第5話 宿
午後の日差しの中を、業平たちは逗留先へと向かう。
それは緩やかな斜面の先の屋敷で、このへんでは有力な
生け垣を巡って、表の戸に達する。
もう用意していたのか、中から扉が開き、主人と見える女が出て来、挨拶した。
「お待ち申しておりました」
業平は、側の案内人に、直に礼を言った。
「ここまでご苦労」
「いえ、またお目にかかります」
ひとまず別れた一行は、屋敷へ上がり、家の使用人から部屋へと通された。そこは板の間に敷物が引いてあり、まずまずの造りだった。
部屋には、先回りした女主人が、すでに待っていた。
「ようこそおいでくださいました、このようなところで」
業平は、相手を女と見たからか、もう打ち解けたように返す。
「いやあ、厄介になります」
ひとしきり社交のあと、業平はこの女の振る舞いが、この地には似ず、
ただ、あしらいが上手で、この場で自分の容貌に関心を持たせるようなことはしない。あとで思い返して、そういえば美しい女であったと思わせる、そんな接し方である。
業平は、もう遠慮はいいだろうと思い、切り出した。
「ところで、ご主人」
「はい」
「いや、家のあるじ殿はどこに」
女は、きゅっと上目づかいに答えた。
「主人は、先年の暮れ、冬の作業で具合を悪くし、別棟におります」
「それはお大事に。たいへんですか」
「主人は、使いの者の看病をいやがるので、娘が世話をしております。
女主人の背後の
「瑠璃にございます」
上げた顔は、今風に目鼻をはっきり化粧し、優れた印象であった。
都では、貴人の娘は成人すれば、家族にも滅多に顔は見せない。こうして昼間に目合わせると、業平のほうがどぎまぎする。
「るり、ですか」
女主人は、脇卓から
「墨を。それから、なにかお出しして」
業平は楽にして言う。
「われら、昼をすませたばかり。お構いなく」
やがて、筆を取った女は、紙に向かう。
流れるように書くと、卓上、業平に差し出した。
どこで手に入れたか、珍しい薄紫の紙に、墨書が鮮やかだった。
細いが力強い筆で「瑠璃」と書かれていた。
あの瑠璃か、業平は想う。
その言葉は聞き知っていたが、実物は見たことはなかった。
もとの都、奈良の大寺に、先の帝の宝物倉がある。そこに秘蔵されているそうな。それは、
業平は、思いのままに尋ねる。
「母上殿、名はなんと。私には、あなた様がこの国の出の方とは見えませぬ」
母親は、わずかに顔を赤らめたが、こうなるとわかっていたのか、すっと答えた。
「わたくし、ずいぶん前、短い間でしたが、お
その呼び名を聞き、業平の取り巻きはざわつく。
「そして父の事情でこの地へ参り、そのまま住み成しております。名は、皆様に名乗るほどの者ではございません」
と言う。さらに聞けば、彼女の父は三年ほど前に世を去り、官位は高くなかったものの、藤原氏の出身という。
そして、こんな地にも、時折京の都の噂は入る。業平の名は知っており、この家へ迎え入れるのは光栄だと述べるのであった。
「業平様、この際、お願いしたいことがございます」
「どうぞ、聞きましょう」
「娘のことですが、このところ、言い寄ってくる土地の男がいるのです」
「それは、そうでしょう」
「わたしは、娘を、もっと身分の高い殿方のもとにやりたいと願っているのです。土地の男を防いでもらいたい」
ここで彼が伝説どおりの色男ならば、片目でもつむるところであるが、業平も多少の分別を身にしていた。
「郷には郷のきまりもあるでしょう。私は検非違使の使いでお邪魔しており、よその国で誰かの行状を止める権はないのです。それは、
業平は、考えるでもなく、すらすらと言ってのけた。
「それでよろしゅうございます。お耳にしていただいて、それで十分です」
式女は、深々と床に頭を垂れた。
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