第4話 内裏塚古墳

 水上は以前、福島第一原発で働いていた。東日本大震災で大事故が起き、汚染水の管理が破綻した。2013年の8月、タンクから高濃度の汚染水が漏れた。地下〜港湾内に流出、地中に残された。廃炉作業には30年から40年かかる。水上は60歳、100歳までかかる計算になる。2011年3月の火災で溶け落ち、海水が流入して冷却。貫通部があって水が地下に漏れた。水には高濃度の放射性物質が含まれる。

 水上は心身のバランスを崩して仕事を辞めてしまった。


 水上は内裏塚古墳群だいりづかこふんぐんにやって来た。千葉県富津市の小糸川下流域の沖積平野内にある、5世紀から7世紀にかけての古墳時代中期から終末期に築造された古墳群である。現在のところ前方後円墳11基、方墳7基、円墳29基の計47基の古墳が確認されている。


 内裏塚古墳群に属する古墳は、旧飯野村の村域を中心として分布していることから当初は「飯野古墳群」と呼ばれていたことが多かった。しかし旧青堀町に属する古墳もあって飯野古墳群では不適当ではないかとのことで、「富津古墳群」、「内裏塚古墳群」という名称が提案されるようになった。富津古墳群という名称は、1955年に青堀町、飯野村、富津町の三町村が合併して富津町となる以前の富津町の地域内には、古墳群に属する古墳が全くないことと、1971年の富津市の成立後、かつての富津町よりも広い市域を指すようになった「富津」の名を古墳群の名称とするのは不適切ではないかとの見解により、古墳群内最大の古墳である内裏塚古墳から名づけられた内裏塚古墳群が古墳群の名称として主に用いられるようになり、多くの専門書でも内裏塚古墳群という名が用いられている。


 しかし内裏塚古墳は古墳群内の盟主墳の中では唯一、5世紀半ばの古墳時代中期造営の古墳であり、6世紀半ばから7世紀にかけて最盛期を迎えた古墳群の名称として、内裏塚古墳の名前を用いるのは適切ではないとの意見の専門家もいる。


 ここでは多くの専門家が用い、一般的にも広く用いられている内裏塚古墳群を記事名として採用する。

 

 内裏塚古墳群は小糸川が形成した沖積平野上にある。古墳群は北西側は海岸線、東側は小糸川の氾濫原、そして南側は小糸川旧流路で区切られる約2キロメートル四方に広がっている。古墳の多くは沖積平野上にある、かつて砂丘であった微高地上に築造されている。微高地は小糸川下流域に数列あって、北東方向から南西方向へ伸びており、内裏塚古墳に属する多くの前方後円墳は北東側に後円部、南西側に前方部を向けている。


 内裏塚古墳群は現在のところ前方後円墳11基、方墳7基、円墳29基の計47基の古墳が確認されている。その中で少しでも墳丘が残っている古墳は25基であり、22基の古墳は消滅している。確認されることなく消滅してしまった古墳も少なくないと考えられており、内裏塚古墳群で実際に築造された古墳はもっと多かったとされる。


 内裏塚古墳群の盟主墳の被葬者は、須恵国造になっていく系列の首長であると考えられている。5世紀半ばと考えられる内裏塚古墳が古墳群のなかで最も早い古墳築造であり、続いて5世紀後半には上野塚古墳が築造されるが、その後約半世紀古墳の築造は停止される。6世紀半ばの九条塚古墳の築造後、6世紀末にかけて墳丘長100メートルを越える前方後円墳である盟主墳、そして盟主墳の下に位置する墳丘長約50-70メートルの前方後円墳、その下位にあたる墳丘長20-30メートルの円墳が盛んに築造されるようになる。


 内裏塚古墳群では、前方後円墳の築造が行われなくなった7世紀には方墳が築造されるようになり、7世紀半ば頃まで築造が続けられた。


 小糸川流域では、5世紀半ばと考えられる内裏塚古墳の築造以前は、4世紀台には中・上流域の丘陵上に墳丘長40-60メートル程度の前方後方墳や円墳、方墳が築造されているのみで、地域を代表するような古墳の築造は現在のところ確認されていない。近隣の古墳群を見ると、祇園・長須賀古墳群がある小櫃川流域では4世紀、中流域に墳丘長100メートルクラスの前方後円墳の築造が見られ、養老川流域の姉崎古墳群でも墳丘長130メートルの姉崎天神山古墳など、4世紀台の大型前方後円墳が築造されており、それぞれの地域での違いがみられる。


 しかし小糸川下流域では、弥生時代後期から古墳時代にかけての集落跡が複数確認されていて、この地域に未発見の前期古墳が存在するのではないかと考える専門家もいる。

 

 内裏塚古墳群で最初に築造された古墳は、内裏塚古墳である。内裏塚古墳は小糸川流域で最初に築造された前方後円墳と考えられており、墳丘長144メートルというその大きさは内裏塚古墳群のみならず、南関東(埼玉、千葉、神奈川、東京)の中で最大規模を誇っており、最初にして最大の古墳が5世紀半ば、小糸川下流域の砂丘跡の微高地上に築造されたことになる。


 内裏塚古墳の築造後、内裏塚古墳近郊では古墳群南方約4キロメートルのところに弁天山古墳が築造される。続いて内裏塚古墳群の最北端にあたる、現在の青堀駅近くに帆立貝型の前方後円墳である上野塚古墳が5世紀末頃築造される。その後6世紀半ばの九条塚古墳の造営まで約半世紀間、内裏塚古墳群では古墳の築造が中断する。


 内裏塚古墳の築造は、やはり5世紀半ば頃に築造されたと考えられる祇園・長須賀古墳群の高柳銚子塚古墳、姉崎古墳群の姉崎二子塚古墳と同じく、上総西部の河川下流部に広がる沖積平野一帯を統合する首長が誕生したことを意味している。しかしその後内裏塚古墳群では古墳の築造が途絶える。弁天山古墳など内裏塚古墳群外に首長権が移動したとの説もあるが、墳丘長144メートルの内裏塚古墳に対して弁天山古墳は87.5メートルであり、首長権が弱体化したことは間違いないと考えられる。5世紀末以降、古墳の築造が中断する現象は祇園・長須賀古墳群でも見られ、姉崎古墳群でも古墳の築造は継続したものの規模は大きく縮小している。5世紀末から6世紀前半にかけて首長権が弱体化したのは内裏塚古墳群のみならず上総全体で見られる現象である。


 また5世紀末から6世紀前半にかけて古墳の築造が低調となる現象は、関東地方各地や大王陵など畿内でも見られ、これはヤマト王権の弱体化によって社会が混乱し、古墳の築造秩序が乱れたとする説もある。

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