ユキくんとミオさん ―Nebula City―

彩葉陽文

第1話 ユキくんとミオさん①



 言うまでもないことだけれども、この都市では、魔法は使えない。



          ◆◇◆



 静粛な雰囲気が空気を満たしている。

 暖かな感触が緩やかに体を締め付ける。

 変化はなく、どこまでも続いていく緩やかな感覚は、私の全身に染み入るような安堵をもたらしていた。


 自分が目を覚ましていることには気づいていた。

 普段起きる時間をわずかばかりだが過ぎてしまっていることも、なんとなくわかっている。

 けれども布団があまりにも暖かくて心地がよいから、私はどうしてもそこから抜け出て、朝の静謐な冷気に肌をさらす気にはなれなかったのだ。

 微睡みの奥へしがみつくように、思考は安寧を求めている。安寧に漂う思考を、暖かな布団と静かな空気も後押ししている。このまま眠り続けることを、なんとなく許されたような気分になって、私は目を閉じ続けている。


 もう少しこのままで。

 このままでいたい。

 あと少し、あとちょっと。


 けれどもいつまでもこのままでいることはできない。

 私の奥に潜む活力は、安寧の靄を吹き払い、意識を急速に覚醒へと促そうとする。


 ああ、余計なことを!

 もっと寝ていたいのに。

 まだ眠っていたいのに!


 けれども、若い活力に満ちた体は、それを許さない。

 早く起きて朝の光を全身に浴びたい。体を思いっきり動かしたい。

 脳と体の相反する命令に、私は次第に焦りにも似た、むず痒い感覚に全身が囚われていくことに気づいた。

 体が疼く。

 わかる。もう、程なく、体が眠りに耐えられなくなる。

 暖かな安寧に耐えられなくなり、冷たくも厳しい、現実を求めるようになる。


 ――暖かさよりも冷たさを求めるなんて、被虐体質なのだろうか。


 などと馬鹿な思考が浮かび上がってきて、つまりこの思考を『馬鹿な思考』と片付けられる程度には覚醒しているのだなと納得し――私は、諦めた。


 起きよう。


 のっそりと布団から這い出すと、冷たい空気が全身を包んだ。

 一瞬の緊張の後、すぐに弛緩する。


「は……ふぅ」


 小さくため息が零れる。

 九月も末。残暑もようやく通り過ぎ、朝晩の冷気が身に刺さるように感じられる頃。まだまだ暑く感じる日も多いとはいえ、寒さも無視出来なくなってきた。朝、布団から抜き出ただけで、身が引き締まるように思う。

 ベッドからずり落ちるように床へと転がり、周囲の冷気に体が慣れるのを待つ。ほんの数秒、ゆっくりと体を起こして大きくのびをする。


「う、んー……」


 鼻から息を抜くように目を閉じたまま両腕を後ろにそらす。短く頭を震わせて、まぶたに力を込める。

 そして、目を開ける。

 淡いグリーンの光に照らされた、少し暗い室内。いつもの私の部屋。

 腕を下ろし、息を吐くと、ようやく頭が正常に働き出したことを感じた。

 今日はいつになく、起きるのが億劫だった。

 朝の冷気、時間的余裕。眠り続ける理由はいくつも思い当たるけれども、それは昨日も、一昨日も同じこと。重度の眠りを欲するほど体が疲れている訳でもない。けれども今朝は、いつも以上に眠りの誘惑を断ち難かった。

 なぜだろう?

