返却-5(遺失物と回顧の澱について)

リロイの書斎は変わらず埃っぽく、どんよりとけぶっている。人払いのために炊かれる香は、変わらず細く煙を上げていた。ヴィクターは扉を開け、ズカズカと入っていった。本棚の隙間に立つリロイは先日と同じ格好のまま、どこか途方に暮れているようだった。

「なんだ、ヴィク。もう返しに来たのか。俺は今忙しい。かかずらっている場合では……」

「……なんだ、酷い格好だな。捜し物は見つかったのか?」

機械的な動きでリロイは振り返った。疲れの見える目の中には、前にも見た燃えるような憎悪の色があった。隠されることのない感情の色はヴィクターの心に愛想笑いのような驚きをもらたした。濁った目のリロイは低い声で問う。

「何を知っている。何を見た。俺は捜し物をしているとは欠片だって言っていない。おまえは、俺の何を知っている? 」

まるで怪物だ、と思う。見知った男の知られざる一面は、月の裏側を思わせた。

「なにひとつだって知っちゃいないさ。だが、俺の思うような片付けだというなら途中でやめることだってできただろう。俺が前に来たときから今の今まで屋敷をひっくり返して回っているなら、相応に緊急性のあるなにかだってことだろ? 俺はお前の邪魔をしたんじゃないかと思って戻ってきただけだ」

ヴィクターは紙袋から本を取り出してリロイに渡す。

「中身を少しだけ見た。いくらかお前のことが書いてあった。お前が探していたのはこの本そのものじゃないか?」

「そんなわけないだろう。俺が探しているのは手紙だ。手紙。手紙……?」

視線が空虚を撫でる。大分精神にきているなと思ったが、声には出さない。

「後書きには手紙だと称される項目があったと聞く。一度、読んでみたらどうだ?」

勧めれば、リロイは手袋を外した。恐れるような指先が表紙をなぞる。

「……開けてみても?」

「許可なんか要るかよ、お前の持ち物だろ」

そうだな、と小さく呟いて、リロイはそっと本を開いた。しばらく読み進めていたところで、ふーっと一つ、大きな溜息をつくのが聞こえた。

「……ルック」

目を上げると、苦しげな顔でリロイが紙面を見つめていた。なんと言ったものかと思ってみていると、視線が僅かに合う。ぎょっと目が開き、さっと顔が逸らされる。

「……なんでもない。なにも、言っていない」



一人ではないのを忘れていた、と呟くのが聞こえた。つまり、今のは忘れろということだ。ヴィクターは頭をがしがしと掻いた。

「大丈夫か? 何か悩みがあるなら聞くぜ。ことによって解決の方は自分でしてもらわねばならんが。それとも、手助けが必要か?」

「不要だ。おまえがいたところで解決する問題では……いや、すまない。違うんだ」

相変わらず機嫌が悪い、と思っていたところに、急な謝罪が入り込む。ヴィクターは目を瞬いた。

「なんだ?」

「ヴィクターが解決の役に立たないと言いたいわけじゃない。原理上、解決することがないようなことなんだ。時間に関することだ。もういない人間に会いたいと思うことがある。あるいは、今居る人間にも去ってしまうときが来ると。仕方のないことだ。だが、それが酷く堪える時がある」

「おまえにもそういう感性があるんだな。医療局に行って記憶処理の程度を強めてもらったらどうだ?」

言えば、リロイは少し怒ったような顔をした。

「簡単に言ってくれるな、それが副作用として何をもたらすか知らないわけじゃないだろう。俺は魔術士であることを降りるつもりはない。この歳だ、今更やめようという気だってないし、純粋な人間としてやっていけるとはもう思わない」

そうだ、人の身で扱える記憶の量は限度がある。物心がついて十年と、直近三十年分が関の山とはいえ、それ以外の記憶を消してしまえば年長のものとしての有利はなくなってしまう。そしてそれは、必要のごとに戦いへ身を投じる魔術士身分では遠回りな死を意味する。ヴィクターは冗談であることを示すように肩をすくめた。

「わかっているさ。まあでも、本当に困ったときの手段として覚えておいても損はないだろ。これでも気にかけているつもりではいるんだぜ。俺とおまえは同世代だものな」

リロイは口を噤み、じっとヴィクターを見た。髪の先から、服の模様、襟を囲むレースの帯、その全てを記憶に刻み込むようにまじまじと。あんまりじろじろ見られるので、ヴィクターは居心地が悪くなる。

「なんだよ。そんなに見られたら穴が開くだろ、本当になんなんだ」

「ああ、いや悪い。言われてみればその通りだと思って……」

「忘れてくれるなよ。おまえ、自覚している以上に意識が怪しいんじゃないのか?というか、ずっと忙しく片付けていたんだろ。俺はもう帰るからおまえも着替えて寝たらどうなんだ。体力に任せて不養生ばかりしているから気鬱にやられるんだ、そうだろ?」

