指輪-5(複製された密室の鍵について)
「……俺は『やめろ』と言ったんだ」
胸を押さえ、額の汗を拭うミルカから顔を背け、ヴィクターはぶっきらぼうに言う。
「まあ嫌そうな顔。……それならもっと蔑むような目を向けて、私のこと詰ってはくれないかしら?」
いいかげん返事をするのも嫌になってきたな、とヴィクターは思う。
「……俺に嗜虐趣味はない。どうしてもというのならシャノンに頼んでくれ。頼みと聞けば多少なりとも聞こうという姿勢は見せるだろう。あいつとどんな関係なのかは知らないが……」
言ってから、口にするべきではなかったな、と思った。どうにも焚かれる香が良くない。僅かずつだが、確実に抑制を奪っている。強く押されたら今度こそおかしな事になるだろう。それとも、もうなっているのだろうか。空虚な焦りが実感もなく湧きあがり、切迫することもなくただ曖昧に胸を満たす。
「どんな関係なのかですって? ウフフ、他人なの、今、頑張って口説いているのよ。いやになるくらい生真面目で、融通が効かなくて、わたしの心がまだ自分のお兄さんのものだと思っているあの人のこと! あなた、不満を隠しもしないのね。悪くないわ……」
言葉をわっと浴びせられ、ヴィクターは徒労感に苛まれる。見せないようにと手は尽くした。隠しもしないなどと言われるのは心外だった。この空間では努力はろくに実を結ばない。なれば最初から怒鳴る方がいくらかましだっただろうか? ヴィクターは眉をしかめ、深くため息をついた。
◆
ミルカの話へと相槌を打つ。話を聞いてやってくれとは言われたが、よもやこんな事になるとは。堂々巡りのあわい、五回に一度『聞いているの』と問われるので、ヴィクターはミルカが望むように『興味がないから聞き流している、気の済むまで続けてくれ』と答えた。
「そうね、知っている。わかるもの! シャノンもそう、私に全然興味なんてないのに会いに来てくれる。文句だって言うわ。悪くてずるい、ひどい女だって!」
ヴィクターはため息をつく。
「酷い女だというのは同感だ。俺はこんなことをしに来たわけではなかった」
嘘が嫌いらしいから言わせてもらうが、正直俺はもううんざりだと思っている、と言って、ヴィクターは足を組み、肘を組むように頬杖をついた。ミルカは全くもってその通りだとでも言うように尊大に頷き、言葉の全てを無視して喋り続けた。
「……でも考えてくれるのよ。私が困らないようにって。変ね、そんな義理ってないでしょう? 私とシャノンは他人なのよ、まだ、今のところは。シャノンはそれを永遠にだってできる。でもしないの。おかしな人。でも私だってそうね。私とおんなじ、おかしな人なの」
ギラギラと獰猛に光る目を眺めながら、とんでもない女に捕まったものだな、とヴィクターは半ば他人事のように思った。あるいは、他人事なのかも知れない。この身体と関係性自体はシャノンのもので、自分はそこへ偶然割り込まされたに過ぎない。まったく、いやになるといったらない。
「わたしね、融通の利かなくって変なところ生真面目で、全然筋の通らないシャノンのことが好きなの。変でおかしなあの人に、夢中になってしまったの!」
ミルカは黄色い声を上げた。ヴィクターは反射的に文句を言いかけ、口を噤む。耳を塞いで怒鳴り散らさずいられないような声量だって、今は気にならない。そのことが借り物の身体を意識させ、ヴィクターは殊更妙な気分になった。
「……もうその辺にしておけ、喉が枯れるぜ」
◆
「聞いてくれてありがとう。こんな風に自分の話をしたのなんていつぶりかしら。城じゃ誰にも知られるわけにはいかないもの」
母様にも、妹たちにも。軽く放たれる言葉の隙間に色濃い孤独の気配が漂い、ヴィクターは僅かな同情を覚える。瞬間、ピリッとした危機感が脳を叩いた。長年魔術士を続けた故の本能が、踏み込まざるべき領域だと示す。遅れて、なるほどこれは術士の女だと思った。魔術に馴染み、僅かな隙間から侵入してくる。……
「……付き合ってはいられない。気晴らしになったのなら何よりだが、身の上話を聞くのもそろそろ限界だ。義理は果たした、俺は帰らせてもらう」
啖呵を切ったヴィクターへ怖じ気づくこともなく、ミルカは不服そうな顔さえしてみせた。
「あらそう? 私はもう少し居ても良いと思うのだけど、そういうのなら仕方がないわ。今日はきてくれてありがとう、あなたのこと…… どうしたの?」
止まった指先を不審に思い、ミルカは訊ねた。ヴィクターは鎖に指を絡めたまま呆然と言った。
「……鎖の外し方がわからない……」
「えっ……?」
今度はミルカは絶句する番だった。目を瞬き、たっぷり三秒顔を見合わせた後、先に自失から立ち直ったのはミルカだった。
「なにも……なにもせず少し待っていて。あなたのこと、傍仕えの子に知れたらおおごとだわ。着替えさせてあげるから、そこで疲れたような振りでもして眠っていなさいな」
端的な指示へ漫然と頷きながら、傍仕え達はいくらかまともな感性をしているようだと思う。知れたらおおごとになるようなことを、それと認識した上で平然と行うミルカへは呆れを通り越し畏怖さえ感じる。ヴィクターは身体を横たえた。目を瞑っていることを確認したミルカは声を張り、年若い傍仕えの女を呼んだらしい。あれこれと注文を付ける声が聞こえ、止む。
「起きて。行ったわ。鎖を外してあげる」
ミルカはまず自分の鎖と薄布を外し、それからヴィクターの衣装を順番に外した。身体を簡単に拭き、それぞれ用意された服を手に取る。キルトの留め方がわからずまごついていると、呆れたようなミルカが片端から留めていった。それからコートも同様に。手を借りる度いたたまれない気持ちになって、最後、剣を受け取ったヴィクターは沈む気持ちのまま頭を下げた。
「すまない。助かった」
これで貸し借りなしね、と言ったミルカに再度の謝意を示す。僅かな後ろめたさを感じつつ、ヴィクターは形式的な別れの言葉を口にした。五歩の距離を取り、時空剣で空間を割く。踏み込む寸前、ヴィクターは足を止めた。
「……つかぬ事を聞くが、俺が今ここから姿を消したら、なにか……そちらに不都合があったりするか?」
首を振り、ミルカは少し意地悪く微笑んだ。
「そこは気にしなくって大丈夫。あのひとね、用が済むといつの間にか姿を消すの! 勝手に!」
それこそ煙みたいにね、とミルカは言った。ヴィクターは目を見開く。
「……酷い男だな!」
作為のない反応がよほど面白かったのか、ミルカは吹き出した。アハハ、と心底愉快そうに笑う。
「そうでしょう? 聞いてくれただけ上等! さようなら、異国の術士さん。シャノンによろしくいっといて頂戴」
「……承った」
振られた手に軽く返し、ヴィクターは今度こそ裂け目へ飛び込んだ。
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