第3話 ユキくんとミオさん③
「ああ、あの寝てる人」
時坂悠木を訊ねた時、一番返ってくる可能性の高い言葉が、これだ。
彼を見かけると、おおよそ、寝ている。
学校では休憩中だろうが授業中だろうがかまわず寝ている。
お昼休みはさすがに弁当を食べているが、食べ終わったらすぐに寝ている。食べている間も、どこかぼんやりしてて半目なので、ひょっとすると寝ながら食べているのかもしれない。と、私は思う。
この前男子の体育の授業を見学したら、ゴールポストにもたれ掛かりながら寝ていた。サッカーの授業。ゴールキーパーぐらいしか、置いておけるポジションがなかったのだろう。部活はしていない。完全なる帰宅部。
以前、家に帰って普段何をしているのか聞いてみると「寝てる」という、至極簡潔な答えが返ってきた。ならば夜更かししているのかと問えば「夜? 寝てるよ? 夜寝ずにいつ寝るんだ?」ととても不思議そうに聞き返された。
まるで自分が人並み以上に寝ていることを、自覚していないかのような台詞だった。
もちろん、自覚していない訳がないので、その台詞は、ユキ流の、一種のジョークだったのだろう。ほんっとーにつまらない。
以前はここまでひどくなかったように思う。
……いや、つまらないジョークの話ではなくて、もちろん睡眠癖のことだ。
高校に入学した春、その頃からよく寝ていることには変わりなかったが、まだ普通に起きて授業を受けている姿も記憶にある。
他のクラスメイトたちと一緒に、放課後遊びに出た記憶もあるし、テスト前には勉強会をして、お互い教え合った記憶もある。
いつからかユキは、寝る時間が長くなっていった。
次第に皆と遊びに出ることもなくなり、いつ見てもどこでも寝ている。
寝ている割には学校の成績は学年でも上位の位置をキープし続けていたので、いつしか注意する教師もいなくなった。
いくら何でも寝すぎだ。
何かの病気かもしれないと、一度無理矢理病院へ連れて行ったこともある。
けれど返ってきた答えは「全くの健康体でどこにも悪いところはありません」とのことだった。
到底信じられる結果ではなかったが、医者の出した結論に、素人の私は何も口を挟むことはできない。ただ寝続けているという結果を除けば、ユキ当人の様子に何かしら変化が訪れる兆しもなく、普通に日常生活を送っているようだった。
……どこが普通か。
この日も学校に行き、我らが一年三組の教室に入ると、朝の喧噪にまったく囚われることなく、窓際前から三番目の自分の席で、いつものように机に顔を突っ伏して寝ているユキがいた。
何人かのクラスメイトと挨拶を交わし、自分の席――窓から二列目、前から三番目、つまりユキの隣の席――に向かう。
椅子が床を擦る音が思いの外大きく響いた。椅子に座ろうとしてふと視線を感じた。見ると、椅子を引く音で目を覚ましたのか、ユキが首だけをあげて、私を見ていた。
「……ぉふぁよー」
間延びした声は、可愛らしく耳に響いた。
「おはよ」
短く返答すると、ユキは再び机に突っ伏して、寝息を立て始めた。何が嬉しいのか、その表情は妙に緩んでいる。微睡みの中、何か、良い夢を、見ているのだろうか。
「……夢、ね」
小さくつぶやいて、ユキから視線を外し、私は自分の席に着いた。
ユキと夢の組み合わせに、少しだけ、複雑な思いが浮かぶ。けれども「夢を見ることは誰にも止められない」なんて、どこかで誰かが言ったことのあるような記憶の隅に引っかかる標語が浮かんできて、私は色々諦める。そう、色々。
「未央ちゃんおはよー!」
明朗な声が、私を呼ぶ。見ると、亜麻色のボリューム豊かな髪の小柄な少女が満面の笑みで手を振っていた。どこか子犬を思わせるような人懐っこい動作で駆けてきて、飛び込むように未央の前の席に着地する。着席ではない。着地だ。
「ねーねー未央ちゃん。今日、すっごい霧だったね! もう、ミストって感じだよ!」
「意味わからないよ、初美」
私は笑顔で、言葉を返す。
「えーえー? だって、霧だよ、霧っ! ミステリアスなミステリーのミストがミスティックでミスチルなんだよ」
「似た英単語を並べてるだけでしょ? しかも最後は英単語ですらないし」