「ああ…… もっともだな……」

言ったあとも、リロイはヴィクターのことを見つめていた。前来たときは即座に追い出されたのに、今日ばかりは引き留めるような視線の運びがどうにも気にかかった。

「それともなにか、俺に言いたいことでもあるのか?」

考えるようなそぶりの後、たっぷり数分待ってからリロイは口を開いた。

「……ある。聞いて欲しい話と、頼みたいことがそれぞれに」



「……手紙の中身についてだ」

リロイの言うことは突然だ。少なくともヴィクターはそう思った。

「先の戦争についてルックは、俺たちに感謝を述べている。無論これは戦った全てのものに対してのことだから、おまえのことも含んでいる。仮初めの平和は盤石なものになった。太平の世は実現した。ぼろぼろと抜け落ちるように人の消えるかつての社会は消え去った」

「……続けてくれ」

「不慮の死は世から一掃されたと言って良い。その上でも死は絶対の理だ。魔術士である俺たちは時間の流れが文字通り違う。別離が世の常と理解している。俺は……平和な時代が続くことを願っている」

「そりゃ、そうだろ。好きこのんで戦乱に突っ込みたがるやつがどこにいるんだよ」

どうにも話の芯が食えないなと思って聞いていれば、リロイは迷うように目を伏せる。

「『女王への謀反を考えている人間がいる』というのは、議会に長く伝わる噂話だ。不自然なほどに。不信に実体があるのではないかと疑いを持つほどに。だからなんだというわけでもないが、内乱が起これば俺も無関係ではいられない」

「……議会の指輪付きと事を構えることを警戒しているのか? あー、違うな。今回お前の言うことは、『見知った、長く生きるやつの頭数を減らしたくない』だ。リロイ、おまえ、今日は大分やられているな。薬でもなんでも飲んで寝ろ。子守歌が必要なら歌ってやる。無論おまえが寝るまでだ」

そこでふとヴィクターは、リロイの言葉を思い出す。聞いて欲しいこととは別に、頼みたいことがあると言っていた。

「そういやリロイ、もう一つの頼みたいことってなんだ? 寝に入るならさっさと済ませた方がいいだろう。時間のかかることだって言うなら聞いておいてやる」

視線が気まずく逸らされる。一体何を頼もうと言うんだ、と思うが、リロイはまごつくばかりだ。言ってみろ、とつつけば、リロイは渋々と言った様子で口を開いた。

「その……近親者同士で挨拶をするだろう、そういうふうにして、俺を抱きしめてくれ」

「……なに、なんだって?」

「いい、なんでもない、変な事を言った。忘れてくれ」

耐えがたいとでも言うようにリロイは体を向こうへ向けた。ヴィクターは目をパチパチと瞬き、何を言うんだよ、と言った。

「遠慮するなよ、やる、やってやる。さっきのはよく聞こえなかっただけだ。ほら、ハグだろ? こっち向け」

手招きすれば、相変わらず見慣れないような格好のリロイはゆっくりとこちらを向いた。ヴィクターは歩み寄り、気が変わったと言い出す前に、腕を広げてリロイを抱き留める。

「こういうときはなんて言うんだ? 『ひさしぶり』とかでいいのか? 俺たちは昨日にもあったけどな」

無言のまま、背中に腕が回された。リロイは近親者と言った。ルックと呼ばれた男とこういう風にしていたのだろうな、とヴィクターはぼんやり思った。八十年にも前に。体が僅かに震えている。ヴィクターは強く締まることのない腕の中で、遺される側というのは哀れなものだ、と無感情に思った。


腕が解かれて体が離れるとリロイはさっと背中を向ける。顔を隠しているところは気付かないようなふりをしておいてやる。

「……もう一度やっておくか?」

「つきあわせたことはすまなかった。感謝する。だが、もう一度はいらない。悪いが、今日はもう帰ってくれ」

ヴィクターは肩をすくめてから、相手の目がこちらを向いてないのを思い出して、つれないな、と努めて軽く言った。

「俺の歌は聞きたくないって言うのか? まあいい、俺は帰る。ちゃんと布団に入って寝ろよ」

じゃあな、といって扉に手をかければ、背中に声がかかる。

「……今日ばかりは迷惑をかけた。近いうちにまた寄ってくれ。歌も、そのうちに」

待っているから、と言葉は続く。ヴィクターは振り向かない。珍しいこともあるものだと思いながら、ヴィクターは指を立てて短絡路を開く。

「それじゃ、土産の一つ二つ、包んでくることにしよう。そしたら茶でも出してくれ」

言って、ヴィクターは短絡路へ飛び込んだ。来訪者がパチンと消えたあと、残されたリロイは本を寝台の脇に置き、濡らした布巾で顔を拭った。そうして布団にくるまり、次に目が覚めたときには忘れているであろう、在りし日に思いをはせながら眠った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る