指輪-3(並ぶ炉燻る特別の室について)

すっと入ってくる清涼な空気に、肩の力が抜けていく。室内に満ちるのは焚香ふんこうだ。僅かに覚えのあるような調合はオフィキナリスだろうか。ほのかに色づいた空気の向こうに金の髪をした女がいた。

「おはよう、寝坊助さん。あなたのこと待っていたのよ」

甘い声で呼ばれ、ヴィクターは曖昧に微笑んだ。この人がミルカだろう。肌を覆う機能を持たないほどに薄い衣。細い金の鎖。角を彫って作った小さな飾りは丸い乳房を縁取っている。何が『会うだけ』なんだと再度思ったが、今更どうにもならないので、ただただこの場を穏便に済ますことだけを考える。

「眠たそうにしてるって聞いていたけど本当なのね。ほら、ぼーっとしないのよ、こちらへいらっしゃい。まだ慣れないの?」

手を引かれ、シーツに尻をつく。慣れた慣れないの話が出るのならば、契りを結んで日が浅いのだろうか。シャノンは『顔を合わせてしばらくそこにいるだけで構わない』と言った。このまま流れに任せて良いのだろうか。ともあれ答えねばならない。普段シャノンがするように俯いて可能な限り声音を寄せる。

「……恥ずかしながら」

目を伏せたまま答える。慣れないことをするせいか居心地が悪い。『ミルカ』は花がほころぶように笑う。ヴィクターは鎮静効果のある香に燻されながら、肺を満たす煙の薬効について考えていた。



「ね、緊張しなくったっていいのよ」

伏せた手の上をミルカの指がさっと掃き、甲を滑る感触にわずかなりとも神経が反応する。手袋の下の肌がこんなに鋭敏であるとは! 長年の癖というのは厄介だ。事情を知らぬ女はただきゃらきゃらと笑っている。プロトコル通りの刺激は否応なしに熱を上げる。危機感を覚えれども、やめさせる手立てがない。どうするべきだ。このまま『代理』を続けるなら拒むのはまずかろう。しかし他人の婚約者と流れに任せて枕を重ねるのも褒められた行為ではあるまい。どうしたらいい、とヴィクターは考える。事故を装って昏倒させるか? 否、何か不都合があったときの責任が取れない。何より、シャノンに恨まれるのは避けたかった。

「どうしたの? 気分が乗らない?」

「……いや……少し、具合が優れなくて」

眠気を心配されるぐらいだ。気分が悪いそぶりでいれば逃れることも可能であるかもしれない。ヴィクターは額を軽く押さえ、それとなく相手の出方を見た。きょとんとした表情、悪感情は抱かれていないようだが、さて。

「そう? 眠たいって言っていたものね。体を横たえなさいな、少し楽になるわ」

顔が近付き、口元にぺたりと濡れた感触がある。甘やかな口づけだった。シャノンが結婚をしているという話は聞いていないが、婚約者よりは内縁の妻であるのかもしれない。その僅かな詮索も、脇腹をなぞられたことで霧散する。背筋を痺れが走った。若い体というのはこんなに聡いものか。首筋がなぞられれば脳の普段使わない範囲が鈍く反応し、古傷が疼くのにも似て気持ちが悪い。ミルカは身体へ乗り上がってくる。腿のたわむ柔らかな感触が逆立つ神経から侵入し、僅かに芽生えた色欲の情をあおり立てた。

「ミルカ……」

女は楽しそうに笑った。肩を揺らすのと同時に金の髪が流れる。

「んん? なにかしら」

滑らかな手が胸の飾りをひっかけて鎖を揺らした。誘うような皮膚刺激が、官能を、体の芯を押し開き、股の間のものを否応なく膨らませていく。熱い体にぞっとする。身じろぎすれば、ミルカが笑った。色の濃いダリアがいちどきに開くような笑顔だった。胸の上に柔らかな乳房が乗り、蠱惑的に誘う。内心に反して体は仕上がっていく。血圧が上がって息が苦しい。よもや覆い被さられることがこんな風だとは思わなかった。無様を晒すわけにはいかないと理性は叫ぶ。シャノンならどうする? 嫌がるのか、喜ぶのか。顔を覆って、背を寝台へと擦り付けるかもしれない。もっともらしい選択を得たヴィクターは、息を詰めてそのようにする。嬌笑は寝台に降り注ぎ、事態は次へと進められた。



迫る濡れた感触が局部を舐るように刺激する。覚えのある感触は、意識の外側から古い記憶を引っ張り出してくる。まずいな、と心のどこかで思う。胤を請われるというのは、個人の抱える自制の否定であり、放蕩の強要だ。白い肌と記憶の中のベトラが重なる。望まれた機能を果たすことが何より重要とされた。この身体はそれに合わせてきた。いや、『この身体』ではないのか。慣らされた身は屋敷に置いてきた。やるせない気持ちになりながら、途中でやめることはもうできないだろうな、とヴィクターは思う。不具合の理由があれば相手だって諦めも付こうものを、細やかに感覚を拾うこの体ではそれも難しい。治めるのは至難の業だというのは元より、慣れ親しんだ習慣は冷めることを許さない。


口を押さえ、声を殺す。なるだけ静かに息を吐く。腰に手を回しても良いものか。どうすれば怪しまれずに済む? 普段シャノンはどうしている? わからないことだらけだ。知っていても嫌だな、と意識の端で思う。しかし。しかし、積極的なやり方だった。相手の身体に乗り上げて貪るなどと! シャノンはいつもこんなことをさせているのだろうか? 違うだろうな、と思い直す。おそらく無法な振る舞いと知ったうえで許しているのだろう。ここに来てからというもの、こちらは指示の一つも出していない。半ば強引に、全ては流れ作業のように進む。やらされているにしては積極的の程度が過ぎた。


柔らかい部分をなぞられて、刺激に体がはねる。親しんだ感覚とはまったく異なる官能に、ああつまり、シャノンはここが良いのか、とぼんやり思った。面白がるような手に具合の良いところを繰り返しなぞられて、足の先まで痺れるようだった。神経が駄目になりかけているのを知覚する。無用な振る舞いをせぬよう努めなければとは思うも、勝手のわからぬ快楽はどうにも耐えがたく、あしらうこともままならない。こんな歳にもなって閨で不始末をしでかすというのは心に堪えた。ああでも、しかし。考えている間に熱は上がり、結局の所、望まぬ強制は止め時を失い、最後まで通り抜けていった。



ゆっくりと局部は引き抜かれ、股が自然に拭われる。手慣れているなとさえもう思わなかった。流れに飲まれかけた口がなにか気の利いたことを言おうとして開くのを、残った理性をかき集め、ぎゅっと塞いで抗った。今、目の前に居るのはベトラではない。何も言う必要はない。今の自分はシャノンの代理だ。言葉をかける道理はない。ぐたりとして動かないヴィクターの葛藤を知ってか知らずか、沿うように寝転がったミルカは胸へと手を這わせてくる。伸ばされた腕が首に絡み、高い体温が伝播する手触りに今更罪悪感が沸いてくる。ミルカは嬉しそうにウフフと笑い、慈しむように額を撫でた。甘やかなピロートークの予感へ、ヴィクターは視線を向けた。

「……ね、あなたシャノンじゃないんでしょう? わかるのよ。何かあったの?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る