不可解な謎の霧が神秘主義者のMr.Childrenなのか。
不可解なのは初美の頭の中身だと思う。
「えー? 未央ちゃんってば、クール。超クール。クーリッシュ。クーリングオフ?」
「……私はどこに返品されるの?」
首を傾げながら言われても、正しい返答など出来ようもない。
「ええー? んー?」
自分の言葉の意味も、私の返答の意味も、何もわかっていないのだろう。
本当に、ただ適当に、記憶の隅のどこかに転がっている似たような単語を拾い上げて口に出しただけなのだ。きっと、彼女の言葉に意味はない。
軽く息を吐くと、初美はしばらく首を傾げていたが、やがて納得したように頷くと私に顔を近づけて来た。内緒話でもするのだろうかと思っていると案の定、口元に手を当ててこそこそと、冗談めかした風に言葉を紡いだ。
「ところで奥さん、聞きましたか?」
「……何を?」
胡乱げな目で見やると悪戯っぽい表情で口元をにやけさせる。
「あの時坂悠木くんが隣のクラスの牧さんに告られたって話」
横に動く初美の視線を追えば窓際のユキは机に突っ伏したまま小揺るぎもしていなかった。いくら小声とはいえ、隣の席だ。初美の声も聞こえてるんじゃないかなと思うのだが、どうなのだろうか。
少し迷って、けれども聞こえてようと聞こえてなかろうと、どちらにしろ私の答えは変わらない。
「知ってる……というか、先週、牧さんに教えてもらった。『時坂くんに告白するけど、良い?』って感じに」
そっか、牧さん、本当に告白したんだ。
少し困ったように初美へ笑みを返して嘆息する。
一週間くらい前だったか、私は一年二組の牧美香子という少女に呼び出されて、ユキへの告白を予告された。
さて、こういう時、どういう顔をすれば良いのかわからない。
そういう時に、どういう顔をすれば良かったのかなんて、今をもってしてもさっぱりわからない。
ユキと私は親友だけれども、本当に、ただの親友なんだけれども、周囲の者は誰も信じていない。
私たちの関係を見ると、誰もが口を揃えて言う。
「付き合ってるんでしょう?」
私もユキも、それを普通に否定するのだけれども、周囲の誰よりも親しい私たちの間柄に、その否定は強い説得力を持たない。
私たちの仲はとても良くて、ただのクラスメイトと呼ぶには親密すぎて、どう見たって好き合っているようにしか見えない。
そう見えてしまう現状を、私もユキも否定できず、だからと言ってお互いの関係を変えるつもりもなかった。ユキと親友で行くという意志は、はじめは意識などしていなかったものの、様々な出来事を経て、決意と呼べるほど強固なものとなっている。だから私は、気恥ずかしい誤解を否定仕切れずとも、ユキから離れることはなく、一緒にいる。互いにさほど社交的ではない性格が、また私たちの回答の説得力を削いでいく。誰がどう見たって私とユキは常に一緒にいるし、親しくって、互いに好き合っているのだ。うん、客観的に見れば、これが恋人でなくてなんだというのだろう。そんな自覚は、一応持っている。だからこそ牧さんも、私にわざわざ予告してくれたのだし。
「未央ちゃん、どう答えたの?」
「ん……『どうぞ』って応えた」
困ったように私は歪んだ笑みを初美に向ける。
さっきまでからかうような調子だった初美の表情は、少し呆れたように、仕方がないと言った風に、困った風に、少し面白くない風に変化した。
牧さんへ返した言葉に挑発の意図はなかった。
けれども牧さんの望みをユキが受け入れることはないと――その確信だけは持っていた。
私にとっては何でもない、当たり前の、感情の余地が入ることのない、ただの事実から出てきた言葉。
だけど、口では何と言おうとも、私とユキを恋人同士だと思っている初美には、この言葉はどのように聞こえただろう?
内心の動揺を抑えて強がりを言っている――もちろん、全然そんなことないのだけれども――それどころか、ユキの友人としては、ユキに本当に好きな人ができた時には、邪魔にならないように少し距離を置こうなんて、そんなことも当然と考えているんだけれども――そのように、聞こえてるんじゃないだろうか?