 大したことではないと思いながらも、疑問を消すことはできなかった。昨日までと今日の違いを考えながら、首を傾げる。

 辺りは静かだ。私の朝は早い。日課となっている早朝ランニングのため、少なくとも学校に向けて家を出る二時間前には目を覚ます。今日は昨日までより暗いように思う。ほとんど意識しない動作で机の上の眼鏡を取り、掛ける。枕元の目覚まし時計を眺めてみれば、六時をわずかに回ったばかり。いつもとほぼ時間は変わらない。パジャマを脱いで、ジャージに着替え、緑のカーテンを開ける。

 カーテンの向こう、窓の奥の世界は白かった。

 結露しているのかな、と初めは思った。


「……何これ」


 つぶやきつつ窓を開けるが、その向こうもやはり白かった。

 霧だ。

 深い霧が庭を覆い、世界を満たしていた。

 私は一瞬、茫然として立ち尽くす。

 見事な霧、と言って良かった。

 霧は、広い庭を完全に埋め尽くし、周囲の物質の輪郭をすべて曖昧にしている。離れの道場。表にある神社。道場から母屋へと続く石畳の小道。脇にある古びた井戸。裏手にある雑木林。それらすべてが霧に浸され、見慣れたはずの風景がどこか幻想的な――悪く言えば異質ささえ感じさせられるものへと変貌を遂げていた。

 同時に気づく。

 今朝は静かだ。あまりにも静かだった。朝日と共に歌い出す、鳥の声すら聞こえない。裏庭の奥に広がる林の、木々の囁きすらも、霧に溶けて消えてしまったかのようだった。

 私は毎朝するように、庭へ出る。

 けれども頭の中は困惑に包まれていた。

 外に出ると、霧はそれほど深く感じられなかった。

 ぼんやりとだが、庭全体を見渡すことはできる。表の神社の鳥居も、見ることができた。

 体にまとわりつく湿気は、確実に冬の気配を纏っている。ジャージで全身を覆っているとはいえ、一走りして帰ってきた頃にはどうなっているかわからない。きっと全身べっとりと濡れてしまうだろう。水気を吸ったジャージが普段以上の負担を体に課すに違いない。水気が体の熱を奪い去り、風邪を引いてしまうかもしれない。

 実際に動き始める前から、そんなネガティブな想像が頭を浸し、日課を進めることに二の足を踏んでしまう。


「――未央みお


 戸惑い庭先で突っ立っていると、背後から声を掛けられた。

 振り向くまでもない。よく知った、父の声。見ると、道場の方からぼんやりとした長身の人影が近づいてくるのがわかった。


「お父さん?」

「これからかい? 今日はやめておいた方が良い」


 父も当然、私の日課を知っている。だから、早朝ランニングのことを言っているのは、考えるまでもなく明らかだった。


「……どうして?」


 父の言葉の行方がわからず、問い掛ける。父はすぐには答えず、ゆっくりと歩いてきた。一定のリズムを刻み、砂を擦る音が響いてくる。痩せぎすな長身の輪郭がゆっくりと浮かび上がってくる。身につけているのは紺の胴着。ゆったりした輪郭が、父の姿をいつも以上に大きく見せていた。右手に竹箒を持っているのは、庭の掃除をしていたからなのだろう。箒の先を地に着けないように、やや右腕を曲げ、確りと握りしめていた。


「この霧だ。前も見えず、危ないだろう」


 私の前で立ち止まり、父は辺りを見回しながら言った。


「この程度の霧なんて……」


 反射的に反抗の言葉を漏らすが、不意に、父の言葉の意味に思い当たった。

 私の家は。

 正確には、私の家や神社や古武術道場を含んだこの土地は、上弦の住宅街からはやや高台に当たる丘の上にある。

 家の裏には林が広がっているが、高台の土地はわりと広く、空気の留まりにくい地形になっている。故に流れる風は常に強め。本来、霧が溜まりにくい土地のはずなのだ。その土地これだけの霧が出ているのだ。下の住宅街は、どんなことになっているのだろう。


