手作り行楽弁当の話
時空剣-1(時空をまたぐ装飾品について)
「絶好の行楽日和だな、準備はできているか?」
リロイの屋敷はいつも通りだった。普段よりいくらか地味な格好をして、風呂敷包みを提げたヴィクターは調剤室に踏み込む。書斎にも私室にもいないときは決まってここだ。意気揚々と見渡せば、誰かが床に蹲っているのが見えた。咄嗟に駆け寄ると、そこにいたのは床に尻をついて髪をびたびたに濡らしたリロイだ。ヴィクターは手袋をはいた黒い手でさっと目を覆う。まずいものを見てしまったと反射的に思う。
「何、何してるんだよ、こんなところで!」
「……髪を洗っていただけだ。良識全てを家に忘れてきたのか? 急に入ってきたくせ俺のやることに文句を付けようとは、すこし会わない間にずいぶん偉くなったと見える」
濡れて顔へかかる前髪をかき上げて、リロイは肩に回していた布で額を拭った。ヴィクターは乱れる心を落ち着かせようと考え、雫のしたたる毛先や、水気を含んでじっとりと暗い色になった毛束、頬に張り付く金の糸からつとめてゆっくり意識をそらした。リロイが髪をギュッと絞る。床に置かれた水桶にばたばたと水滴が落ちて、それが殊更、耳に響いた。
「お、俺が来るってわかってただろ、なのに今になってもそんな格好で、なに、なんのつもりなんだ。俺は外で待つ、早いとこ始末を付けてくれ」
「俺が身支度を調えているのがそんなにおかしいか。まだ日中だ、廊下に出れば人目もある。その辺に腰掛けて待っていろ」
ヴィクターはリロイの方を見ないようにしつつ手近なスツールへ腰掛けた。髪を拭くバサバサという音、櫛を通すシーッという音、時折落ちる水滴のバタッという音を、過敏な耳は拾ってしまう。ここ数年、思い出せる内で一番気まずい時間だった。もう終わったか、と声をかけようとして顔を上げると、リロイは髪にクリームを揉み込んでいた。ヴィクターは唇を噛み、さっと床に目を戻す。
◆
「終わった。『待たせた』な」
リロイから発されたのは随分と棘のある言葉だった。ヴィクターはああ、とか、うん、とか、歯切れの悪い答えを返した。リロイの髪は手入れのせいか普段より滑らかで、ヴィクターの胸はまだ不愉快に脈打っていた。
「そんなに待ってないさ、あー、十分くらいだ……」
たったの十分か、とヴィクターは思う。まるで数時間に渡って拘束でもされたみたいに手足が痺れていた。リロイは怒ったような、あるいは呆れたような顔をしていた。
「待ち合わせの時間まではまだしばらくある。準備だってせねばならない。早く来るにしたって限度があるだろう。時間を守ってくれ、なんのために約束をしたんだ」
「悪かったよ! どうも長距離の短絡で時計がずれるんだ。対策をしてきたつもりだったが、約束を違えたことについては謝ろう」
ヴィクターは時計の蓋を開ける。つるんとしたガラスのカバー下で動く長針は、すでに約束の時刻を過ぎたと主張している。合わせないといけないな、と思いながら数回降って、リューズを引く。
「なんでこうも誤差が出るんだか」
「魔術リソースのもたらす揺らぎが時計の自動調整機構へ悪さをするんだろう。もしくは磁気か?」
「そんなわけあるか、俺の時計は機械式だ。自動巻きこそついているが、他から干渉を受ける機構はひとつだって搭載されていない。ずれるわけがないんだ。短距離間の短絡なら起こらない。なのに結果はこうだ。今、何時だ?なるだけ正確に教えてくれ」
言っていると、外から鐘の音が小さく響いた。
「ちょうど今のが十時の鐘だ」
「嘘だろ?」
反射的に言えば、リロイは不機嫌そうに眉を寄せた。
「何が嘘だと言うんだ。今まで公共施設の鐘が変な時間に鳴ったことが一度でもあったか?」
「ない。だが…… なあ、リロイ。お前、俺の言うことを信じるか?」
「信じるも信じないも、聞いてからだろう。言うつもりがあるんだったらもったいぶるな」
「そうだな、簡潔に言おう。そして信じてくれ。俺は『十時の鐘を聞いてから』ここに来たんだ」
「……保留だ。にわかには信じがたいが、ヴィクターが嘘をつくとも思わない。だがそれは、あまりにも……」
「全部本当のことだ。時計の示す時間感覚は俺の体感とも一致する。ほら」
ヴィクターは少し困ったような顔をして、手元の十時四十七分を指した盤面を見せた。
◆
「……あまり使わない方が良いのか?」
「そういって即座に試すやつがあるか。俺は移動に車を呼んでやっても良いと言っただろうが。何かあったらどうする気だ」
「今更と言えば今更だしな。そう遠くに来るのでもなければ大丈夫だろうよ。問題があるなら内々で対策が打たれる」
春先の冷たい風に吹かれながら、ヴィクターは川縁を見ていた。遠くに見える黄色い花はアブラナだろうか。時折白い花弁が風に乗って流れてくる。感慨深いような気分になったが、もう春なんだな、とは言わなかった。季節にまつわる出会いも別れも、学校を離れた身には縁遠い。それをわざわざ隣の男に言ってやるのは悪い冗談のようでもあった。
「澄んだ空気だ。こうして歩いていると平和そのものという感じがするな?」
「まったくだ」
リロイはそぞろ歩きのさなか、あちらこちらに鋭い目をやりながら手帳に何事かを書付けている。植生を見ているのだろう。仕事熱心なことだ、と思う。ヴィクターは河原に目をやり、石の種類を見るでもなく見ていた。太陽の位置が変わり、影も短くなった頃、ヴィクターは道の端で立ち止まるリロイへ声をかけた。
「もう大分歩いただろう。腹が減らないか? 弁当を持ってきた、一緒にどうだ」
「何か持っているなとは思っていたが…… 待て、どうだと訊ねたってことは俺の分もあるのか?」
「ある、たまには固形物を食べないとな。勿論、肩肘の張らないような場所でってことだぜ」
ヴィクターはそういって、座れそうな場所を探した。抱えていた風呂敷包みを広げれば、そこにあるのは行楽弁当だ。油揚げを開いた中に米飯を詰めたおにぎり、飾り切りをして花の形にまとめ上げた練り物、四角く切った具入りの卵焼き、焼いて切った腸詰め、付け合わせには菜花の煮付けが彩りよく詰められている。これらは全て、ヴィクターが家で作ったものだった。横から見るでもなく見ていたリロイが目を瞬いたので、ヴィクターはニヤッとした。
「どうだ?」
「手が込んでいるな……」
「人に教わって作ったものだからな。毒味はしたが、慣れた味付けってわけでもない。味の保証はできないぜ」
ヴィクターはリロイへ箸と取り皿を渡す。リロイは慎み深く礼を言って、ヴィクターが惣菜に手を付けてから自分の分を取り分けた。そのまま黙って二人で食べる。
「……良い先生を見つけたな」
「そりゃよかった。なにぶん初めて作ったもんだからな。そういってもらえるとありがたい」
グラナトにも礼を言わないとな、とヴィクターは独りごちた。水筒から茶を出してカップに注ぐ。手で扇ぎ、匂いを嗅いでからヴィクターはそれを呷った。
「お前も飲むか?」
「自前のを持っているが。いや、いい、もらおうか」
差し出されたカップへたぱたぱと注いでやる。リロイが口を湿らせるのをじっと見ていると、僅かに表情が動いた。
「なんと言うべきなのか適切な言葉が見つからないが。腕を上げたな」
「本当か? でもお前の作るやつとはなんか違う気がするんだよ。そこが秘密の調合ってことなんだろうな」
リロイは少し変な顔をしたが、続く言葉は、何も変わったことはしていない、とそれだけだった。
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