指輪-6(後を引かない白昼夢について)
転送されたヴィクターは着地に失敗し、たたらを踏んだ。用の済んだ時空剣を鞘に収め、ノックの後に扉を開く。向こう側に見慣れた顔が覗き、ヴィクターはぎょっとした。鏡もないのに自分の顔が見えるというのはどうにも妙な心地だった。
「戻られましたか。……その、首尾の方はどうでしたか」
「何も聞いてくれるな。契約破棄を急ぐ。具合はどうだ?」
「……リロイから薬をいただきました。痛みは和らぎましたが、どうにか抑え込んでいる状態と言った具合です」
テキパキとした口ぶりとは裏腹に、気まずさを湛えたシャノンの目がどうにも厭わしい。半ば騙すような手口で面倒を押しつけたことを曲がりなりにも気にしているのだろうか。あるいは関係したのを疑ってか。ヴィクターは向けられた視線に耐えかね、がしがしと頭をかいた。
「なんだ? 何か言って欲しそうだな? ……怒らない代わりに謝りもしないぞ、俺はできることをやったまでだ。務めは果たした、文句を言われる筋合いはないし、聞く気もない」
シャノンは黙ったまま何も言わない。ヴィクターは口を開いたことを後悔したが、降りた沈黙はそれ以上に重苦しい。ともあれ当座の問題は健在であった。ヴィクターは振り返り、我関せずと経過を見ていたリロイへ溶媒の酒精を融通するよう申し入れた。返事をする代わりに目を細めたリロイへ違和を覚え、ヴィクターは今の自分がシャノンの姿をしていることを思いだした。
「……ああ、それからグラスも貸してくれ。対のものであればなお良い」
「なぜ俺の所でやろうとするんだ。いや、何も言うまい…… グラスだな……」
もはや不平も口にせず、リロイは用意を受け持った。ヴィクターはシャノンを座らせ、借りた杯へ酒を注ぎ、机に乗り出して腕を組む。零さないように握り込み、狭い可動域に合わせるようグラスを口で迎えた。顔を近づけたままグラスを干す。どちらからともなく濡れた唇を合わせると、酒精に火照る舌を押し付けて唇を食む。粘膜に並ぶ味蕾の粒はすりあわされて舌を削り、酩酊が目に作用する。ぐらりと視界が歪むような感覚のあと、覚えのある重苦しさが頭に戻る。親しみ深い感覚は紛れもない、これこそ永きを共にした自分の体だと実感する。ヴィクターはそっと目を開く。眼前に伏せられた睫毛は見知ったような亜麻色だ。そのことをよくよく確認してから、ヴィクターはゆっくりと唇を離した。
◆
「……さしてうまいものではないな」
腕を解き、グラスを置いたヴィクターは口を拭う。開口一番にそんなことを言われたリロイは、運んでいた茶器の盆を苛立った様子で机に降ろした。
「人に蔵を開けさせておいてその言い様か? 状況説明もなしに面倒ごとを持ち込んで、その上出されたものにまで文句を付けるとはなんのつもりだ」
「わかっている! 感謝しているさ。
目を細め、しばしの間見つめ合う。ヴィクターは表情を崩し、さておき目が回ったようだ、と言った。俺のために茶を入れてくれないか、と続いたので、リロイは当てつけがましくため息をついた。
「全く調子の良い…… 濃度の高い酒精は粘膜を荒らす。手入れも無しに放置すれば悪化する場合もある。シャノンもこちらへ来て飲むと良い」
ポットへ湯と茶葉を突っ込み、リロイは手早く茶の用意をした。華やかなフレーバーが湯気に乗って広がっていく。ヴィクターが目を向けると液汁は鮮やかな橙色をしていた。
「珍しい、何を入れたらこんな色になるんだ?」
「……添加物がある。酒の毒に効く調合だ。即効性のあるものではない……が、悪いことは言わないから飲んでいけ」
そう言うと茶を二人へ供し、リロイは茶菓子を取りにいった。
◆
「……どうも酒毒に当たったようだ。少し休ませてもらっても良いか?」
出された茶菓子にも手をつけず、ヴィクターはそう言った。リロイはため息をつく。
「好きなだけ休んでいったら良いだろう。まったく……」
すまないな、と返すヴィクターが立ち上がると同時にふらついたので、リロイとシャノンはそれぞれに手を伸ばして身体を押さえた。
「一体どうしたんだ、酔うような身体でもなかろう。体質に変化でもあったか?」
「なんだろうな、こんな風ではなかったと思ったが……」
目をやれば、顔は頬紅を塗ったように赤らんでいる。カウチへ座らせ、とにかくまずは水を飲め、といってリロイは水差しを押しつけた。
「なにか普段と変わったことは? 前に食事を取ったのはいつだ。何を食べた?」
「食事か? 昨日の晩に軍糧の油羊羹を食べた。そんなに時間は経っていないと思ったが……」
空腹によるものかもしれないな、と言ったヴィクターに対し、リロイはピタリと動きを止めた。
「油羊羹……昨日の晩? ……紙包みのやつか!?」
リロイはヴィクターを突き倒し、手袋を引き剥がそうとした。ヴィクターは抵抗の意図を見せたが、力が乗る姿勢をとるより早く抑え込まれた。リロイはギッと至近距離から睨む。
「……代謝阻害の指輪だ! 付けているんだろう? 食事の融通はしよう、爪も伸びれば切る、湯だって好きなだけ使わせてやる! 死にたくなければ今すぐ全部外せ! 今すぐだ!」
勢いづいてリロイは言った。ヴィクターは肩を跳ねさせ、茶器の置かれた机の方へ目をやった。
「お、おい……! 今はシャノンがいるんだ、言うとおりにするからあまり大きな声では……」
言っている場合か、と言い、リロイは手袋を剥ぎ取り素手に指を絡めた。指輪の表面をなぞり、反射や色味を見ようとする。
「待て、やめろ……触るな!」
さっと手を隠そうとして、ヴィクターは自身の指に感覚がないのを思い出した。覆い被さっていたリロイを膝で押しやり、呪文を唱えて指を動かした。難儀しながら二つ抜き、リロイの胸へと押しつける。
「抜いた! 本当に……本当に勘弁してくれ!」
「こっちの台詞だ! 面倒をかけさせやがって」
毒づくリロイと潰れる己の師、手つかずの茶菓子と空になったティーカップ。蚊帳の外に置かれたシャノンは困ったような顔をした。
「……帰っていいですか?」
◆◆
白い廊下に足音が響く。一人と一匹は、まっすぐヴィクターを探り当てた。
「やあ、ヴィクター。機嫌はどうかな?」
「ディアナか。ここで俺が『良い』なんて言うと思うか? 先日はおかげで酷い目に遭った! いくら俺が上官でシャノンの監督責任があるからと言っても、非のないことで他人に口出しされれば堪える……」
おもむろに鯉口が切られ、ヴィクターは身構えた。ディアナの表情は動かない。
「その件はすまないね。ところで今、少し良いかな」
「良くない、なんのつもりだ?」
「払わせてほしいなと思ってね。必要がないのはわかっているのだけれど、なんだか普段と違うものだから。……うん、私にはそう見えるという話だ、失礼」
言い終わったとき、既にディアナの刀はヴィクターを切り払っていた。かきむしるような疼きが腹や皮膚の裏を這い回る。硬いフィルムのキャンディ包みが口や髪や服の中から苦痛と共に生成されていく。ヴィクターは身体を硬直させ、口腔を埋める葡萄粒大の包みを床へ吐きだした。床に蹲るヴィクターを、ディアナは直立不動のまま見下ろした。
「……ねえ、ヴィクター、それは侮辱というやつではないのか?」
「一方的に害しておいて説教とは良い趣味をしているじゃないか! 確かに通り魔と変わらないとは思ったが、そう間違った評価でもなかろうよ」
それより頭を覗くなと何度言ったらわかる。言ってヴィクターは口を拭った。ディアナは目を瞬き、心外だな、と返した。足下でドゴは散らばった包みを拾い集め、篭を咥えた獣は去る。
「……それで、何かわかったのか? あのあと指輪はどうなった」
「指輪は議長に返したよ。わかったかについてはなんとも言えないな。その後のことは知らない…… ああそうだ」
ならいい、と言いかけたヴィクターは付け足された一言に眉を上げる。なんだ、と聞けば、ディアナは別にたいした事じゃない、と言った。
「少し流れが変わったらしい。近く、婚礼が行われるようだ。用意をしておいた方が良いかもしれないね」
ヴィクターはおや、と思う。ディアナが催事に言及するのは珍しいことだった。
「用意? 近くとはいつ頃だ?」
「五百年よりこっちだな。うん? うん。五百年よりこっち、未来方向、四百八十五年以内に身近な間柄の中で結婚式があるよ。私が出るかどうかはわからないな」
腕を組んだディアナが最もらしく言ってみせるので、ヴィクターは顔をしかめた。
「お前のその予言のいい加減なところ、どうかと思うぜ。いや、知っている。どうにもならないのはわかっている。言わずにはいられなかっただけだ……」
対象までわからなければ用意も何もあったものではない。ディアナはいつものように軽く肯定し、声はいったん途切れた。
「……四百八十五年先にヴィクターはいないようだ。いや、どうなんだろう。三百十三年先はよくわからないな。二百五年先は? 長く生きるというのはどういう感じなんだ?」
沈黙は破られたが、続く独白と質問はあまり行儀の良いものではなかった。ヴィクターは苛々と剣の提げ紐を掻いた。
「本人の目の前で今際の際を探るんじゃない。答えないぞ、長生きだって自分でしてみたらよかろうが。女王のお前なら指輪も要らないだろう」
「おや。それはもっともな意見だ。そうさせてもらうとしよう」
あなたの言うことは正しいようだからね、と返し、ディアナはゆっくりと歩き出した。契約は成らず、私に指輪は必要ない。女王の私、女王の私。遠ざかるディアナの声が消えれば、白い廊下には苦いため息が落とされた。
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