「鳥居から下を見なさい」


 言われるままに私は駆けて、鳥居のそばまで行く。鳥居の間から下の住宅街へと続く長い階段を除いた瞬間、息を呑んだ。

 真っ白の海に、灰色の階段が飲み込まれていた。本当に真っ白。丘の上も十二分に白いが、住宅街の様子はその比ではない。どこを見ても真っ白で、屋根一つ見えやしなかった。

 古くからある神社の階段は、安全性よりも効率を重視してか、やや急に感じられる。一寸先ほども見えづらいこの視界では、階段を下りることにすら危険を感じられた。

 茫然としていると、いつの間にやら父が隣に来ていた。


「最近は、何かと物騒だしな。家で大人しくしてなさい」


 そう言って、父は手に持った竹箒をなぜかくるりと宙で一回転させて、傘の方を天に向けて肩に担いだ。

 意味のわからない動作に、私は目を瞬かせる。

 何をやってるんだろう。

 箒じゃなくて、竹刀や木刀だったら様になる行為だけれども。

 そんな私の疑問の視線を感じたのだろう。父は意外そうに、口を開いた。


「聞いてないか? ここ最近、霧の中に出るという怪異の話を」


 いや、私の疑問は、あなたの動作に対してであって、台詞にではないですから。

 反射的にツッコミを入れそうになり、私はどうにか言葉を抑える。

 無理矢理言葉を収めたため、妙な表情になってしまったのは間違いない。私の表情をどう読み取ったのか、父はうなずくと、霧の中の怪異について、説明を始めた。


「ここ半年くらいだな。霧の中に巨大な化け物の影を見ただとか、霧の中を歩いていたら気づくと全然知らない場所へと移動していたとか……深刻な被害は、今までの所幸いにして起きていないようだけれども…………本当に知らないのか? 若者の間では結構広まっているという話なのだがな」


 だから知っているってば。

 それどころか、普通の人と比べて、深く関わっている方だとも思う。

 正確には今年の春、三月頃から起こり始めた現象だ。

 私がそれを、現実的なものとして捉えたのは、四月に入ってから。

 一番の親友と呼べる、一人の少年が深く関わって、それに巻き込まれる形で、私もその存在を知るようになった。あくまでも、部外者としてだけれども。

 現実的な脅威をも呼び起こす幻を構築する現象。

 光花市は、それを『特殊現象』と、何の捻りもない言葉で定義して、密かに対策する組織を作り上げている。

 必ず霧を伴って現れる怪異。それと戦う人々。特殊現象対策課。私の親友、時坂ときさか悠木ゆうきは、そこでアルバイトをしている。


「うん、聞いたことがある。初美はつみとかと、よく話してるし」


 けれども色々知っている言葉は心に納めて、私は別の友人の名前を出して、何食わぬ顔で話を治めにかかった。けれども、霧の怪異なんて、一般的には単なる都市伝説というか、噂の域を出ていない現象のはずだった。父としても、霧の怪異に実質的な脅威があるとは考えていないのだろう。ただ霧に関する最もホットな話題として、提示したにすぎないのだ。


「そうだね。だったら今日は止めておく」


 言いながら私は考えた。

 この霧は、その霧なのだろうか。

 特殊現象に伴う霧。

 今までその二つを絡めて考えてこなかったのは、寝起きで頭が回っていなかったからだろうか?

 ともあれ私は、鳥居に背を向け、母屋へと戻っていく。時間が大分余ってしまった。朝食まで、何をしよう。普段は町内を軽く一周、四〇分ほど走った後、シャワーを浴びて朝食を食べる。そうすれば、学校へ行くのにちょうど良い時間になる。余裕は一時間半ほど。何かみたいテレビがある訳でもなく、学校の予習など、やる柄ではない。どちらかと言えば、ランニングが出来なくなった分、何か他で代用できること――つまり、体を動かすことがしたい。けれどもこの霧の中で出来ることなど、ほとんどない。思いつかない。困ったなと、小さくつぶやいた。

 その声が聞こえた訳でもなかったのだろう。

 ――いや、今朝は普段以上に静かだから、やはり聞こえたのだろうか?

