第6話 衣
入間の郷は、業平たちにとって、見るもの聞くものが日々楽しかった。
都の目も、ここには届かない。
田のへりで、土地の者と話をしたりもした。
明日には、少し遠出して、鐙の工房に行くかという頃。
業平は、式女の屋敷で、縁に座りながら庭の草木などを眺め、つと立ち上がったところ、廊下の角を曲がってきた瑠璃と出くわした。
瑠璃は業平を一目見ると、顔を伏せてすれ違う。
「姫ぎみ」
業平は呼び止めた。
「はい」
瑠璃はてらいもなく,都からの男を見つめる。その顔に、業平はいくぶん幼さを認めた。女の歳頃は自分と近くはないが、大きく離れてはいまい。
「姫は、ずっとお一人ですか。いや、はらからのこと。ごきょうだいは、おいでか」
「姉が、ひとりおります」
瑠璃から聞くに、その姉は、身分の高い男を夫とし、今は同じ武蔵の国の大宮あたりに住まっているという。
「ところで」と業平。
「なにか」
「お父上はいかが」
「はい。少しずつよくなっております」
「それはよかった。どうしてお体にさわりが」
「
「みずからか」
「はい。この家には、そう使い人も置けず、時節がら暇を出しておりました」
「そうですか」
瑠璃は体の向きをかえ、別棟の方を見やると、こう言った。
「もともと、父はそんなことに慣れていません。気を使ってやりましたが、着物の肩を破ってしまったのです。それは、母が都から持ってきた、いちばん大事な着物でした」
業平は、目を細め、話にうなずく。
「とても寒い日でした。外に長くいたので、つめたい風が体に当たったのでしょう。着物を損じたことで、父は泣かんばかりになり、いまでもそれを悔いています」
「それは気の毒に」
業平は、待つよう彼女に手で合図すると、そこにある自分の道具に向かった。
近ごろは常に身近において、歌など書していたのだった。
彼は、手触りの良い地紋入りの紙を手にし、歌を詠んだ。
紫草の 色が濃い時は 目で見るはるか先まで
野の草木の緑と おたがい色の違いはないのです
そう書いて、瑠璃に手渡した。
自分との境遇の違いを知ったうえで、それにこだわらず、彼女の父を思いやる心を示した歌であった。
「父上にお渡しください。都から着物を贈らせましょう。そう、服の色は、紫草の葉の緑。武蔵野の紫草で染めた、美しい紫色にはおよびませんがね」
瑠璃は、手にした光がかった紙をそっとたたみ、胸にしまった。
そして静かに、その場を離れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます