方に水谷の姿があった。彼女はバレー部に所属しているため普段の帰りは遅いはずだが左足首に湿布が貼られているのを見るに怪我で練習を休んだのだろう。おそらく原因は六限の体育だ。帰りのホームルームで彼女が隣の席にいなかったのは保健室に行っていたのだろう。

 同じ時間帯に帰ることはなかったのでそこで初めて帰り道が自分と同じ方向なのだと知った。おぼつかない足取りで歩く彼女を抜かさないように歩を緩めた。変に抜かして声をかけられるのが面倒だった。

「あれ、土田くんもこっちなんだ」

 突然自分の名前を呼ぶ声がして顔を上げると水谷がニッと白い歯を見せていた。明眸皓歯とはまさしくこのことをいうのだろう。

 内心ではしまったと思いながら不自然に思われないように「うん」と絞り出した。

 それ以上話すこともなかったので「じゃあ」と続けて先を歩いて行こうとすると水谷はちょっと待って、と呼び止めた。

「せっかくなら一緒に帰ろうよ」

「だ、だめだよ。瀬浦って人と付き合ってるんでしょ。こ、こんなところ見られたらまずいよ」後ろを警戒しながら声を顰めて早口に言う。

 すると水谷は目を丸くしプッと噴き出した。

「なんでそんなことになってるのよ。確かに何回か誘われたことはあったけど付き合ってはないよ。彼って何でもかんでも自分の思い通りにならないと気が済まない、みたいなところがあるの。この前告白された時に断ったことを根に持ってるんだと思う。だからそんな噂流してるのよ、きっと」

 そうなのかと納得し、変な噂に流されていた自分が恥ずかしくなった。

 そのまま同じ道を2人並んで歩いた。特に話すこともなかったが水谷が質問を振ってくれたからそれに答え、同じ質問を返した。他人に興味を持ったこともなかったから人に質問するというのは新鮮だった。



 次の日、台風が近づいているようで授業時間が繰り上がり早めに下校することになった。放課後の部活動が無くなりこの日も水谷と一緒に帰ることになりそうだな、と胸を高鳴らせていた。

 しかし水谷は帰りのホームルームが終わるとすぐ自分の荷物を置いたままどこかへ行ってしまった。期待していたわけではないが失望している自分がいた。何を自惚れているのだ。まさか本気で一緒に帰れると思っていたのか。早帰りで喜ぶクラスメイトの声に紛れてそんな声が聞こえてくるようだった。

 窓の外を見ると低い雲が重く垂れ込めている。誰もいなくなった教室に水谷の荷物だけが残されていた。

 雨が降る前に帰ろう、と自分の荷物を背負ったとき床に落ちている紙が目に入った。八つ折りにされているから初日に水谷が机の下に敷いていたものが何かの拍子に抜けてしまったのだろう。戻しておこうと思い手に取ると殴り書きされた文字の一部が見えた。

 胸の奥に何かざわつくものを感じた。絡まった紐を解くように折られた紙を丁寧に開いていく。開くたびに線の断片が繋がり、やがて五つの文字が現れた。

『ユルサナイ』

 嫌な予感に胸がざわつき荷物を置いたまま走り出していた。


 校舎に残る生徒は誰もいなくなっていて職員室から仄かに灯りが漏れている。先生たちは帰らなくて大丈夫なのだろうか、と思うくらいに冷静な自分がいた。考え過ぎなんじゃないかとどこかで信じていたのかもしれない。先生に呼び出されただけで今頃何事もなく帰途についているんじゃないか。それならそれでいい。杞憂や徒労は雨風に曝して忘れてしまえばいい。

 だが重苦しいほど鉛色の空がこの先起こりうる最悪の事態を暗示している気がしてならなかった。

 一通り校舎内を走り回ったが水谷らしい人影はどこにもなかった。

 残るは旧校舎だけだ。校舎は建て替えられたと言ったが旧校舎の一部は使われないまま残っている。体育祭の時には物置として使われ校内合宿の時には寝床に使われているらしいが普段生徒が立ち入ることはない。

 校舎と少し離れていて屋根伝いにもなっていないためいつもなら靴に履き替えるところだが土田は上履きのまま走った。額に冷たい感触があり雨が降り始めたことを知る。風も強い。怖い。引き返す理由ならいくらでもあった。

 それでも土田は走り続けた。連なる部室棟を抜けたら旧校舎が見えてくるはずだ。

 そのとき、旧校舎ではなく部室棟の一室から声がした。

 助けて。

 そう聞こえた気がした。雨の音に消えてしまいそうなほど小さな声だった。聞き間違いであってくれ。そう願っていたのだが、

「助けて」

 今度ははっきりと聞こえた。間違いなく水谷の声だった。

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