第2話 ユキくんとミオさん②

 意外と覚えているものだ。

 九石流古武術から離れてもう七年……だろうか。一通りの型の練習と軽い組み手を、私はほとんど滞ることなく済ませた。眼鏡を掛けたまま。

 当然組み手の時の顔面攻撃は禁止。父に多分の制限を強いるものだったが、そんなの当然ハンデにはならない。


「……思ったよりも動いてるな」


 父も、やや感心したように言葉を吐いた。私は荒い息を吐きながらも、微笑む。

 純粋に嬉しい。

 そして私自身でも、驚いている。

 私がかつて受けたものは基礎訓練がほとんどだったけれども、それは今でも私の中で、ちゃんと息づいているのだった。


「うん……ありがとう」


 お礼の言葉。

 自分で口にしておきながら、何のお礼なのか、わからなかった。受け取った父も、わからなかったのだろう。妙に困惑した表情をしている。

 息を整えて、胴着に着いた埃を払う。時刻は七時を回っている。今日はここまで。早くシャワーを浴びて、身支度を調えないと、学校に遅刻してしまう。

 そうして道場から出ようとした時、父の遠慮がちな声が背後から響いてきた。


「あーその、なんだ……」


 言い出しづらいことがあるのだろう。いきなり父が、道場へ誘ったのにも、何か理由があると気づいていた。今更私に、九石流を教えようとか、そんな気持ちはないのだろうけれども。


「なあに?」

「……ほら、未央の友達がいるだろう?」


 そりゃあいる。

 多くはないけれども、仲の良い友達。すぐに何人かの名前が思い浮かぶ。何を当たり前のことを言っているのだろうか。

 不審の視線を向けると、父は慌てたように言葉を継ぎ足した。


「いや、ほら、彼だよ。ボーイフレンド」


 ボーイフレンドと言われて思い浮かぶ顔は一人しかいない。


「……ユキのこと?」


 時坂悠木。正確には「ユウキ」だが、親しい者は皆「ユキ」と呼ぶ。

 私の親友。そして色んな意味で、ちょっと変わった、普通の男の子だ。

 彼と私は仲が良い。あまりにも仲が良すぎて、周囲に在らぬ誤解を招くほどだった。少し鬱陶しくて、恥ずかしい誤解。初めは解こうと試みたこともあったけれども、今ではわりと諦めて、放置している。


「そう、その彼……時坂くんだっけ? 彼に、遠慮せずに遊びに来るよう、伝えてくれないか?」

「う、ん? いいけど?」


 何を言いたいのか、よく理解できない。父の表情は何かを抑えているようなしかめっ面になっていた。

 ユキは何度か家に来たことがあり、その時に一度、父とも顔を合わせている。けれども、もう二ヶ月くらい前の話。ユキと父が顔を合わせたのは、たぶん過去にその一度だけ。それも挨拶くらいで碌に話もしていないはずだ。そんなユキに、父が一体何の用なのだろう。まったく思い当たらない。そもそも、そんな出会いとも言えない出会いなのに、よく名前を覚えていたものだ。ユキは、どちらかと言えば大人しそうで害のなさそうな、目立たない容姿をしている。時折、女の子の格好をさせたくなるほど可愛らしく見えることもあるが、人の印象にはあまり残りにくい。だからあの日のユキが特別父の目に留まったとは、考えにくい。それとも、よく覚えていないけれども、あの日のユキは、何か目立つような変な格好をしてたっけ?

 ――と、そこまで思考が進んだところで、私は不意に思い出した。


「あ、そっか」


 ぽんと、手を打つ。

 ユキが父の目に留まるなんて、当たり前のことじゃないか。

 年頃の娘が初めて連れてきた異性の友人なのだ。男親としては気が気じゃないのだろう。

 あの日は初美とか、他にも友達が沢山来ていたけれども、男の友達はユキ一人だけだった、ような記憶がある。

 あの男は誰なのか? 娘とは親しいのか? どんな関係なんだ?

 きっと頭の中に色々な疑問が浮かんだろうが、あの時父は、特に何も聞いては来なかった。けれども、今ここでユキの名前が出てくるということは、後で私に気づかれないように、こっそりとユキのリサーチをしたのだろう。主に、娘との関係について。

 誰に何と訊いたのかわからないが、私とユキの関係を捉えて、多くの者が答える文句は、なんとなく想像がつく。


「娘さんと時坂悠木くんは、極めて親しい関係です。家族を除けば、お互いに最も近しいと意識し合っている異性でしょう」


 応じる者によってその文面の形容は様々だろうが、おおよそ、そのような答えが返ってくるだろう。

 だから、父が誤解しても不思議はない。

 父以外でも、誰が誤解したって、不思議はない。

 言葉にするのは恥ずかしくて、言えないけれども。

 それらの言葉に対して、私が言えることは一つだ。


「うん、まあ、間違いじゃないと思うよ?」


 きっとユキも違う言葉で同じ意味のものを返してくれるだろう。

 それらの言葉に対して、父が出した結論は想像に難くない。

 娘と時坂某とやらは、高校生らしい健全な男女のお付き合いをしている仲なのだ。ならば、親としては寛大に受け入れてやろう。

 ということは、今の父の行動は『寛大な親』としての度量を娘に見せる、一種のポーズなのだ。

 そう言えばここしばらく、父とはあまり会話をしていなかったように思う。私としては特に意識しての事じゃなかった。だから偶々時間が合わない等の、本当にただの偶然だったのだろうと思う。

 父娘のコミュニケーション不足から来る不和。年頃の娘の持つ、年長の異性に対する嫌悪感。それはどこにでもある、大人になるための通過儀礼の一種なのだろうと、私は思う。私は、私自身の性格を『少し変わっている』と自己分析していて、こんな私が世間一般の少女のように、父に嫌悪を抱くようになるとは思えなかった。けれども父からしてみれば、ここしばらくの娘との関係は危機感を抱くのに十分なものだったのかもしれない。


「なるほどなるほど」


 そう考えると今朝からの父の変な態度もうなずける。

 何が切っ掛けでやろうと思い立ったのか知らないけれども、娘に理解を示そうと、緊張していたのだろう。だから柄にもなく普段にない行動をして、普段にない許可を下したのだ。

 我が父ながら、なんと可愛らしい。

 私は声を抑えて小さな笑い声を漏らす。


「お、おい。何か考えているのか知らないが……」

「ううん。いいよ、お父様。ユキに伝えとくね」

「あ、ああ。まあ、いいが……それより急ぎなさい。早くしないと朝食の時間が無くなるぞ」

「はーい」


 私はなんだか嬉しくなって、飛ぶような気分で道場を出た。

 庭はまだ霧に包まれていた。

 白い霧。

 この霧が普通の霧か、怪異の霧か知らないけれども。

 ユキは今、霧の中にいるのだろうか?

 ふと、思った。

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