最も私は、ユキに好きな人ができるなんてこれっぽっちも思っていないし、だから牧さんがどう行動しようとも、最終的な結果は変わらないんだと確信していた。
それに、牧さんの結果は訊かずともわかっていた。
初美は初めからからかい口調だった。それは、いつも口でユキに対する恋心を否定する私に対して動揺を誘うための言葉だったのだろう。
ゆえにそれは、初美から見てユキに恋する私――繰り返し言うが、実際には違う――にとってのネガティブな結果ではなく、からかいのネタ程度で済む話ということで。つまりユキは、牧美香子を振ったのだろう。
初美は少し腹を立てているようだった。ぷっくりと頬を膨らませて、少なくとも、そのように見えるポーズをしていた。
「もう、未央ちゃんったら、その態度はいただけないよ!」
「……『いただけない?』」
何なんだその表現は、と思う。
たぶん、感心しないってことだろうとは思うけれども。
私も一応、今の私の態度が、ユキに恋する一少女としての態度としては失格だろうとは思う。私はそんなんじゃないので、失格も何もそれは初美の勘違いなのだけれども。
「牧さんに言われた時もそうだけど、ちゃんと怒らなきゃ!」
「んーと『ユキは私のものだから、告白しないで』って?」
「そ、そうよっ!」
嘆息気味に言うと初美はなぜだか少し怯えたように声を返してきた。
私はそれを見てますます息を吐く。
わりと私に近い初美ですら、コレなのだ。
私とユキが恋人でないなんて、信じていないクラスメイトなんてどこにもいないだろう。
そろそろ諦めなきゃ……というよりも受け入れなきゃいけないかもしれない。
ユキが私の恋人――のように見えるという事実を。
受け入れてしまえば初美のようなお節介も減るだろうし、ちゃんと恋人っぽいことをしていれば、ユキが誰かに告白されて、それを断って、その度に私が巻き込まれるなんて事件もなくなるかもしれない。
どうしよう、ユキ。そろそろ提案があるんだけどどうかしら? そろそろ私たち、付き合ってみない?
そんなセリフが頭の中に思い浮かんで、けれどもまったく気持ちの乗らない言葉には苦笑しか浮かんでこない。
さてはて、ユキはどう答えるだろう――と窓際の席へと視線を向ける。
さっきまで机に突っ伏していたはずのユキは、珍しくも顔を起こしていて少し困ったように私たちを見ていた。
「……どうしたの?」
起きてるなんて珍しいねと、言外に乗せて尋ねてみる。
「んーと、さすがに話題が話題だから起きてた」
「ええええっ! 聞かれてたっ!」
初美が大げさなほど驚いて飛び跳ねた。
いや、そりゃあ聞こえるだろう。
隣の席で、私たちは特に声をひそめていたわけじゃない。私は兎も角、初美の声は高くて響くし、何しろ題材が他人の恋話だ。色々と思春期学生である私たちにとって、興味を惹かざるを得ない話題だ。ユキでなくともクラスの中で何人も聞き耳を立てていることに私は気付いていた。
初美のリアクションは大げさに過ぎていて、演技なのか本気で気付いていなかったのか、どうにも判断に迷う所だけれども。けれども私の知る限り、初美はわりと演技ができない性格だ。色々な意味で。なのでたぶん、本気で訊かれていないと思っていたんだろう。間の抜けた話だけれども。
初美を見ると、顔色を青くしてユキを見ていた。聞かれては拙いことを聞かれてしまい、怯えているということなのだろうけれども、それはさすがに迂闊すぎないだろうか。それとも初美は机に突っ伏して眠っているユキの姿が見えていなかったとでも言うのだろうか。なんとなくそれで正解そうだなと思う私の心の人物評に、初美に対する呆れポイントを「1」追加。
「それで、ユキは牧さんをどうしたの?」
真っ青になっている初美からはそれ以上話を聞けないと思い、尋ねる私は、実はさほど興味はなかった。
結論は初めからわかっている。聞かなくても良いことだとは思うのだけれども、なんとなく言葉にして明確にしておくべきだと思った。
「うん、断ったよ」
「……そっか」
相槌以上の返答を、私は持たない。
私はそれに感想を言う立場にはない。
ユキと親友になると決めてから、ユキと私の、お互いの立ち位置を明確に定めてから、私たちは幾つもの事象を協議し合ってきた。
これはその協議の範囲内にある出来事。
想定の範囲内だ。
だからとっくの昔に感想は述べたし、結論も出ている。
ユキにとってもそれはそうで、だからユキは頷いて、小さく欠伸をした。目を擦り、どこか可愛らしい仕草で、机に伏してそのまま寝息を立て始める。
霧のせいで家を早めに出たこともあり、始業までにはまだまだ余裕がある。一眠りするユキを見て、何だか私まで少し眠たくなってくるように感じる。
「え? えええっ? み、未央ちゃんはそれでいいの? そんだけでいいの? もっと色々と聞きたいことがあるんじゃないの?」
なぜか焦ったように初美が聞いてきて、私は戸惑う。
あれ? 恋人的な存在としては、彼氏に対してこういう場合もっと色々と聞くべきなのだろうか?