 父が遠慮を多分に含んだ声で、提案してきた。


「体を動かし足りないんだったら、道場へ来てみないか?」


 思ってもみない言葉に、私は勢いよく振り向いた。


「いいの!?」

「ああ、たまには良いだろう」


 うなずく父の表情は、霧に隠れてよくわからない。けれども、言葉は確かに許可を与えるものだった。

 珍しい。どういう風の吹き回しだろう。

 私の家は、代々古くから古武術を伝えている。詳しいことはあまり知らない。父が、私に関わらせようとはしなかったからだ。幼い頃――小学校の三年生頃までは、そうでもなかった。父も――何より、祖父が、熱心になって、私に九石流古武術の基礎を教え込もうとしていた。父と母の間に子供は私一人しかいなかった。祖父の息子は父一人で、他に血縁はいない。だから仕方がない、ということもあったのだろう。特に祖父は、私を男の子のように扱って。そして私も、自分自身を男の子だと、時々勘違いしているような所があった。

 状況が変わったのは、小学校の三年になってからだ。

 夏頃だったか、秋頃だったか、詳しい時期は覚えていないのだけれども、ある変化が、私の身に起きた。

 視力が落ち始めたのだ。原因らしい原因は、今も思い当たらない。父も母も、特に視力が悪いということもなかったので、遺伝とも違うのだろう。古武術の訓練で、何度か頭を打ったことも――私はよく覚えていないが――あったらしいから、ひょっとするとそれが一因となっていたのかもしれない。

 今となっては、どうでも良いことだ。

 しばらく病院へと通うようになったが視力の減衰を止めることはできず、生活に眼鏡が必須となった頃。眼鏡を掛けた私を見て、父は私が武術に関わることを禁止した。

 当然だろう。眼鏡をしたまま、武術をするのは危険すぎる。ましてやコンタクトレンズなどは以ての外だ。私の、体の安全を考えるならば、武術を続けるなどという選択肢は存在しなかった。

 私もまた、古武術の習得に深い執着があった訳でもなかったから、特に気落ちすることもなく止めることができた。けれども、日常となっていた運動を止めることはできず、高校生になった今も、毎朝ランニングを続けている。



 ――後で聞いた話がある。



 当時の私の耳には届かないように、両親や祖父が気を遣ってくれていたのだろう。

 九石流古武術が無くなってしまうことについて、祖父は最期まで抵抗を示し、そのことで父と度々口論になったという。最期まで。祖父は、三年前に他界した。特に重い病気になることもなく、静かな最期だったのだが、きっと色々と心残りはあったのだろう。


 たとえ話をすれば。

 あの頃、もし私が祖父の希望を知っていたならば、古武術を続けていただろうか?

 いや、それはないだろう。

 視力が悪いという事実は、変えられない。

 そしてそれは、武術をやる上で、この上ない欠点となる。

 武術をやるために、視力回復の努力くらいはしたかもしれない。

 しかしその手段として、確実性のあるものを私は知らない。レーシック手術なんかも、当時はほとんど知られていなかったし。たとえ当時の私がその存在を知っていたとしても、小学生の身では、受けることは適わなかっただろう。

 そもそも私の元々古武術に対する興味は、それほど大きくはなかったし、熱意もなかった。それは幼い頃から繰り返してきた、ただの日課のようなもの。好きだとか、嫌いだとか思う以前に、当たり前にそこにあった存在だった。感情が伴わないから、ある日突然それを取り上げられたとしても、ああそうなのかと、無感動に納得するだけだった。喪失感も開放感もなかった。古武術の存在は、私にとってそれほど大きな存在じゃなかった。体を動かすことは好きだけれども、たぶん、そんなに才能もない。つまり、たとえ視力のことがなかったとしても、最終的には祖父の希望通りにはならなかっただろうと、思うのだ。

 そのことは今でも――普段表面に出てくることはないが、私たち家族の、しこりとなって残っている。

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