私は、もし自分が好きな人が誰かに告白されていて、その話を耳にしたとして――という風に、想定して自分がどう行動するだろうかと考えてみた。
ああ、そうだ。喩え告白の結果、断ったと知っていたとしても、その告白を聞いてどう感じたとか、少しでも心が揺るがなかったかとか、うん、きっととても気になるし、信用信頼とは別の次元の話としてきっと、気が気ではないだろう。
でも私は、ユキの親友である私は、その時ユキがどう感じたかなんて、わかっている。わかってしまっている。
一番大きな感情は罪悪感だろう。もちろんそれだけではなくて、もっと色々と複雑な感情が入り交じっているだろうけれども、だいたいそんなもんだと、容易に想像がつく。私はそれを客観的な感情として見ていられるのだ。
私は少し笑う。
「大丈夫よ、初美。ユキのことはよく知ってるし、信用しているもの」
自信満々って感じに言い放ってみると、初美はどこかホッとしたように息を吐いた。
私とユキの絆が崩れないことを確認して、安心したのだろう。
それでユキの告白に関する話題は終わって、後は今朝の濃い過ぎる霧のこととか、霧にまつわる怪異的な噂話とか、昨日見たドラマの話だとか、どうでも良いような普通のどこにでもあるような雑談へとシフトしていく。
雑談をしながら私は思う。
そう、ユキが誰かの告白を受け入れるなんてことは、ない。ありえない。
それを私は知っている。
私という存在があるから――というわけではない。
それは絶対にない。
たとえ告白をしたのが私であっても、ユキはそれを受け入れることはしない。
条件を付ければどうかはわからないけれども、少なくとも本気で、本心から相手の気持ちを受け入れるようなことはない。
天地がひっくり返ってもありえない――とは言わない。
何せ実際に世界が滅んでしまうなんて事実もこの世界にはありえたのだから。ついこの前、百年ほど前に、ちょっと。
だからさすがにそれくらいのことが起きると、何かがどうにかなって、ユキが誰かと恋人同士になることも微粒子レベルで存在していたりなんかしちゃったりもするかもしれない。
でも少なくとも、親友である私に対して、事前に協議を持ちかけてくれるだろうと――信頼している。
だってもしユキに「恋人」と呼ばれるような人が出来てしまったら、異性の友人である私は当然その「彼女」さんの嫉視の対象になるだろうし、それを避けるためにはきっとユキからは距離を置かないといけないだろうし。
そんなことを考えていたからだろうか。
その日の放課後「ちょっと話がある」と言うユキに、空き教室に連れ込まれ、何の脈絡もなく放たれた言葉を、私は咄嗟に理解することができなかった。
「あのさ、ミオ、悪いんだけど……」
全然悪いと思っていないような表情で、相変わらずどこか眠そうで、なんとなく可愛らしくも感じられる動作でユキは言ったのだ。
「椚木莉乃さんと付き合うことになったから、ちょっと距離を置いてくれない?」
私はまず始めに思った。
「え? 誰それ?」
伏線も何も無く唐突に現れた登場人物がすべてをオチを持って行ってしまったような、何とも締まらない脱力感を覚えて、私はこくりと首を傾げるのだった。
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